三千世界、呪詛ばかりのようです
1 名前: ◆rZJ2e7H4aw[sage] 投稿日:2017/08/19(土) 00:21:04 ID:PKHUET3Q0




    壱ノ妙




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2 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:21:39 ID:PKHUET3Q0
思索に感けて足の向くまま歩いていると、随分と寂れたところに来た。
家こそ並んでいるが、人のいる気配もなく、先程も覗いてみたものの、洞か何かを見ている気分になった。
そんな通りなものだから、俺以外の人間がいるはずもない。
なんだか町全体が死んでしまったようだ。
ざりりざりりと草履を摺る音しか響かない。
かろうじて今は晩夏、――肝心の日差しはというと、とぐろを巻いたような雲に覆われているのだが――日没までにはまだ遠い。
それにしても、本当に静かな通りである。
帝大より歩き始めてから三十分ほど歩いたところに、かような場所があるとはついぞ知らなかった。
人によっては不気味に思える風景も、静かに物語を練っている俺には御誂え向きだった。
なにせ今は新作の、それも翻訳ではなく創作の小説を――原典となる物語は存在しているが、どうやってそいつを現代風に、
そして俺のいいように書けるのかを目下考え中なのだ――書こうとしているのだ。
故に足元の方はすっかり留守となり、目も曇っていたので、見ず知らずの土地へとやって来てしまったのだ。
こうしたことは度々経験していたので、ああまたやってしまったなと思うばかりで、少しも反省などしていない。
ただ今は、この静寂を楽しもうとさえ思っていた。
然し俺ではなく、他人がこんな通りに来てしまったら、恐らく心細くて気味悪がるだろう。
特に日の暮れた頃なんか、今にも何かが化けてきそうでたまらない。
怖がるのは男がいい、女ではか弱すぎる。
そして真に恐ろしいのは、女だと相場が決まっている。
現に幽霊は女ばかりだ、などと考えながら、俺は敷島を吸った。
肺の中をこの煙で満たしてやると、なんともいい心地になって、大学の教室でも吸ってしまう。
火気厳禁と書かれていたって御構い無しだ。
なに、火をつけているところを見られなければいい。
火気が禁じられているのであって、煙を禁ずるとは書いていないのだから、
と屁理屈をこねる俺に、ぽっつり、と頬に冷えた感触。
おや、と思わず声が漏れる。
雨が降り始まるらしい。
このまま通りをさっと駆けて、どこか店でも探そうか。
……いや、それよりもこのがらんどうな町を歩く方が心地よい。
俺は軒下を拝借し、もう暫く居着くことにした。
そうして何本煙草を吸ったことか、足元を見ればいいのだろうが面倒くさくてやっていない。
雨脚は先程よりも強くなり、段々と燐寸が湿気てくるんじゃないかと心配になってきた頃合いだった。

「もし、」

背後から突然に、男の声がした。

3 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:22:11 ID:PKHUET3Q0
振り向くと、

(´・_ゝ・`)「驚かせたようで申し訳ない」

下がり眉の男は、さして気不味い素振りもなく、そう言った。
次に俺は、相手の視線がやや下を見ていることに気付いた。
自慢じゃないが、俺の背は五尺五寸と高い。
それでもその俺と目が合っているということは、相手の立端が随分あるということになる。
そういえばこの男、居心地が悪そうに、やや背も丸めている。
鴨居すれすれに頭が掠めていくことが何度もあったに違いない。
そう思うと、俺はこの大男に親近感を抱いた。
俺も時々、頭をぶつけてしまうんじゃないかと思って屈む時がある。
大体そういう時は大袈裟に構えている事が多く、笑われてしまうのだが、ぶつかったら痛いのだから仕方がない。

(´・_ゝ・`)「図々しいことは承知でお聞きしたいことがひとつあるのです」

返事をせず、視線をやる様にして、なんの用ですか、と問う。

(´・_ゝ・`)「煙草を一本戴けませんか」

さして断る理由もなかった。
むしろ同じ愛煙家として、分けてやる方が心地いいものだ。
どうぞ、と俺は敷島を差し出した。

(´・_ゝ・`)「有り難う御座います」

お気になさらず、愛煙家の吉見です。
言いながら俺も敷島に手を伸ばす。
火をつけて、燐寸を振ろうとする前に、

(´・_ゝ・`)「あ、」

と声がする。

4 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:22:51 ID:PKHUET3Q0
見れば、相手は煙草をそのままにしている。
どうやら火も持ち合わせていないらしい。
燃えさしをどんどん舐める火を、慌てて差し出すと、相手はふうと息を吸った。
火がついたのではないかという推測の後、燐寸を放り投げる。

(´・_ゝ・`)「いやはや、申し訳ない」

戴くばかりで、と相手は煙と共に謝った。
気にせずに、と言いながらも俺は男の装いを見る。
雨によってしんなりと、柔らかく折れた黒は、中々良い絹で出来ているようだった。
少なくとも物乞いがしていい格好ではない。
この人が金持ちで、煙草を一本やった恩に何か贈答しようという気になったら、それはそれで面白いかもしれない。
そうしたらこの一本は、藁しべにも匹敵するかもしれぬ。
ついぞ先日、読んだばかりの話を思い出し、密かに笑いが溢れた。

(´・_ゝ・`)「この煙草はいいですね」

しみじみと、味わいながら男は言う。
俺は頷き、敷島はいい煙草だと伝えた。
値段が八銭と手頃だし、味も気に入っているので、一日に五箱は吸ってしまう。
発売したのが二月程前で、友人に遣ったのを抜きにしても、三百箱程消費している算段になる。
それでもちっとも倹約しようという気にならないのだから、煙草は魔性の嗜好品である。

(´・_ゝ・`)「違いありませんね」

俺の与太話に、男は頷く。
見れば、男の手には吸い殻がしっかと握られている。
別れを名残惜しむ男女の手にも見え、俺はもう一本吸うかと問いかけた。
意外なことに、男はしばし考えた。
どうしたのかと声をかけても、返答はない。
俺のことも見ず、どこか遠いところを見ているようだった。

5 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:23:36 ID:PKHUET3Q0
そうして幾許か考えているうちに、雨はどんどん勢いを増してきた。
吸わないのならそれでもいい。
しかし吸うとなれば、この雨ではじき燐寸が湿気て使い物にならなくなるだろう。
せめてもっと濡れないような場所があればいいのだが。

(´・_ゝ・`)「不躾を承知でお聞きしますが、もう一本分けてもらえませんか」

しっかと男に見詰められ、遠慮することはない、と懐に手を伸ばした時だった。

(´・_ゝ・`)「煙草を吸わせてやりたい女がいるのです」

切々と静かに請う声は、雨音さえも?惜き消した。
さして考えもせず、俺は了承した。
男は承知されると思っていなかったのか、一息間を置き、頭を下げた。

(´・_ゝ・`)「有難う御座います、有難う御座います」

旗振りのように頭が上下して、見ている俺の方が酔ってしまいそうだった。

(´・_ゝ・`)「後に着いて来て下さいまし」

そう言って、男は路地にするりと入り込んだ。
猫しか通らないような細道を、上から雫がびっちゃらびちゃらと襲う。
やはり燐寸が駄目にならないか、心配になるもともかく進むしかあるまい。
どぶ板の上を男は音もなく歩き行く、俺もその後に倣うが、草履と噛み合わせが悪いのか、やけに足場が悪い。
四苦八苦している一方で、男は難無く通るものだから、大したものだと感心しつつも置いてけぼりを喰らわぬ様、必死になって着いて行った。

(´・_ゝ・`)「ここです」

不意に男が立ち止まる、目の前にはぼろの長屋があった。
屋根は腐りはて、戸口は傾いでいる。

6 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:24:02 ID:PKHUET3Q0
ふと、この男に黙って着いてきたのは間違いだったのでは、と思った。
煙草をやるだけならまだしも、温順しくこんなところへ連れ去られるなんて、殺されても文句は言えない。
治安がよくなりつつあるといっても、未だ物盗りは多い。
身包みを剥がされ、こんな人のない町に放られても、化ける甲斐はない。

(´・_ゝ・`)「如何かしましたか」

戸口に半歩、足を入れたまま男は振り返る。
庇もとうに壊れており、男はそのまま濡れ鼠となって俺を待っている。
その粒を鬱陶しがるわけでもなく、男は根気強く待ち続けていた。
ここで俺が帰ってしまっても、やむ無し。
達観した風が、俺の足元にまで、冷え冷えと吹き込んで来た。
そも物盗りであれば、俺を黙って背後から殴りつけてしまえばよかったのだ。
気配を偲び、そっと近付く芸当が男には出来るのだから、容易いに違いない。
そこまで考えた俺は漸く踏ん切りが付き、大して濡れぬ様、戸口まで駆けてしまった。
男は安堵したように、人の良い笑みを浮かべた。
そうして入ってしまった後、人を殺すのに踏ん切りがつかなかったのではないかとも思い付いたがもう遅い、俺はとうとう中へ入ってしまった。
ありふれた長屋である。
申し訳程度に土間があり、部屋の奥にはちろちろと蝋燭の火が揺れていて、そら以外に灯りはなかった。
失礼致します、と一応礼儀を見せる。
男の方はというと、もうとっくに蝋燭の向こう側へ腰を下ろしていた。
じめった袖を捲り上げながら、俺も後に続く。
男の傍らには、人が一人寝転がっていた。
これが件の女だろうかと思う一方で、髪が異様に短いものだから、男では無いのかと思ってしまった。
艶もなく、質の悪い絹糸のような細髪である、おまけに色も赤みを帯びている
ものだから、なんだか尋常ならざるものを感じてしまう。
さてどんな面立ちか、見ようとして、思わず声が出る。
片目は見事に潰れていた。
紫黒く腫れており、真っ当に物を見れないことが、すぐに分かった。
口元は、柘榴を食べたかのように赤黒い。
そのくせ唇はふっくらとしているから、蠱惑的な感を放っていた。
頬なども、腫れてはいるが以前は雪花のように白かったように思える。
畢竟、手酷くやられる前には相当の美人だったのだろう。

7 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:24:47 ID:PKHUET3Q0
('、`*川「帰ったのか」

やや低い声が、さぁと部屋を駆ける。

(´・_ゝ・`)「漸く、親切な方が通り掛かったのでね」

('、`*川「長く掛かったもんだな」

がりに痩せぼそった指が、床を這う。
よく見ると五指総てに爪がない。
やはりそこも赤黒く腫れ、血がごっそりと固まっている、最早俺は動じなかった。

('、`*川「起こしてくれ」

言うが早いか、男はそっと女の体を抱き起こした。
はぁ、と短く吐く息には痛覚を刺激するものがあった。
彼方此方が血膿によって汚れてしまっているが、これまた上等な単衣を、肌着もなしに着ているらしい。
蝋燭のせいで、黒い布は蚊帳のように透けて、肌が丸見えだった。
病的に細い体を支えるように、明朗な色をした赤帯が、ぎちりと食い込んでいた。
そっと視線を逸らし、敷島を出す。
女人の体をじろじろ見つめるなんて、不躾にも程がある。

(´・_ゝ・`)「申し訳ない」

('、`*川「有り難く戴くとしよう」

男が二本、煙草を抜いていく。
無骨な手が、器用に纏めて口を折った。

8 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:25:45 ID:PKHUET3Q0
(´・_ゝ・`)「さあ、どうぞ」

('、`*川「暫くぶりだなぁ」

差し出された折口を、女は首を伸ばして受け取る。
その様を眺めながら、燐寸を擦る。
目一杯肺に煙を送り込んでやり、燐寸を差し出した。
男もそれに倣い、すうはぁと呼吸する。
湿気の所為か、燃えさしはそこで尽きてしまい、囲炉裏の中に放り込んだ。
女は未だ吸えていない、もう一本擦ってやろうとすると男は手で静止した。

(´・_ゝ・`)「お気になさらず」

そうして、女の煙草に己が煙草を差し出した。
接吻するように火を分け合う様は、艶かしく、俺の居心地を悪くさせた。
俺も友人が色々いるので、様々な色事を聞いて冷やかしたものだが、初めて見る光景だった。

('、`*川「ああ、うまい」

中指と人差し指の又で煙草を挟み込み、掌を口で覆うようにして女は吸っていた。
一筋たりとも煙を無駄にすまい、といった気概を感ずる。
他人がやれば浅ましく思えて下品なのだが、不思議な事に、女の場合にはそれが似合うと許せてしまった。

(´・_ゝ・`)「ところで、貴方は何方からいらしたのですか」

不意の質問に、俺は素直に答えた。
東京帝国大学に通い、勉学に励む途中、仲間に誘われて同人誌に寄稿している事を話した。
最初の内は英語学を得手としているので、洋書の翻訳を寄稿していたのだが、
その内自分でも書いてみたいと思って、素人ながら小説を書き始めたのだ。
大した反響は無いのだがそれでも中々楽しいもので、今冬迄にまた一つ、
古典を下地としながらも目新しい小説を書きたい事も伝えた。

9 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:26:46 ID:PKHUET3Q0
……尤も思っているだけで、ちっとも形になってはいないから焦りつつあるのだが、それは言わなくとも良いだろう。
そんな格好付けの話を、二人は目も口も耳のようにして聞き入ってくれたのだから、有難いものである。

('、`*川「……お前は小説を書いているのか」

(´・_ゝ・`)「貴方は小説を書いていらっしゃるのですか、でしょう」

不遜な女の物言いに、男は丁重に訂正を入れた。

('、`*川「悪い、そういった言葉を扱ったことがないんでな」

ぐらぐらと頭を下げる女に、俺は慌てて止めるように言った。
そのままぽろりと落ちてしまうんじゃないかと思うほどに、不安定な辞儀であった。
普通であれば育ちの悪さに眉を顰めるところなのだろうが、しかしこの女にとっては些事のように思えるのだ。
嘆息する男に、俺は気にするなと告げた。

(´・_ゝ・`)「寛大な御心に預かり、恐縮です」

('、`*川「まあ、俺も好きでこうなったわけじゃねえから」

謝辞を述べる男は、ちらりと女を見た。
女は気まずい視線など気にしておらず、すっと手を伸ばす。
すると俺は、自然と煙草を差し出してしまう。
煙草くらい、安いので幾らやっても構いはしなかったが、代わりに俺はずっと気になっていた事を口にした。
つまり、如何いった事情で此処にいるのか、という話だ。
驚きを浮かべながら、女は煙を吐く。

('、`*川「話す分には構わねえが、煙草が不味くなるかもしれんよ」

そのあたりはご心配なく、敷島はいつだってうまい。
冗談めかして言うと、女は微かに笑った。

10 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:27:30 ID:PKHUET3Q0
('、`*川「そうは言っても、生まれてこのかた身の上話なんざしたことがねえからなあ」

何処から話すものか、と考える女は、

('、`*川「では御仁、悲嘆院という施設の名を聞いた事はあるか」

と問われるも、耳に触りはない。
頭を振ると、女は安堵を醸し出し、ちろと男を見た。

(´・_ゝ・`)「其処から話すのも中途半端という物でしょう」

('、`*川「なら如何すれば良い」

(´・_ゝ・`)「僕が代わりに語ってやっても構いませんが」

('、`*川「ふむ……」

と女は考えて、頷く。

(´・_ゝ・`)「では、貴方様のご期待に添えることを願いまして」

そして、男は滔々と語り出した。

11 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:28:48 ID:PKHUET3Q0
先程からご覧になっている通り、所作、物腰、言葉遣い、礼儀に目付き、何もかもが驚く程に悪いこの女、
されど氏素性から続く業かと問われれば、そうではありません。
父は代々士族でありましたし、母はそれに見合うだけの教養を得た女でありました。
とはいえ天下泰平江戸の時代は終わりを迎えまして、武士だなんだは時代遅れの産物と相成りまして、
以前よりも地位や尊厳というものは奪われましたが、それでも恵まれた家でありました。
しかし明治へと号を改めましても、世は依然として旧来の制度に依存して
居りまして、改革に次ぐ改革に世間様は憤然としていたので御座います。
廃刀令や徴兵令や賎称廃止の令が知れ渡るや否や、民衆から反発の声高らかに、
しかしそれだけではこの新政府、変わる事は無いと人々は信じておりました。
まして西洋文化に保守的な者は――連綿と続く長年の歴史によって紡がれてきたこの国の誇りや伝統が、
無残にも踏み躪られてしまう――大勢居りますから、不満を持つのも当然の事、故に各地で一揆が起こりました。
その暴れようときたら野蛮そのもの、穢多非人の殺害から小学校の焼き討ち、その他地位ある者の家は形も残さず壊され尽くしました。
これらは陸軍の前身である鎮台によって、忽ち抑えられまして、全ては一件落着めでたしめでたし、
と言いたいところですが、この女の不幸はここから始まったのです。
鎮台に与していた父は、不幸にもこのどさくさによって亡くなったのです。
突然の訃報に母は嘆き悲しみ、乳飲み子と二人きり、これからの生活を如何したものかと悩むことになりました。
どうやって食い扶持を得ていたのか、最早女には分かりませぬ。
唯物心ついた頃には、心労によって母も床に臥せり大変苦しんでおられました。
幼子に出来ることなぞなく、やがて母は亡くなったのです。
かねてより家賃を滞納していたと見え、二束三文にもならないような家具は、大家によって
差し押さえられ、幼子は着の身着の侭追い出され、以降暫く彷徨う身となります。
正確な年月は、果たしてもう記憶の隅にも御座いません。
ただひたすら歩き回り、あばら家の隙間に身をよじめて眠るのみ、
食事らしい食事も得た試しはありませんが、悪運強く細々と生きていたものです。
今にして思えばこの時点で死んでしまえばよかったのでしょう。
そうすれば苦しいことなぞ、知らずに父母と出会えたに違いありません。
されどその様な事を考える能もなく、ひたすら生きていたのです。
幾度、暑さ寒さに弄ばれた頃か、腐った烏賊のように、女は倒れていました。
移動しようという気は、全く起きず、全身から骨が抜けて、肉がだるんと緩みきった心地でありました。
空腹なぞはとうの昔に麻痺し、代わりに喉が痒くなっておりました。
ひんやりと冷えた水を、とくとくと飲むことが出来たら、その不愉快さも少しは和らぐのでしょう。
そんな欲すらも、もう暫くしたら湧かなくなるのではとも思いました。
瞼を動かす心地も無く、空が果たして青いのか、夜なのか、それとも
目を瞑っているのか、そうで無いのか、単純な景色すら受け付けなくなった頃でした。

12 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:29:38 ID:PKHUET3Q0
「おおい、しっかりしろ」

やおら体が持ち上げられ、女は呻きました。

「お前、親はどうした」

その問いに果たして答えられたでしょうか。
気付いた時には、布団の上に居たのです。
清潔な、綿でできた柔らかな布団でありました。
夢でも見たのか、それとも死んだのか。
分からぬうちに、男が来たのです。

(・∀ ・)「気が付いたようだね」

斜視の男は、ゆうるりと笑って見せました。

(・∀ ・)「俺は斉藤。ここ、悲嘆院での見回りを担っている軍人だ」

はて、お偉い軍人様がどうして孤児なぞを拾ったのでしょう。
疑問に思えども、女はぽつりと呟きます。

('、`*川「わたくしは、一体どうなったのでしょう」

夢でも見ている様な心地です、死ぬ前に見た幻覚だと言われても、納得致したことでしょう。
斉藤は、備え付けの椅子に座りました。

(・∀ ・)「お前が道で倒れていたのを、俺が拾ってやったのだ」

差し出された碗には、湯気を放つ白い淀み、米が一粒も浮いていない、ただの重湯がたっぷりと入って居りました。

13 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:30:07 ID:PKHUET3Q0
(・∀ ・)「長く食事をとっていないと見る。胃が縮こまっているから、少しずつ物を食わなくてはいけない」

その言葉を聞き入れるよりも先に、女は碗を引っ手繰っておりました。
碗を啜り、どろりとした熱いものが、胃の中に落ちると、

('、`*川(どうやら助かったらしい)

女は、ようやく安堵出来たのです。

(・∀ ・)「急いで飲むと、体に悪いぞ」

からからと笑う軍人は、続けます。

(・∀ ・)「お前、親はどうした」

そう聞かれて、ようやく女は涙が溢れ出てきたのです。
悲しい事も悲しいとも言えず、只管に生き延びるだけの日々。
人らしく生きる事も叶わず、畜生の様に屑を漁るか、物を乞う日々。
それら全てを、斉藤にぶちまけたのです。

(・∀ ・)「辛い目に遭ったのだな」

慈しむような眼差しに、女はかつての父と軍人とを重ね合わせました。
いきなり父上などと、不躾な甘えを見せるわけにはいきませんし、
やはり女にとって父も母も、この世に一人しか居ないのです。

(・∀ ・)「ここにはお前の他に、五十前後の孤児がいる」

('、`*川「そんなにも……」

驚く女に、斉藤は頷きます。

14 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:30:44 ID:PKHUET3Q0
(・∀ ・)「一揆で随分と人死にが出たんでな、孤児も掃いて捨てる程に多い。
     陸軍省も遠因を感じ、その罪滅ぼしとして孤児院を作ったのだ」

なんとまあ、慈悲深い心なのでしょうか。
槍玉に挙げられたとはいえ、一揆が起きたのは制度の改変や西洋との交流が一番の原因でございます。
時代の流れと言ってしまえば容易いですが、その責を敢えて追求するのであれば、政府でありましょう。
けれども直接惨事を目にしたのは、その場を鎮圧した官軍達で、彼等から何かしらの訴えがあったので、
陸軍省のお偉方を動かしたのでしょう、きっとそうに違いない、当時の女はそう感じたのです。

(・∀ ・)「体力を取り戻したら、今いる医務室から移動して、皆と共同生活を送ってもらう」

斜視の軍人、斎藤はさやかに言いました。
同じような身の上であるなら、きっと親睦を深めることも出来るに違いない。
飢餓の危機の去った体は、そう思うだけで生命力がなお溢れて来たのですが、
しかしそう思っている内が花だったのです。

15 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:31:24 ID:PKHUET3Q0
共同生活を迎えて初日、食事は一日に一度、大皿で出されるのみと知ります。
充分に行き渡る量など、御座いません。
体力の落ちた者を踏みつけ、互いの髪を引っ張り、殴る、
その末にようやっと乾いた飯や塩漬けの肉を得たとて、油断は出来ませぬ。
早々に口にしないと、奪われてしまいますから、皆飲み込む様にして、飯を食ったものです。
当然、そんな事とは知らぬので、長らく飯は食い損ねました。
毎日入れた風呂も、生活棟にはなく、一月に一度冷水を浴びせられるのみと分かり、虱と南京虫に苦しむ事に。
痒みに次ぐ痒みによって?惜き毟るせいで肌はぼろ、伸びた爪には刮げた垢が溜まりました。
では睡眠は如何だったのかと申しますと、床に雑魚寝は当たり前、六畳の部屋に十人が寿司詰めとなって眠ります。
消灯後には脱走を防止するため、一つしかない戸口には鍵が掛けられるので、
夜間に催した場合には、部屋の隅に壺があるのでそこで用を足します。
蓋をするものがない上に、いつ掃除するのかも分からないため悪臭はいつでも漂い、常に蝿が集っておりました。
また窓も開けることが出来ないので、夏は地獄と化します。
かといって冬は冬で寒く、暖房も当然ありませんから、起床すると
隣で眠っていた者が死んでいることも多々御座いました。
しかしそれはまだいい方で、同室の者が病に罹った時が大変でありました。
なにせ看病しなくてはなりませんし、病が治まるまで、その一室は閉鎖されるのです。
支給されるのは桶と雑巾位な物で、あとは放置されるのみ、薬なぞも貰えないので、治る見込み抔全くありません。
それでも完治するまで、同室の者は一切外へ出る事が出来ません。
食事も当然抜きで御座いますから、健常な者が死にかけの人間を憎むのも無理はないでしょう。
物悲しいものですが、しかし同情するよりも病の流行の方が余程恐ろしかったのです。
とある一室では不幸にも病が流行り、一週間足らずで全滅しました。
それでも、五日も経たずにその部屋は新しく連れられて来た孤児によって埋められるのです。
そう、孤児は多いのですよ、掃いて捨てる程に。
では部屋に詰め込まれていない間は如何していたのかと言いますと、指導をうけておりました。
日替わりで軍人が来て、命令が下されるのです。
半日ずっと生活棟の周りを走って回るだとか、炎天下の下ずっと
大声で訓戒を叫ぶだとか、為になりそうなものは一つも御座いません。
運良く風邪の治りかけた者なんかも、この指導に運び出されますから、
体の芯が馬鹿になるまで、指導を強制され、すっ倒れてしまうのです。
嗚呼、本当に、孤児の入れ替えは恐ろしい速さで進んでいきました。
顔も覚えぬうちに、ばったばったと死んでしまう様な環境ですから、交友を深める気は早々と萎えました。

16 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:31:52 ID:PKHUET3Q0
時折、指導に耐えきれなくなって逃げ出す者もおりました。
しかし、骨のような子供と、しっかと鍛えあげられた軍人、どちらが速いかなんて、言わずと知れたものでしょう。
捕まると、今度は厳しい折檻が始まるのです。
一番よく使われた折檻は、引っ叩きでありました。
木から逆さに吊るし、恐怖によって従順になった孤児らに棒を持たせるのです。
そして、こう言うのです。

(・∀ ・)「十数えながら彼奴をぶん殴れ。出来た者から、今日は順に部屋へ帰ってよし。
     従わなくても結構だが、その場合はいつまで経っても部屋に戻れないと思え。
     或いは一緒に吊るしてやっても構わんぞ」

そこまで言われましたら、みんな寄ってたかって打つに決まっています。

('、`;川「一、二、三、四……」

大声で怒鳴りながら、我先にと打つのです。
しかしなんだかんだと理由をつけて、十回以上は打たせるのです。
やれ声が小さい、やれ打ち方が甘い、やれ数を誤魔化した。
それでも普段の指導より早く終わるので、内心では今日も逃げ出す者がいないかしらと考えていたものです。
全く恐ろしいものです、相手の全身を何百回と引っ叩き、すっかり葡萄の様に
腫れ上がるまで、続けなくてはいけないのですから。
この様な環境に置かれて、真っ当な情緒を保った者は誰一人としておらず、それはこの女も同様でありました。

( 、 川(いつか大人になればきっと救われる、或いは思いがけぬ幸運に恵まれて、
     逃げ出せる機会が、そうだ、火事や地震に遭って、この建物から逃れられ
     るのではないか。いつか、いつか、きっと、その時が来るまで、生き延び
     なくてはならない。死んでしまったら、元も子もない。苦痛と陵辱を耐え
     忍ばねば、この我慢も決して報われはしない。
     生きてこそ、であれば、生きなくては)

17 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:32:25 ID:PKHUET3Q0
賤陋にして切実な、しかし救いのない、まさしく修羅の願いでありましょう!
生きるに値しない暮らしを死守せねば、維持できない希望抔、希望と呼べる代物では無く
執念と呼ぶが相応しく、それでも死ぬ事を忌避せずにはいられない、手前味噌ならぬ
手前哀相とでもいいますか、言葉を尽くしても、この哀れさを貴方にお伝えできぬ、
言の葉の欠陥脆弱非業を嘆くばかりであります、嗚呼、お労しいや。
……話の筋を戻すとしましょう、嘆ずるに過ぎました。
倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る、とはよく言ったもので、
間も無く女の立ち振る舞いは、卑陋極まるものへと変じていきました。
たまの逃亡者には率先して、引っ叩くなり首を絞めるなり、残虐の限りを尽くしました。
日頃の鬱憤を晴らす意味もありましたが、一番は尻込みしている連中に負けたくないという思いで御座います。

( 、 川(早く、難事を処理しなくては誰よりも早く、何よりも一番に、
     わたしが一番に、わたしが一番、一番に、一番に、一番に、
     わたしが、わたしが、わたしが、わたしが、わたしが、わたしが、
     わたし、わたし、わたし、わたし、わたし、わたし、わたし
     わたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたし
     わたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたし…………)

その執着心の強さには、軍人さえも注視していたようでありました。
普段は威圧的な彼らも、女の側を通る時には微かに力が入るのです。
まるで此方が猛獣か何かで、背を見せた瞬間に襲われてしまうのではないか。
そんな恐れが、折々で感じられるようになったのです。
しかし軍人が女を恐れるようになっても、依然として飯の量は増えないのです。
そのうち、女はこう考えるようになりました。

('、`*川(いの一番に飯を攫う奴を蹴落とせば、多く飯が食えるようになるのでは)

とうとう直接手を出そうという気が湧いたのです。
とはいえこちらは女、孤児は圧倒的に男子が多く、体格も力も敵いません。
しかしそれも、真っ当にやり合えばの話で御座います。

18 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:32:54 ID:PKHUET3Q0
訓練での周回中、女は相手を待ち伏せる事にしたのです。
もちろん、何時迄も待っていたら軍人に怪しまれますから、まずは死に物狂いに獲物と並走します。
そして半周ほど、相手を引き離したところで、物陰に隠れるのです。
相手が近付いてきたら、足目掛けて棒を突き出します。
すると、相手は転び、立ち上がらぬうちに、今度は石の雨をごろごろざあざあ降らせてやるのです。
すっかり伸びたことを認めたら、今度は仰向けにして、歯目掛けて石を落とすのです。
この様に処置しておけば、余りの痛みによって軍人に告げ口する事も出来ないでしょう。
こういった地道な努力により、女は徐々に強者を間引いていったのです。
さて一番の強者になった女は、以前よりは食べる事に困らなくなりました。
がっつく女を押し退けた場合、次の訓練でどのような目に遭うのか。
方々の部屋では噂になっていたらしく、邪魔する者はいませんでした。
しかしその内に、同じ事を思い付く輩が出てたのです。
当然といえば至極当然、皆生きるのに必死でありました。
ただし相手は、過ちを犯してしまったのです。
まず一つ、この女に手を出そうとしたこと。
その二、この女と同室であったこと。
その三、もし殺すのであればその場で殺してしまえばよかったこと。
逆さ吊りの逃亡者宜しく、全身激しく滅多打ちにされた女は怒り狂っておりました。
今までの所業を考えるに、因果応報とはまさにその通りではありますが、生き汚い人間にはそんなもの関係御座いません。
そうして夜中、皆が寝静まった頃。
痛む身体を無理矢理動かし、呻き一つすらあげず、女はその男子に近付きました。
手には濡れそぼった雑巾一枚――怪我しようと病に倒れようと、
支給される物に変わりは無いのです――に、腰紐が二本。
首にはそうっと紐の輪を通し、両手両肘をまとめて縛り上げました。
両足も関節を畳んできっちりと、身動ぎ一つ取れないようにして、最後に濡れた雑巾を顔へ乗せてやったのです。
当然息の出来なくなった相手の体は発条の如く跳ねますが、しっかと力を込めて
女は上にのし掛かっておりますし、おまけに手を前に突き出そうとすればする程、
首の輪がぎゅうぎゅうに縛りあげて、終いには窒息へと至るのです。
雑巾の所為で声一つ上げられず、無様に自滅する男子の愚かさときたら、
得も言われぬ清々しさがありました。
こうして男子の目論見は外れ、女の代わりに自分が部屋を退散する破目となったのです。
男子憐れなり、女の非道よ天晴れ、抔とは言って居られません。

19 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:33:26 ID:PKHUET3Q0
目撃されていないとはいえ、同室の者からは疑われる事になるのです。
何せ昨晩まではぴんぴんと元気でいた者が窒息死だなんて、不自然極まりませんし、
おまけに女は動揺もせず、飯の催促をしていたのです。
やはり此奴が殺したのではないか、声にせずともそういった視線をつくづく感じたものです。
共通の脅威として認識されてしまったが為に、妙な団結力を結ばせて
しまったのは、当然の報いと言うべきでしょうか、それとも、此方の業の深さに
相手方も引き摺り込まれてしまったのか、何方にせよ、罪深いことには変わりませんでしょう。
以降女は、怪我が治る事のないよう、苛烈な暴行を受けるようになったのです。
多勢に無勢、流石に九人纏めての相手など敵う筈がありません。
それでも殺されなかったのは、何故なのでしょう、考えても未だ答えは出せませぬ
が、やはり相手はそこまで心を落とす事が出来なかったのでしょうか。
或いは、女の目に尋常ならざる忿怒が宿っていたからでしょうか。
今となっては、分かりませぬ。
日々嬲られゆくうちに、女はまともに動くことすらままならなくなりました。
病か骨折でない限り、指導から逃れる事は出来ません。
言うことを聞かねば、逆さ吊りになるのは女の方であります。
必死になって従いましたが、自由が効かなくなるのは時間の問題でありました。
その時の辛酸と来ましたら、並の者には理解出来ぬ程でありましょう。
徒党を組んでの殴る蹴るに加えて罵倒の雨霰、枯れたと思しき泪は生傷へ、
しみじみ苦しみ痛むは己が不甲斐のなさ、もし我が身が獣物であれば、
彼奴等の喉笛喰い千切り、血雨にて化粧、芯からしとどに哄笑極め、
多少の安堵が得られたことでしょう。
されど少しでも動けば激痛が走る痩身で、飯も碌に食うていない、憐れな貧女で御座います。
怨讐を叶える力など、皆無に等しいのです。

( 、 川(死にたくない)

ただその一点のみぞ固執し、次第に声なぞも出せなくなってゆきました。
徐々に死体とも変わらぬ様へと相成っていきましたが、相手方は益々容赦せず、女は確実に弱っていきました。

20 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:33:52 ID:PKHUET3Q0
されど運命とは分からぬものです、女はとある存在に気付いたのです。
自分と同じ年の頃合いにして、唯一暴行に加わらぬ男子の存在を。

('、` 川(何者だ)

しんと静まり返った夜、女は目で問うたのです。

(´・_ゝ・`)「僕は、言葉で御座います」

人格のない、人に使われるだけの言葉で御座いました。
言霊、とでも言えば覚えがありましょうか。
人の口より放たれ、相手の耳に入るまで、それが我々言葉の、須臾にも等しい天命で
あり、故に意識や人格持つ事は、通常ありえないので御座います。
しかし、この女は狂っておりました。
日がな一日寝ても覚めても罵倒を練り上げ、声にも手にも出せず、己が非力を恨む女。
その胸中にて生まれた言葉の数いざ知らず、放たれる事もなく、女の周りで淀み腐っていたのです。
この尋常ならざる恨み辛みと、心中にて生み出される言葉の数々が結び付き、
女の目の前で漸く肉を得たという訳です。

('、` 川(へえ、それであんたは俺に何をしてくれるんだい)

敵か、否か。
己が生き残るための邪魔をするのか、しないのか。
人外の出現にも動じず、女は僕に問うたのです。
その問いに対し、僕は何と答えれば良かったのでしょう。
元来、言葉とは他と結び付く術で御座います。
語る者の性によって、言葉の質は変わるのです。
たとえ人間が馬鹿という言葉を悪しきものとしても、親しみを込めれば、愛着を含みますし、
立派という言葉を良しとされても、悪意があれば、嫌味と相成ります。

21 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:34:25 ID:PKHUET3Q0
考えた末、僕は逆に問い掛けました。

(´・_ゝ・`)「貴女は、僕をどのように扱いますか」

すると女は、一笑の後に答えます。

('、`*川「この部屋にいる全員を殺す」

頬を赤く染め上げ、半年ぶりに言葉が飛び出したのです。
すると、どうでしょう。
僕の肉から、ふつふつと黒き染みが滲み出すのです。
戸惑う僕を差し置きこの死水、こぷこぷりと床を汚染してゆきます。
そのうち女と僕の周り以外には、すっかり黒く染め上げて、眠りについている者を酷く苦しませたのです。
流石の女もこれには困惑いたしましたが、これも始めの内だけ、呻き声が部屋の柱と
共鳴し、奇妙な響きを齎した頃には、頑是ない笑みを満面に浮かべていたのです。
まさしく、年頃の子供が破顔するが如く。
惨々たる有様が明るみに出たのは、見知った軍人が部屋にやって来た時でありました。

(;・∀ ・)「こ、これは……」

あらぬ方へと向いている目は、しかと女を捉え、こう言います。

(;・∀ ・)「……昨晩、何をした」

権高な物言いですが、こちらは死体と一夜を共にした女で御座います、些かも怯む事なく、

('、`*川「何も」

と言って、その無感情な目がちろと動いて僕を捉えました。

22 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:34:53 ID:PKHUET3Q0
残念ながら僕の姿は、斎藤に見えておりません。
いえ、女以外に見ることは叶わないのです。
女の怨恨によって生み出され、女の悪意によって使われた言葉で御座います。
よって、女が何者かへと向けて恨みを吐かない限り、他人には視認する事抔不可能でありました。
ですから、女が厳しく詰問を受けている間、僕は軍人の周りにべったりとくっついていたものです。
女の苛立ちを感ずる毎に、この軍人に苦痛を与えたいと辛抱堪らなくなったのです。

('、`*川(まだ駄目)

黙秘を貫く女の目は、厳しく律しておりました。

(´・_ゝ・`)(円満に解決するには、ほんの小さく言葉を吐けば、充分であろうに)

と、ここで僕は気付きます。
先程言ったように、僕は言葉で御座います。
使う者の言葉によって、その性質は善にも悪にも転びます。
ですから以前の、ただの言葉であった時分に意識があれば、平穏に言葉を交わせば
宜しいでしょうに、と僕は考えた事でしょう。
しかし当時の僕は、決してそうは思わなかったのです。
悪意ある言葉さえ、貴女が吐けば、僕はこの男を、斉藤を、害する事が出来る、
即ち沈黙を以って、物事を解決しようとしたのです。
恐るべき変化でありましたが、しかし恐ろしいとすら思っておりませんでした。
むしろそのように使われない事に、僕は不満を抱いていたのであります。
殺めるにしろ、何にしろ、それにて女と他人を結び付ける、それが僕の能で御座いましたから。

(・∀ ・)「……もう良い」

何も答えぬ女に根負けしたのでしょう、斉藤は頭を振って、言いました。

(・∀ ・)「大量死については原因不明とするが、骸の処理はお前に任せる」

23 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:35:17 ID:PKHUET3Q0
証拠はないものの、女に何かしらの原因があると直感で悟っていたのでしょう。
その責を死体の遺棄を担う事で、不問にしようと言ったのです。
勿論、是も非も御座いません。
けれども却って、これが良かったのです。
斎藤によって指定された場所は、厨でありました。
生活棟から渡り廊下を歩き、詰所、風呂場を抜けた奥に、厨は存在しておりました。
とはいえ知っているのは場所だけで、実際に足を運んだのはこれが最初でありました。

(´・_ゝ・`)(厨でこれをどうするというのだろう)

('、`*川(知ったことか)

ずろずろと死体を引き摺り、女は庭を眺めます。
今日も炎天下の中、子供らは走らされており、そこに混ざるよりかはこうして
死体を運んでいる方が、女にとって気楽な事のように思えました。
漸く辿り着き、中を覗き見ると、豚のような調理番が刃を研いでおりました。
鉄と砥石が擦れ合う中、女が呼ぶと料理番が振り返りました。

( ^ω^)「肉か」

言うが早いか死体を引ったくられ、女は手首を痛めました。

('、`*川(何だあいつ)

声にこそ出しませんが、女は反抗的な目付きを致しました。
料理番は目敏く気付いたのでしょう、唐突に吼えたのです。

24 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:35:47 ID:PKHUET3Q0
( ^ω^)「人喰いの癖に何だァ、その目は」

('、`*川「――――」

人喰い、とは、何の事でありましょう。
人を食ったと言えば、相手を馬鹿にしたような、という意味になります。
そんな事は浅学な女にも分かります。

('、`*川「もう一度言ってみろ……」

ふつと女の心に、障りが現れました。
戸惑いであり、怒りであり、恐れでありました。
そうでしょう、そうでしょう、今までにもう十分と言っても差し支えない程に苦しんだのです。
何故、どうして、それなのに、まだ苦渋が降りかかって来るのでしょう。

( ^ω^)「お前ら孤児に喰わせるような肉なぞ、これで十分だ」

べちゃり。
女の足元に、ぶつ切りの肉が飛んできました。
乾涸びた、赤黒い肉の断面、そこだけを女はやたらと注視して、

(´・_ゝ・`)「これは……」

僕の声で、ようやく女は全容を把握致しました。
肉から突出する、砕けた骨と、だろりと出でる髄。
それらを内包する肉に、垢黒い膜。
皮膚だと気付き、女は、

( 、 *川「あ、……」

漸く、声が出ました。

25 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:36:17 ID:PKHUET3Q0
( ^ω^)「飢えているなら食うてもいいぞ」

料理番からの嘲りに、女は罵ろうと努力致しました。
けれども語彙は喉奥に痞え、舌さえ回らず、はくはくと息を吸うばかり。
絞めずとも息が出来なくなった試しなど無く、女は呆然とするばかりでありました。

( ^ω^)「遠慮せず、食えばいい」

にったと、料理番は笑います。

( ^ω^)「今まで喜んで食うていただろう」

ええ、そうです。
一日一日を生き延びる為に、年嵩の変わらぬ子供を皆足蹴にして得た肉です。
平気でそれを、今まで口にしていたのです。

( ^ω^)「食って少しでも肉を付けろい。
       今のまま死んでも、食うところがなあんにも無い、ただの屑になる」

瞬間、喉に栓をしていた言葉が飛び出したのです。

( 、 *川「死ね」

喉を潰されたような、獣の咆哮でありました。
色濃く、闇を煮詰めたような、殺意でありました。
すると僕の毛肌は逆が立ち、

(; ゚ω ゚)「がっ、ぁ……っ」

しっかと料理番に、抱きついたのです。

26 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:36:48 ID:PKHUET3Q0
( 、 *川「死ね、死ね、死んでしまえ……」

ほづほづと、女の喉から、押し出される、言葉、言葉、言葉。
瞋恚に満ちたる音の侭、牙を剥き、爪を立て、棘を刺し、刃を引き、杭を打ち……。
狂乱の末、僕は料理番を殺めたのです。

('、`*川「……くたばったか」

白目を剥き、転がる様を見て、飢えは女を手放しました。
されどそれも束の間、直ちに女は消化の悪い色へ引き戻されたのです。

「結構、結構」

背後から、聞き慣れた声が致します。
振り向けば、焦点の合わぬ目がそれぞれの方向から、女を見下ろしておりました。

(・∀ ・)「どうも呪師としての才覚を得たらしいな」

戸惑う女の腕を、斉藤は掴みます。
女は益々身を硬くし、僕はいつ、この鼻持ちならない軍人に跳びつこうかと待ち構えておりました。

27 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:37:18 ID:PKHUET3Q0
(・∀ ・)「喜べ、今度は個室になるぞ。風呂や便所も専用に充てがわれ、
     丁重な扱いを受けるだろう。但し、こちらに歯向かわなければの話だが」

('、`*川「…………ちっ」

一巡考えた後、女は抵抗を失いました。
楽に殺める術を持っていたとしても、統制の取れた組織相手には、歯が立たないと悟ったのです。
まして相手は陸軍、斉藤一人を斃したところで代わりはいくらでもいるのです。
子供連中と同列に扱ってはいけません。
生き残りたいのであれば、尚のこと。

(・∀ ・)「物分かりが良くて好ましいな」

にと、と粘着質な笑みを浮かべる斉藤に、僕の四肢は伸びてゆきそうになりましたが、

( 、 *川(耐えろ)

女は、変わらず口を噤むだけでありました。

28 名前: ◆rZJ2e7H4aw 投稿日:2017/08/19(土) 00:38:17 ID:PKHUET3Q0




    壱ノ妙   終演




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35 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:37:49 ID:RVB3J.KE0





    弐ノ丸





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36 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:39:31 ID:RVB3J.KE0





    弐ノ丸


はたと我に返り、俺は外へと耳を遣った。
外は変わらず、ざんざんと降っている。
音は甚だ大きく、車軸のような雨が流れているのであろう。

('、`*川「外が気になるようだな、御仁」

些か改まった声にて、はあふうと女は煙を吐く。
俺よりも遥かに年若い筈なのに、その仕草には色が付いていた。
……先程からずっと気になって仕方の無い事がある。
話から想像するに、女の人生を転落へと至らしめた切っ掛けは、明治六年に起きた血税一揆の事であろう。
但しその頃には未だ廃刀令は下されていない、発布されたのは明治九年であるから、話に出たのは恐らく
賤称廃止と共に謳われた散髪脱刀令――髪型と帯刀の自由化を促す、廃刀令の前身――の事だろう。
当時物心の付かなかった子供の記憶と思えば、却って話の信憑性を高めているのだが、問題は此処からだ。
俺は明治二十五年の生まれで二十三歳、――現在は大正四年である――対する女の見目は、小娘同然。

(´・_ゝ・`)「なに、心配せずともじきに止む事でしょう」

人の良さそうな声に、思案の淵から俺は引きずり出される。
確かに夏の雨は足が早い。
しかしそれが止むよりも先に、俺は逃げ出してしまいたかった。
得体の知れぬ二人組に、終わりの見えぬ身の上話、佳境に次ぐ佳境で、体の芯はすっかりと熱を失っている。
その癖、肌にはぐっしょりと汗をかいていて、べたらりと布が肌に張り付き、俺を離してくれやしない。
いくら湿気が多いとて、尋常ならざる不愉快さであった。
そうだ、俺は地獄にいる。
この静寂において、肉体的な苦痛は何一つとして浴びていない。
しかし精神は苛虐を受けて、至当さを失っていた。
ひょっとして、この話に終わりなど無いのではなかろうか。
延々とこの責め苦は続き、俺の恐れる物をこの女は差し出し続けるのでは無かろうか。


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37 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:40:11 ID:RVB3J.KE0
俺は、逃げてしまいたかった。
煙草なぞ、この男に遣らねばよかった。
いや、大学から家宅まで、真っ直ぐ帰ってしまえばよかったのだ。
それとも、物書きに抔成ろうと思わなければ良かったのかもしれぬ。
では何故物書きに成ろうとしたのか。
俺は改めて考えてしまう。
そも文学という物に興味を持ったのは、養父が――母の兄、詰まりは叔父にあたる――大の文学好きだったからだ。
物心付くよりもずっと前に、俺は母の実家に預けられていた。
理由は、母が発狂したからである。
何故そう成ってしまったのか、俺にはとんと分からぬ。
ただ様々な事情が、――実父は大変気が短かったし、俺が産まれる前年には長姉が亡くなった。
妙な物に取り憑かれても不思議では無い――有ったのだろうと察するのみ。
兎も角俺にとっての母は産みの親というだけで、愛情の影を少しも見た事は無い。
それでも寂しくないと思えたのは、叔父によって文学の英才教育を受けていたからだ。
元々体が弱かった幼少期には、まず一中節に出会った。
叔父は俳句やら小説やら、文字が関わる物には大抵凝っていたのだが、その中でも一中節には随分と入れ込んでいた。
何せ之ばっかりは俺を含める家族全員、誦んずる様に仕込んだからだ。
当然子供の頭なので、深い意味などは分からない。
先ずは音だけを覚えつつ、徐々にその意味合いを家族に聞いて回った。
その内に之は恨みの言葉、之は懸想の言葉抔と理解して、次第に言葉という物に惹かれていった。
こうなるともう誰に言われる迄も無く、勝手に本だの俳句だの、文字が入っている物なら何でも読む様に成ってしまった。
その興味は国内に留まらず、西洋の文学も対象となった。
東の島国には無い、見知らぬ大陸ならではの概念も、文字を通して俺に語り掛けて来るのだ。
人格を宿していながらも感情を交えず静々と此方に訴えて来る言葉という者、その人に俺は恋をしていた。
どの様な本を読んだとしても飽きるという事はなく、場所を選ばずして俺を受け入れてくれる言葉。
しかし読むばかりでは身につかない。
しっかとその言葉を俺の脳髄へと馴染ませるには、学びが重要である。

38 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:41:02 ID:RVB3J.KE0
俺は大学へと進み、英語学を専攻する事に決めた。
講義を受け、図書館に身を沈め、四六時中言葉と交わり続けて来た。
そして学習の延長に、小説の翻訳にも挑戦した。
己だけが理解出来れば良いと思うだけではやはり言葉は振り向いてくれないのだと気付いたからだ。
異国の言葉を読み、考え、訳し、此方の言葉へと思想を、言葉を、昇華させる。
地道かつ気の遠くなる様な作業であったが、俺はやり遂げた。
全く異なる言語で書かれた、同じ内容の本がこの世に存在する。
翻訳という作業を経たのだから、至極当然の成果物である。
しかし俺には、神秘な事物に見えたのだ。
俺は、翻訳した小説を同人誌「新思潮」へと寄せた。
自分の目だけに留めておくのには、余りにも勿体の無い労力であった。
それに、世の中には俺の様な変わり者ばかりが居る訳では無い。
内容に興味はあれど、日本語にしか触れたく無いという連中は多く居る。
しかしそう言う連中も、やはり本を読む事は、文学に触れる事は、大好きなのだ。
同人誌に寄せたのは、その吉見であった。
俺の翻訳した小説は、評判も良かった。
其処に確かな手応えと遣り甲斐を感じて、俺は安心していた。
漸くこれで言葉は自分の物と成るだろう、そう思っていたのだ。
しかしそれは、大間違いだった。酷い自惚れであった。
本から俺へと入力された情報は、俺という人格を伴って出力して欲しいと――それは時に情景として、
また別の時には所作として、或いは見知らぬ人と成り――俺に筆を取らせたのだ。
とうとう此処で俺は物書きの端くれと成り、一つ書いては又一つ、それが終われば又一つと文学は俺を抱き締めた。
その様にして長く連綿と続く文学への偏愛を、俺は受け入れて来たのだが、――初めて、俺は後悔した。
この出会いは必然か、それとも因果か。
何れにせよ、彼らと巡り合う縁業全てを、文学を、断ち切ってしまいたいと俺を苛むのだ。
しかし同時に、奇妙にして理解しかねるのだが、俺は続きを欲していた。
何かが、俺を呼び寄せていた。
早く此処まで来いと諭していた。
もうこんな事辞めてしまえ、そう思う心を引き止めていた。

39 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:41:45 ID:RVB3J.KE0
喩えて言うならば、それは翻訳に際して見知らぬ言葉を目にしてしまった時の焦燥と同じ類だ。
たった一文、或いは一語、俺が分からない為に、文学は黙してしまっている。
俺の読解力の無さに、文学は呆れている。
文学は決して、俺を声高に責める事は無い。
けれども沈黙を通じて切々と訴えて来るのだ。
無視する事の出来ない俺は、苦しみながら字引を引く。
全てを分かりたいと願い、理解出来ないという苦しみから己を救う為に。
俺は、知るという事を、止める事が出来ない。
はたと気付けば、二人は俺を見詰めている。
物も言わず苦悩する俺を慮り、与するような目付きで。
二人は、俺を、見詰めている。
俺は、声を絞り出す。
気にせず、如何か続けて呉れ、と。
細ぞとした言葉に、女は頷いた。

('、`*川「話してやれ」

(´・_ゝ・`)「相分かりました」

ちろろと燃ゆる蝋燭に、女の影は身動きす。
炙られ苦しんだように見えたそれから、敷島へと目を移す。
差し出し、男が煙草を抜く。
ほろろと一息付いて、男は再び口を開いた。

40 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:42:31 ID:RVB3J.KE0
料理番を殺めた後、女はたちまち縄を掛けられました。
そうして何処へ行くとも言われず、馬車へと押し込められたのです。
軍用のそれには、斉藤を含めた屈強な軍人が四人乗っておりまして、
彼らに挟まれ、女は窮屈そうに座る事となったのです。
勿論、僕もこの女の側に居着いておりました。
尤も僕の気配など、彼らは感じ取る事など出来ないのですが、そうして
半日ほど経った頃合でしょうか、ようやく馬車は停まったのです。
窓から覗き見ると、そこは洋風の宿舎でありました。
しかし塀は八尺五寸とやに高く、鉄の鋲がはらばらと付けられておりました。
一目見て、これは監獄に違いないと確信を得ました。
幾許かの手続きの後、門が開いて、馬車は中へと進みました。
そして、玄関口で再び揺れは収まったのです。

(・∀ ・)「降りろ」

相も変わらず威圧的な斉藤ですが、微かに警戒している様が伝わってきました。
逃げるとすれば、確かに今が丁度良い機なのでしょう。
青錆び塗れの門扉はというと、守衛がえいえいと声を上げ、閉じているところでした。
それに反し、我々は従順な態度で――ええ、極めて大人しく、縄の行く侭に――斉藤の後を付いて行ったのです。
いやに天井の高い広間を抜け、階段を二度上り、新しく設えたばかりの
赤絨毯を踏み、金太郎飴の如く並ぶ、同じような窓の部屋を通り過ぎ、

(・∀ ・)「入れ」

連れ込まれた先は、会議室でありました。
飴色の長机がぐうるり円を描き、用意された席は八つ。
既に席は六つ埋まっており、うち三人は軍人で、残りは女よりやや年長の者達でありました。
年長者達の中で一番大柄な男は、著しく目が垂れていますが、
決して穏やかな風は無く、むしろいけ好かない雰囲気が漂っておりました。
髪の長い女は俯いており、前髪が邪魔をして容貌は知れません。
ただ陰鬱な気配は漂っており、それが彼女の本質なのだろうと、一目見て伝わりました。
最後の一人は、目を伏せている青年で、色は唯々蒼白く、血が通っていない様にも見えました。

41 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:43:19 ID:RVB3J.KE0
( "ゞ)「新しい呪師ですか」

土気色の青年の問いに、斉藤は頷きました。

(・∀ ・)「そうだ、お前らと組んでもらう事になる」

(`∠´)「素質はどうなんだ」

(・∀ ・)「既に十人殺った」

川д川「じゅ、十……」

騒めき、恐れ、感嘆。
微塵も気にしていない様子で、女はちらと視線を飛ばしました。

('、`*川(直接俺が手を下したわけじゃないがね)

(´・_ゝ・`)(けれども僕を使ったのは、貴女の方ですよ)

('、`*川(違いない)

吊り上がった口の隅より歯が出でて、それが笑みだと分かったのは、恐らく
僕だけで御座いましょう、他の七人は、深刻な面持ちで話し合っていたからです。
とはいえ、聞くものはきちんと聞いておりました。
どうやら陸軍省は、古典的な人材を確保したがっているらしいのです。
大真面目に申し上げますと、さぞ滑稽に聞こえる事でしょうが、一笑に付さず如何か信じて下さいまし、
態々孤児を集めて何を企んでいたのかと言いますと、呪師を育成しようとしていたのです。
ええ、ええ、古来より人を呪う術は星の数ほどありますし、稼業として成り立っていた時代も御座います。
されど今の時分に呪術とは、とお思いでしょうが存外馬鹿には出来ません。
現に女はただならぬ恨みを以って、続々と人を死に至らしめましたから。

42 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:43:49 ID:RVB3J.KE0
軍部が行おうとしていたのは蠱毒の人間版とでも言いましょうか、
怨恨哀怒を孤児に宿し、秘密裏に使役しようとしたのです。
何故この様な手間の掛かる事業に力を入れたか、今となっては分かりませぬが、
世相としては、民権運動が台頭してきた頃合であります。
当時は尊王攘夷の色が強く、国民に政治を任せる抔愚行中の愚行、故にこの巫山戯た
運動を取り押さえようと、陸軍省はまず従順なる軍人を育成し始めたのです。
元より皆が天皇陛下万歳と思っていれば教育に苦労する事もないでしょうが、
しかしそういった者ばかりが来るはずがありません。
まして軍人になろうという志のない庶民も徴兵されてきたのですから、
そこでこういった勅諭を掲げたわけで御座います。
統帥権は天皇にあり、誠心誠意命令を遵守する様に、
また礼節や質素を心掛ける様に、といった内容でありました。
この長大な勅諭をまず覚えることが、軍人となって最初の仕事とさえも言われております。
詰まる所、上からの命令には絶対に従う旨、反旗を翻そう抔とは考えないように、
といった考えで、この様な訓戒を敷いたので御座います。
苛烈な訓練と勅諭によって、下級士官達は自立した思想抔、一つも要していないただの歯車となりました。
でなければ、悲嘆院での虐待に心を痛める者が、一人くらい居てもおかしくはないでしょう。
そういった場面に、残念ながら預かる事はありませんでしたから、この勅諭、なかなか見事だと言えます。
さて愚直な軍人を以ってしても、思想を根絶やしにする事は不可能でありました。
讒謗律や新聞条例に集会条例など、法的な圧力も相当掛けたとて、止めない者は一定数いるのです。
逮捕、摘発、鎮圧。
警察と軍部がどれ程手を組んでも、民衆の熱は上がるばかり、
仲間が減れば減る程に、負けてはならんと声を上げるものですから、全く手に負えません。
それなら、手っ取り早く相手を殺そうじゃないか、いやいや、暗殺は計画が漏れると大変だ、
おまけに失敗した時に、とんでもない不祥事になるぞ、では呪い殺してやろうといった具合でしょうか。
何度も言いますが、このご時世に、呪いだなんて、世間は気が付かない訳で御座います。
それにこちらは身寄りのない子供で御座います。
きちんと軍部内で箝口が敷いていれば、これっぽっちも外部に気付かれる事は無いのです。
勿論、こちらが何か変な気を起こした時にも同様です。
殺されてしまっても、何ら影響は御座いません、世間には……。

43 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:44:17 ID:RVB3J.KE0
以降三年程度、我々はこの屋敷で暮らす事となりました。
部屋は六畳ほどあり、机と寝台がきちんと設えてありました。
食事も日に三度、質素ではありますが、ゆっくりと楽しむことが出来ました。
厠も、廊下を出てすぐのところに御座いました。
外出が禁止であることと、四六時中監視が付いている事以外、特に不自由は感じませんでした。
それでも女は、安堵せずして生活をしておりました。
今までの待遇が余りにも残酷極まる他に、いつ平穏が揺らぐのかと思えば、
無理も御座いませんし、軍部の人間など、信用するに値しない人種でありました。
では他の呪師とはどうであったのか、と申しますと、これもまた別段親交を深める事も御座いませんでした。
相手はやはり他人を蹴落とし、裏切り、我が身を一番としてのし上がって来た様な、
言ってしまえばこの女と同じ身の上ばかりであります。
そして、物質的にいくら満たされたとて、幸福感に対しては堪え難い程の飢えを抱えているのです。
この世に生まれてきたという点では同じ線上に位置しているはずなのに、
どうしてここまで相手と己が人生は、天と地ほどに差がついてしまったのでしょう。
おまけに相手は革命だなんだと、世間へ自己を売り込む事ができます。
底辺に位置する我々は、一生影から出る事が叶わぬ人間で御座います。
しかし他人には真似出来ない行いを、世間へ呪詛を放つ事が出来るのです。
呪詛により人死にを出す、それも著名にして、高い志を掲げる幸福そうな人物を殺す。
これぞ呪師達にとっての自己表現にして自己実現、世間と関わりを持つ唯一の手段と言って差し支えないでしょう。
もうここまでお聞きになられると、察しが付くとは思いますが、皆こぞって
一日に五人から十人は平気で呪っていたので御座います。
まず、人を呪うには名前と居場所が絶対に必要であり、髪、爪、血痕、排泄物、端切、相手が踏みしめた土抔は、
――これらは集会に何食わぬ顔で参加している諜報の者から用立たせて、書類と共に
それらが添えられて渡されるのです――欠かせない物でありました。
怨念雑言一文字一文字に悪意を込めて、人名を書いた後に燃やしたりですとか、只管に恨み辛みを込めて
相手の名を呼ぶですとか髪、爪、端切などを呪師の血等と混ぜ合わせて土に埋めたりですとか、その様な事ばかりを致しました。
また、それらの燃殻や煙が悠々と外へ出向き、意志を持って飛び立つ様を見ては、己が腕前に自信を持ち、喜んでいた連中なのです。
この女も同様に、僕という言葉を使い、幾度となく呪詛を放ったものです。
その様な人間同士で絆を育むだの、友愛を結ぶだの、築ける筈が出来ましょうか。
それでも唯の一度だけ、会話をした事は御座いました。

44 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:45:06 ID:RVB3J.KE0
月に一度、呪師と軍人を交えて会議が行われて居りました。
普段でしたらこの会議、軍人だけが口角泡を吹きながら、自由民権派の愚かしさについて、
ぐうだりぐうだり繰り返し話すもので、――呪師達は黙りを決めているのです。
こちらの意見など無意味でしょう――退屈極まりないものでありました。
しかしどの様な運命が働いたのでしょうか、軍人の到着が遅れた為に、
四半刻ほど呪師達だけで会話する機会を得たのです。
最初に口を開いたのは、髪の長い女でありました。

川д川「お偉さん方は、一体何処で油を売ってるんだかねえ」

( "ゞ)「師走で、皆忙しいのだろうよ」

(`∠´)「その忙しい儘で居てくれたら、会議なんざしなくて良いんだが」

川д川「全くそうだねぇ」

しみじみと噛みしめる様な言葉に、垂れ目の男は言葉を継ぎます。

(`∠´)「外なんぞ見て楽しいか」

川д川「楽しいわよ。塀の向こうにゃどんな店があるかと思って」

( "ゞ)「へぇ。じゃあ外に出たら如何する」

川д川「あたし、あいすくりんが食べてみたい」

( "ゞ)「あいすくりん?」

(`∠´)「横濱にあるという冷たい菓子か」

45 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:46:43 ID:RVB3J.KE0
川д川「そうさね、綺麗な彩付きの、一輪挿しの様な器に入っているそうだよ。
    その玻璃の器がまた、ひんやり冷えて氷の様だとも聞く」

頬に血紅差し、黒髪を弄りながら、女は続けます。

川д川「そいつを匙でちょいとな、掬って口に入れたら、さぞ良い心地だろうさ」

( "ゞ)「よくこんな冷える時期にそんな物を食いたいと思うな……」

ぶるりと蒼白の男は身震い致しまして、ある種感心した様な声を上げておりました。

(`∠´)「御目にかかってみたいものだにゃあ」

川д川「……菓子なんざ、母上がちいと飴をくれたきりだなぁ」

( "ゞ)「俺なぞ、菓子を食った事も無い」

(`∠´)「けんども、食ったら無くなっちまうからなあ」

( "ゞ)「将校殿に頼んだら、菓子くらい貰えるかも分からんぞ」

川д川「はは、今日の会議で言ってみるか」

(`∠´)「俺は外国に行ってみてえよ」

川д川「何をしに」

(`∠´)「何って、勉強よ、勉強。政府のお偉方はみぃんな外国行っとるぜよ」

( "ゞ)「真面目だなあ」

(`∠´)「勉強なんかした事無ぇもの、それに見た事無い物もこじゃんとある」

46 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:48:01 ID:RVB3J.KE0
( "ゞ)「国内ですら見たこと無いものだらけだけどなぁ」

(`∠´)「……それもそうじゃ」

川д川「じゃあ、あんたはどうしたいの」

( "ゞ)「俺は……」

唸りつつ、男はようやく答えます。

( "ゞ)「……やはり、国内を見て回りたいな」

(`∠´)「つまんないやっちゃな」

( "ゞ)「外国に行くなら、その前に語学も勉強しないと。それが面倒だ」

(`∠´)「ああ……言葉なあ」

川д川「西洋の言葉は、やっぱり難しいのかねえ」

やいのやいのと周りが続ける中、この女はどうしていたのかと言いますと、
会話に加わる事無く唯座っているだけでありました。

(`∠´)「お前さんは、外に出たらどうしたい?」

('、`*川「……」

( "ゞ)「遠慮せずに、話してみろよ」

そう促され、女は困った様な顔になりました。
長いこと僕は女の側に控えていましたが、動揺する様を見たのは、初めてでありました。

('、`*川「何も、ない」

熟考の末、女は小さく呟きました。

47 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:48:35 ID:RVB3J.KE0
川д川「えぇ、何もないの」

驚きの中に薄く、憐れみが含まれておりました。
その言葉に、女は頷いたのです。

(`∠´)「つまんないやっちゃなー」

先程この男が放った同様の言葉よりも、それには落胆が色濃く滲んでいました。

(´・_ゝ・`)(気を悪くするのではないか)

そう思って目を遣れば、女は唯苦笑して居りました。

( "ゞ)「希望がないとやっていけんよ、この仕事」

川д川「じゃなくたって、いつ死ぬかも分からんものね」

('、`*川「連中に従っている限りは、生きられるだろう」

それが今までに培ってきた処世術でありました。
しかし、

(`∠´)「そうとも限らんのよな」

垂れた目尻の隙間からちろと黒目が覗かせて、男は再び口を開きました。

(`∠´)「呪師ってのはなあ、歴史が長ぁい仕事だが、一度は滅んじまったんよ」

その理由を知っているのか、と瞳は女に問い掛けてきます。
尚も面持ちの硬い女に、男は解す様な笑みを浮かべました。

48 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:49:07 ID:RVB3J.KE0
(`∠´)「人を呪わば穴二つって言うだろ、そのせいかある日ぽっくりと逝っちまう奴が多いのさ」

('、`*川「何故」

(`∠´)「何故、って言われてもなあ」

だらしない笑みを補うように、黒髪の女が口を開きます。

川д川「あたし達よりも先に仕事に就いた先達も、あんたみたいな陰気くらい奴だったわ」

( "ゞ)「欲もなきゃ望みもない。詰まんない男だったが、ある日突然に死んでしまったのさ」

(`∠´)「ありゃあ掛けた呪いが返ってきたとしか思えねえ死に方だったな」

川д川「手足が真っ黒けになって、顔は人三化七の苦渋顔」

( "ゞ)「余程苦しまなきゃあんな面にならないね」

('、`*川「だから、あたしもそいつと同じ様に死ぬって言うんか」

せせら笑う女の頬には、汗が一筋流れておりました。
己が運命の予告を聞かされている様なものですから、無理もない事でしょう。
しかし、この三方の視線は嘘を吐いている様にも思えませんでした。

川д川「今までさんざ毒吐いてのし上がって来た仕事さね、罰が当たってもおかしかないだろう」

( "ゞ)「因果覿面って事じゃないかとも思うけど」

それでも女は、納得が行きません。

49 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:49:36 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「じゃあなんだ、希望を持っていたら長生きするって言うのか。
     散々そういう連中を食い物にして、ここまで生き残ったって言うのに」

川д川「それはっ……」

('、`*川「彼奴らは確かに軍人殿からすれば、馬鹿らしい思想の持ち主かも知らんよ。
     それでも本人達は素晴らしいと思って掲げているんだろう。
     事が成し遂げられる迄決して諦めず、夢が叶う瞬間とやらを夢見ている、
     そんな崇高な連中を、殺しているのは何処の何奴かよぉく考えてご覧よ」

一息も吐かずに述べた口上には、誰一人として反論する事が出来ませんでした。
しかし長髪の女は、顔の隅から隅まで真っ赤に血が上っていましたし、
反対に、蒼白い男は死人宛らに血の気が引けて、今にも倒れてしまいそうな様でありました。
垂れ目の男はというと、渋い顔ではおりましたが、

(`∠´)「……俺だって一生外に出られないって事くらい分かってらあよ。
    生き残る為に今日も何処かで人が死ぬと思えば堪えきれんし、
    それでもちょっとは希望を持っていたいんよ」

ぽつり、そう呟いたのです。

( "ゞ)「恨み続けるって、疲れるだろう」

(`∠´)「時々、己が心を恐ろしく思う時もある」

( "ゞ)「こんな人生であったなら、生まれて来なければ良かったとも思う」

川д川「真っ当な道を歩みたかったね」

50 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:50:11 ID:RVB3J.KE0
一体どこで差がつくので御座いましょうか。
生まれた時でしょうか、それとも前世での業が悪運を呼び寄せてしまうのでしょうか。
ともすれば、この様な境遇に陥ってしまったのには、自分にも責があるのでしょうか。
もしそうでなかったとしたら、ただの運命の悪戯でしょうか。
その場合、何故自分は貧乏籤を引いてしまったか、
その様な悲哀と疑問を含んだ空気が、三人から発せられていたのでした。

川д川「あ」

窓に寄り掛かっていた女は、不意に声を漏らしました。
その声に釣られてやってきた男達は嘆息を一つ吐きまして、

( "ゞ)「また、仕事がやって来るな」

(`∠´)「そろそろ座るかいねえ」

気乗りしない声を足裏に貼り付け、各々席へと着こうとした時でありました。

川д川「元よりとっくに死んだ様な人生よ。それでも、外に夢を見ちゃいかんかね」

一句遣り込めてやろうという、意地の悪さの透けた声が投げ掛けられたのです。

('、`*川「……好きにすればいい」

女は、小さく返し、それにまた長髪の女は視線を遣ったのです。

('、`*川「俺も、俺の気が済む様に振る舞うさ」

それから間も無くして、会議は始まったのですが、この女は抱え込んでいる願望について、改めて振り返っていました。

51 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:53:42 ID:RVB3J.KE0
生まれて此の方十三年余り、殆どの時間を如何にして生き延びるのか、
その事ばかりを念頭に置き、火が付いたように走り続けておりました。
それが急に、同業者からそんな生き方ではいけないよと言われましても、
女にはどうすればいいのかだなんて、分かるはずもありませんでした。

('、`*川「ばっかじゃねーの、あいつら」

部屋に戻った女は、ぶんぶんと五月蝿く飛んでいた羽虫を捕まえまして、抽斗の中より髪の毛を掴み、
――例の資材が潤沢に揃っている場合、捨てずに取っておくのが女の癖でありました――虫と共に擦り合わせ始めました。
掌に揉まれて虫は粉々になりましょうが、されどこれも奇怪にして面妖な術の一つで御座います。
意地の悪い笑みを浮かべた女は唯一言、

('、`*川「先生」

と申しますと、それは忽ちに禍言と成り、髪は秋津の如く羽虫へと踊り掛かるのです。
羽虫の頭頂より入りし髪は、僅かに尾を出ししめて、禿げた頭を作ります。
一方三対有る脚の一対は、ぎゅっと腹に仕舞い込まれ、残った二対の脚は痙攣しつつも手足と形作っていきます。
羽は如何したのかと言いますと、裸の爺へと絡み付き、気が付きますと立派な洋装に姿を変えていたのです。
これは偶然、女が暇潰しに見つけた呪術に御座います。
虫と共に併せ揉むと、髪や爪の持ち主であろう姿に虫は変じてしまうのであります。
とはいえ元は虫に御座います、言葉を話す訳で無し、
唯本能の侭に怯えて逃げようとするだけで、何の役には立たないのです。
見ようによっては憐れに思われるかもしれませんが、羽虫の一匹や二匹、貴方も潰した事はありましょう。
何方も終いには殺してしまうのですから、この様な戯れは惨い内に入りはしないでしょう。

('、`*川「禿げてる」

掌で呆然としている「先生」を、女はにこにこと微笑んで見ております。
そうかと思えば「先生」を指で蹴飛ばしたり、貴重な後ろ髪を摘み上げたり、
かと思えば引っ掴んでゆらゆら揺らしてみたり、稚児と変わらぬ遊びに興じておりました。

52 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:54:23 ID:RVB3J.KE0
(´・_ゝ・`)「何を悩んでらっしゃるのですか」

('、`*川「何も」

地を這う様な声からして、女は相当機嫌が悪いらしいと察しました。
呪詛を吐く以外に、この様な声を聞くのは余り無い事でありました。

(´・_ゝ・`)「そんな事は無いでしょう」

('、`*川「何故そう言い切れる」

お手玉の様に彼方へ此方へ、投げ飛ばされる「先生」は恐らく生きた心地がしないでしょう。
とはいえやはり人間の見た目をした虫でありますから、咎める気持ちは皆無でありました。

(´・_ゝ・`)「その様な遊びをなされる時には、大概機嫌が悪いですもの」

はっきりと言ってやりますと、女は言葉を詰まらせて、黙りを決め込んでおります。
それがどうにも女の正直さと、嘘を練り上げる事の出来ない子供らしさを体現している様に思えました。

('、`*川「だって、さ」

縷々と、女は言葉を紡ぎます。

53 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:54:56 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「希望を持てだなんて、余計なお世話だっつーの。絵に描いた餅は食えねえし、
     それが本物になるまでどれだけ時間が掛かるか分かってんのかな。
     大体な、今の環境に甘んじてるからそんな事考えるのかも知らんけど、
     元はといえば軍の連中の所為だろ、彼奴らが巫山戯た名前の孤児院に
     ぶち込んだから、こんな目に合ってんだよ。
     そんな連中が用意した住処が真に安全だと思ってんのが滑稽過ぎる、
     片腹どころか両脇腹が痛くなるまで笑えちまうな。
     俺らの事なんざ人間とも思っていない、
     ただの便利な五寸釘程度にしか考えてねえ連中に、
     どうしておめおめと外に出られたらなんて期待出来るんだ、
     おめでたいおつむしてんな、反吐が出る、気分が悪い、本当に、最悪だ」

一拍、すうと息を吐きて、女は珍しく弱々しく問います。

('、`*川「……そう思っていたら、俺にも呪咀が返ってくるのかな。
     生きていたいと思うだけじゃ、駄目なのかな」

この様に、あからさまに弱り果てている様を見せる事は滅多に御座いませんでした。
口を開けば罵詈雑言、殊勝な口の利き方が多い女で御座います。
ですから、余程弱ってらっしゃいるのだと思えば、大変気の毒な心持ちになりました。

(´・_ゝ・`)「生きたいと思うのは、何らおかしな事では御座いませんよ。それが本能として
       刷り込まれておりますし、通常でしたら安堵と情けを担保されてこの世に生まれ落ちますが、
       貴女にはそれが無い。であれば、担保されなかった分、必死になって生きようとするのに矛盾は発生しないでしょう」

呪咀が返って云々については、僕にも如何にもしようが御座いませんでした。
慰めようにも、今手元にあるのは三方からの伝聞のみ、迂闊な事を
言うのは嘘を吐くのと同義でありますから、しようがなかったのです。
それは、相手も承知の様子でありましたから、この時初めて、女が求めている物の片鱗を掴んだ気がいたしました。

54 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:55:24 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「……あんたが居るから、あんな事を言わないのかもしれない」

(´・_ゝ・`)「左様で御座いますか」

('、`*川「あいつら、呪詛は使えても一人ぽっちだからな」

そうです、理解してくれる者も居なければ、こうして言葉を吐露する先も持ち合わせていないのです。
より深く、黒く、寒々しい孤独に晒されているのです。
おまけに先達の死も体感しておりますし、少しでもその煙を被らない様、必死になるのは無理もないかと思います。
ただし、僕の生まれについては先に述べた様に、失声し、並々ならぬ狂気と恨み言を、
奥歯の裏で噛み練りながら産み出した化生ですから、その様な背景を踏まえても、女は彼らよりも倖いであると言い切れましょうか。
決して容易に秤へと掛けられる様な事ではないと言えましょう。

('、`*川「寝る」

抽斗をちょいと開け、「先生」の首を突っ込むや否やぶちりと締め切って、女は寝台へと倒れました。

(´・_ゝ・`)「今日はもう、お眠りなさい」

胡乱な目付きの女に、僕は頭を撫でてやりました。
髪は変わらずぱさついており、赤い毛先はあっちへこっちへ、枝の様に分かれております。
肌も、水気の無い、藁半紙のような有様でした。
年頃の娘であれば、もう少し気を使ったっていいはずでありました。
あの髪の長い女ですら、夜にはつげ櫛で撫で付けているのです。
……何故知っているのかと言われますと、暇を見つけては、密かに中へと入っていたからで御座います。
隣室からの声が通り抜ける様に、言葉が壁を越える事も造作無い事なのです。

55 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:56:07 ID:RVB3J.KE0
(´・_ゝ・`)「栄養を考えて、食事を取られた方がよろしいですよ」

小さく促すと、

('、`*川「食っている」

億劫そうに、返事が戻って来ましたから、

(´・_ゝ・`)「肉は」

('、`*川「二度と食えるものかいな」

(´・_ゝ・`)「魚も召し上がらないでしょう」

('、`*川「死体が腐れたのと同じ臭いがする」

(´・_ゝ・`)「では何だったら召し上がります」

('、`*川「……ぼた餅」

(´・_ゝ・`)「……いつか食べられると宜しいですね」

僕は、この女の倖いを祈りながら、

('、`*川「諦めている、叶わなくてもいい」

嘆息と細く笑みを交えていた呼吸は、次第に整った調子の物へと変じていったのです。
言葉とは、無力なもので御座います。
どんなに尽くしても、この女を宥める絶対的な真理は無く、せめて側にと結び付くにしても、
積み重ねられた孤独を払拭出来る程の力を持っていやしないのです。
生身の人間でありましたら、この女を連れ出す事が出来たでしょうか。
そうして船にでも乗って、外国へと逃れれば、少しは安堵に見える事が出来たでしょうか。
しかし僕は女の望む通りにしか動けぬ身でありますので、夜通し側に居着いていたのです。

56 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:56:53 ID:RVB3J.KE0
……異変に気付いたのは、いつの時分でありましょう。
とっぷりと夜は更けていましたが、その晩は新月でしたから、
正確な時刻は分かりませんが、只ならぬ気配を察知したのです。
全身が怖気立つ感覚は後にも先にもこれが最後でして、その内女がうんうんと唸り出したのです。

(´・_ゝ・`)「おい、」

( 、 川「ゔゔぅぅぅ……」

声帯を無理矢理絞られ、胸中にある空気を押し出されている様な、悍ましい音でありました。
四肢を見ればばったばったと、縺れ、絡み、弾け、暴れ、捻れて、敷布団の上を狂舞しております。

(´・_ゝ・`)「これは……」

いかにも、呪詛を受けて死に悶えている様に御座います。
白目を剥き、陸に上がった魚の如く、苦しみ喘ぐその様、二度も目撃した光景であり、見間違い様が御座いません。

(´・_ゝ・`)「しっかりし給え」

体を揺さぶり、叫びかけるも、女に意識はありません。
ひぃ、ひぃ、ぜぇ、ぐぼ、と内臓が口へと迫り上がる様な声に、気だけが焦ります。
確かに、ここで死なせてやればどんなに楽な事で御座いましょう。
しかし、

(´・_ゝ・`)「貴女は、生きたいのでしょう」

この女が、死なせてくれと懇願した事など、一度たりとも御座いません。

(´・_ゝ・`)「貴女は卑怯だ、低劣だ、常人であれば、目も向けられぬ程に莫連だ」

57 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:57:39 ID:RVB3J.KE0
それでも、

(´・_ゝ・`)「生きるんだ」

死ぬ理由抔無いのです。

(´・_ゝ・`)「生きろ」

女は、生きなくてはなりませんでした。

( 、 川「っ、……き、ぃ」

(´・_ゝ・`)「ええ」

( 、 *川「ぃき、……ったい!!」

裂帛しいしい女は、どす黒く染まった痰の様な物を吐き出しました。
それは瞬時に丸くなり、そうかと思えば、尺取虫のように地を這うものですから、僕は慌てて捕らえました。

( 、 *川「殺せっ!」

刹那、僕の腕はみちりと膨れ上がり、呪詛を潰したのです。
音は単純かつ些細なものでありました。
五分の虫にも劣る、小さな小さな感触で、声一つ上げず、この呪詛は、絶命へと至ったのです。

( 、 *川「……他の者は」

はたと我に返り、女は部屋を飛び出しました。
僕はそのまま、部屋をすぅるりと通り抜け、中での惨状を確認したのです。

(´・_ゝ・`)(死んでいる)

その隣の部屋も、そして、

('、`*川「……死んでいた」

58 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:59:06 ID:RVB3J.KE0
廊下の果てから顔を出した女は、ぽつりと呟きました。
呪師ばかりでは御座いません。
階段や門に立っていた見張りや、宿直していた者まで、全員が絶命していたのです。

('、`*川「……そら見ろ」

ふつ、と女は声を漏らしました。

('、`*川「望みなんざ持っていたって、関係ねえじゃねえか」

全てを馬鹿にしたような笑みは、少々の悲しみを纏っておりました。
こうして僕と女とで二人きり、交代の軍人らがやって来るまで、
夜を明かして過ごしたのです。

(・∀ ・)「本当に何も知らないのか」

再三再四紡がれる斉藤の言葉に、女はやれやれといった様子で頷きました。

('、`*川「何、俺がやりましたって言うまで、このくそつまんねぇ問答が続くわけ」

(・∀ ・)「そうではない。ただ何故お前だけが無事なのかと」

('、`*川「さっきそれは話しただろ、呪詛を吐き戻して踏み潰したってなぁ」

語気荒く言い返すのも致し方ありません、何故ってこの問答をし出してから二刻半は経っているのです。
おまけにあの呪詛は余程広範囲に影響したと見え、厨にあった食材から調味料、井戸の水に至るまで、
全てが腐りに腐っていたものですから、飲まず食わずで何時迄も拘束されていたのです。

('、`*川「仮に俺が殺ったとしたら、とっととずらかってるに決まってんるだろう。
     鶏が鳴くまで此処に居座ってあんたら軍人殿の御到来を待つ理由なんか、有るなら言ってみろよ」

実際その通りで御座いますから、これには斉藤も閉口しました。
されども、左右に離れている彼の目は、妙な思案を巡らせている様でもありました。

59 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 18:59:40 ID:RVB3J.KE0
(´・_ゝ・`)(やはり未だ疑われている様ですね)

('、`*川(構いやしねえ、一先ず生き延びるとしよう)

ふん、と鼻を鳴らして笑う女に、斉藤はぎょっとして此方を見たのですが、怖がっていると思われるのが嫌だったのでしょうか。
さっと視線を退けて、それから渋々といった様子でこう言ったのです。

(・∀ ・)「……宜しい、君の責任については不問とする」

('、`*川「不問も何も、どう動けばあんたのお眼鏡に叶ったのかね」

挑発するような言葉に、しかし斉藤は動じず、静かに命じました。

(・∀ ・)「俺の邸宅の庭に、離れがある。其処に一先ず貴様を保護してやろう」

('、`*川「……安全なんだろうな」

繰り返しになりますが、人名と居場所さえ分かっていれば、呪師は相手を呪う事が出来るのです。
一度襲撃を受けているのですから、名前はもう割れてしまっています。
これで居処も分かってしまったら、また同じ目に遭うのは目に見えております。
対し斉藤は、妙に自信を持って答えるのです。

(・∀ ・)「俺は先ず実家には帰らないし、家の者にはよく言い聞かせてある」

却ってこれが空元気ならぬ空自信に見えて仕方が無いのですが、その滑稽さを重々本人は承知でありましょうか。
とはいえ余計な口答えをするのは、女の処世術に反していますから、やはり黙って従ったのであります。
斉藤の家は立派な洋風の造りで、余程最近になって設えたのであろうと容易に推察出来ました。
それで、我々に充てがわれた離れと言いますか、その正体は年季の入った、黴臭い土蔵でありました。
おまけに外扉の他に、錠付きの格子まで巡らされている有様、外から鍵を掛けられて仕舞えば、
はい、それでお終い、火事にでも遭ったら忽ち蒸し殺されてしまうでしょうと言いたくなりました。

60 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:00:27 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「随分と豪勢な処じゃねぇか」

面白みも無く、ぶすっとした顔で女は言いました。

(・∀ ・)「まあ許せ、お前は癲狂として此処に隔離されているという手筈になっているのだ」

('、`*川「へぇ、狐狸の拾い食いなんざした事がねぇのだがなぁ」

(・∀ ・)「……万が一お前が生きている事が知れても、気に障りがあるとして判断されれば見逃されるかも分からん」

斉藤なりに上へと掛け合って出した策なのでしょう、とはいえこれも女を思うが為で無く、唯一となってしまった
呪師を確保する為で御座います、礼を言う道理など、持っていなくてよろしいと女は結論付けました。
斉藤の去った後、早速我々は蔵の探索に勤しみました。
大変暗いのですが、幸いにも蝋燭だけはやたらと用意されています、燐寸だけは変な気を起こさないようにという心からでしょうか。
あまり数は無いのですが消えかけたら火を継げば宜しいでしょう。
それを持ち、中を照らしてみると、広さは二十畳程でしょうか。
今までにいた部屋の中では一番広い様です。
隅には簀が引かれていて、上には布団一式が揃っていました。
布団からやや離れて左手には、文机が御座います。
その隣にはやや段差がありまして、蓋を開けてみれば甕がありますから、どうも用を足すにはここを使えという算段の様です。

('、`*川「鼠と同居するのには持ってこいの部屋だな、全く」

(´・_ゝ・`)「仰る通りです」

('、`*川「やってられるかっての」

天井を見れば一つ、穴が空いておりますから、どうもそこが二階への入り口だったのでしょう。
しかし梯子が御座いませんから、登る事は出来ませんでした。
蔵へと入る直前に窓が一つ付いていたのを見ていますから、そこから脱走する事を恐れたのでしょう。

61 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:01:11 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「しかし寒いな」

(´・_ゝ・`)「ええ、全く」

絣の着物を手繰り寄せても、少しも暖かくはなりません。
火鉢でもあれば宜しいのですが、そんな物も御座いません。
布団にも包まりましたが、徐々に日が傾いて来ますと、やはり寒さに耐える事は出来なくなり、

('、`*川「一寸来い」

そう呼ばれて、側に居着いてやったのです。
それでも夜の寒さは骨身に染み入りましたね。

('、`*川「お前も嫌だろう、こんな時化た処で貧相な女と二人きりなんて」

(´・_ゝ・`)「御自分にその様な物言いはなさらない方が良いですよ」

('、`*川「だって、事実だろう」

確かに、女は卑しいのであります、それは紛れも無い事実でしょう。

(´・_ゝ・`)「しかし、それはいけません」

('、`*川「何故」

散々お話しした様に、女の身の上はご承知の通りでしょうが、それを推して尚も説きますと、
女は唯徒らに卑しい身分へと堕ちた訳では無く、現に僕はその変遷をまざまざと見ている訳であります。
よって事実に相違ないとしても、それは愛づるべき悪徳でもありました。

62 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:01:44 ID:RVB3J.KE0
(´・_ゝ・`)「御自身さえもが貴女を下したら、味方が居なくなってしまうでしょう。
       それは、とても寂しく冷たいものですよ。何人が貴女の価値を貶め、それが
       事実であったとしても、貴女だけは、御自身を絶対に肯定しなくてはなりません」

('、`*川「でも、俺にはお前がいる」

(´・_ゝ・`)「僕は唯の言葉で御座います。貴女以外に誰も見る事はなく、また触れる事も出来ません。
       しつこいのを承知で言いますが貴女が望まなければ、動く事も儘ならぬ身分であります」

('、`*川「…………」

(´・_ゝ・`)「己に価値を見出せぬ人間の元へ、諦観は足早にやって来るものです。その時、
       貴女に振り払う意思がなければ、僕は唯々じっと指を咥え、貴女が死ぬ様を見ているだけとなります」

('、`*川「…………」

(´・_ゝ・`)「批判抔は他人様に任せて、どうぞ御自身を強く保って下さい。そうして何時迄も、僕を使って下さいまし」

愛づるべき、悪徳。不思議な響きがいたしましょう。
同情していると言っても良いかもしれませんが、それとも少し違う様相です。
唯言えるのは、女の持つ良し悪し全てを以って、それでも良いと言えるだけの心を持っていた、という事です。
之も又、女が卑しいという事実と同程度の、揺るぎない事実でありました。
やがて年は明け、誰ともそれを言祝ぐ事なく、我々は静かに平常と変わらぬ日々を送っておりました。
軍部の方では、件の虐殺について調べていた様ですが、難航したと見え、それに伴い以来が来る事も御座いませんでした。
居処を特定出来ぬ内に呪詛を放てば、未だ軍の方で呪師を召し抱えている事が分かってしまいますので、賢明な判断とも言えましょう。
とはいえ一日一日を無碍に生きるのも、困ったものでした。
何せ暇を潰す道具が何も無いのですから。

63 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:02:11 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「お前は壁を抜けられるのだから、外に出ればいい」

はたと気付いた様子で、ある日女はそう言いました。

(´・_ゝ・`)「貴女一人をこの様な処に置いていけるものですか」

一人だけで外をほっつき歩いたとて、相手に後ろめたさを持っていれば何も楽しむ心など生まれはしませんし、
そもそもが目的もなく、ただそこらを遊ぶという気持ちが理解出来ないのです。
すると女は少しばかり考えて、こう言ったのです。

('、`*川「では外に出て、俺の代わりに花を見に行け。
     そうして一番初めに見つけた物をここへ持って来い」

そう言われますと、体は静々と動いてしまうものです。
なるべく早く帰るべしと心得て、ふうやりふうやり、僕は壁だの塀だのを超えて行きました。
季節はいつの間にか移ろいまして、隣の垣根から蝋梅の、霞んだ黄色が覗いておりました。

(´・_ゝ・`)(では、あの枝を手折る事としよう)

花信風に巻かれ、嫌よ嫌よと言いたげに枝は撓っておりましたが、ちょいと力を込めれば湿った音と共に、
手中へと納める事が出来、くんと匂いを嗅げば、仄かな酸と、濃厚なる甘美な香りが立ち込めました。

(´・_ゝ・`)(良い土産になるだろう)

強く確信したは良いものの、すっかりと肝心な事を失念していたのです。
枝は実体のある物ですから、壁を通り抜ける事が出来なかったのです。
そんな初歩的な事も抜けてしまったくらいに、揚々としてあの薄暗い処へと戻った時には、
しっかと握り締めていた、あのいい香りのする枝は何処かへと遣ってしまったのです。

64 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:03:10 ID:RVB3J.KE0
(´・_ゝ・`)「……どうしても見せたかったのだけれども」

非難がましく、思わず呟いてしまったものです、しかし女は初めから承知だったのです。
但し女の予想に反し、余りにも僕が気落ちしているものですから、女は慌てて言ったのです。

('、`*川「じゃあ、どんな花だったのかを聞かせてくれや」

握り締めた侭の拳を見せ、僕は尽くして説きました。
親指の爪程の大きさしか無い、繊細な造りの梅であるとか、花弁は紅でも白でもなく、
蝋細工めいた艶を帯びた薄黄色であったとか、慎ましく下を向いて咲いているのが愛らしいだとか、
四半刻ばかり、僕は一寸も黙っては居られずに、とにかく口が走るのに任せて喋り倒しておりました。
そうして漸く、言葉が尽き掛けた頃合に、女はうんと頷いてみせたのです。

('、`*川「俺にも屹度、お前さんと同じ花が見えているよ」

その一言だけで、どれだけ僕が救われた事か、貴方に伝わるでしょうか。
嗚呼、僕は任された仕事を全う出来たのだな、そう思えただけで正に幸福でありました。
以来、僕は女に度々任され、花の見物に行ったものです。
しかとその眼に焼き付けて、少しでも外の様子を知って貰いたかったのです。
今迄の出来事抔とは比べ物にならない程に、穏やかな時間でありました。
その侭ずっと居られれば尚良かったのですが、しかし定めはそう易々と我々を手放してはくれなかったのです。
先から言いました様、女は癲狂として蔵に隔離されていますから、私宅監置の法の下に置いて管理されておりました。
存じ上げているかとは思いますが、特定の部屋にて癲狂を監置する場合には、警察への届け出が必要となるのです。
故に時折其処が住うに相応しいかどうか、警察官が確認しに来るのです。
警察と言ってもこの時代、未だ未だ士族から成る者が多い時代であります。
軍と警察の間で何やら融通を利かせたらしく、折々に警官が此方に封書を渡す様になったのです。
帰った後に見てみれば、やはり中には人名と住所が書かれた書類に御座います。
再び、あの憂鬱な仕事をせねばなるまいと悟るのには然程時間が掛かりませんでした。
これが丁度、桜の散る頃の話でありました……。

65 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:03:50 ID:RVB3J.KE0
見廻りの頻度こそ高くはありませんが、それでもやはり己が存在の意義をまざまざと理解してしまうと、中々に苦痛極まるものでしょう。
増して窓も無く、日射の一つも浴びず、鼠がちゅうちゅうちゅうちゅう這い回る陰気な部屋にて
過ごす暗澹たる日々と来たら、今迄で一番の地獄とも言えましょう。
目に見えて女は衰弱し果てていたのですが、食事を運ぶ下女などがそれを見たところで斉藤に何と言えましょう。
斉藤もまた、こちらの様子などどうでも良いと言いたげに、見舞いも致しませんから、
尚の事この扱いには心頭しんがり激怒に満ちて、恨みの一つでも飛ばしてやろうか、いやしかし、
女は未だ黙しているので、そうも行くまいと何とか鞘を収めていた次第であります。
しかしてある日、またもや警官がやって来て、封書が手渡されたのですが、女は妙な顔をしたのです。

('、`*川(其奴の背後に立て)

意を組み、僕は直ぐ様帰り支度を始めている警官の背へ、ひたひたと寄ったのです。
女は封書を後ろ手に回し、稚児の手慰みの如く、封書を弄りまして、

('、`*川(封が一度開けられている)

きっぴと目を傾けて、そう訴えて来たのであります。

(´・_ゝ・`)(なんと)

('、`*川(やけに糊が分厚く塗ってある。此奴が遣りやがったんだ)

(´・_ゝ・`)(決め付けるには早計であります、尻尾を掴まなくては)

('、`*川「そうさな」

誰に向けるとも無く声を上げたものですから、警官はびくりと肩を揺らしました。
すかさず女は、

('、`*川「馬鹿野郎」

唯一言放ちました。

66 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:04:43 ID:RVB3J.KE0
爪'ー`)「……今、何と言ったか」

むっとしたような表情の警官に、女は素知らぬふりを決め込みますから、益々相手は面白くないので、一歩近付いてしまったのです。

爪'ー`)「おい、聞いているのか」

再三の問い掛けに、女は唖のように涼しく過ごしていますから、その内警官は歯を剥き出しにして、怒鳴ったのです。
その折でありました、女はゆうらりと立ち上がり、警官と目線を合わせたのです。

爪'ー`)「……な、なんだ」

戸惑いを隠せぬ警官を前に、女はくちくちと口の中を噛んだかと思えば、警官目掛けてぺっと唾を吐き飛ばしたのです。

爪#'ー`)「この……っ!」

('、`*川「聞きてぇ事が、あるんだなぁ。ちょいと黙って聞いてくれや」

瞬間、僕の背より黒い物が飛び掛かり、警官の口を真一文字に縫い止めたのです。

('、`*川「あんたら、軍の連中とは関係無く俺に仕事を寄越したな。正直に答えてくれ」

爪;'ー`)「そ、そぅ、う、ぅ……だ、ぇ」

困惑の表情の中、口だけは独りでに動くものですから、警官の面からは血の気が見る見るうちに引けていきました。

('、`*川「おっと、折角ここへ来たんだ、話が終わるまでゆっくりしていけや」

そっと左足をずらしたものの、女が見逃す筈もありません。
哀れ警官は対応せざるを得なくなりました。

67 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:05:41 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「誰の差し金だ、自由党か」

爪;'ー`)「わ、わ、わ、わか、わから、ない……」

('、`*川「ほう、じゃあ手前の仕事を教えてくんな」

果たして尋問に掛かったのは四半刻程でしょうか。
唾液の呪詛によって嘘ごまかしが効かなくなった警官の口は、非常に協力的でありました。
どうやら自由党の息が掛かっているのは上層部であり、彼を含めた末端の警官は上司である杉浦の言われるが侭にしただけでありました。
しょっちゅう見廻りと称して此処へと来たのも、書類を渡して来たのも、
全ては件の襲撃で唯一生き残った女に何れ程の力が残されているのか、知りたかったのでありましょう。
勿論この女は正気でありますから、振られた仕事は完璧にこなしております、
であれば斉藤の申告は虚偽であると分かり、機を見て相手側の呪師から呪殺されていた事でしょう。
何ともぞっとしない話であります。

('、`*川「いやぁ、運がないねぇ、あんた。なんで中身を見ちまったのかな」

爪;'ー`)「な、な、なかみ……っ、気になっ、なっ、ぉおれ達の間で、も、うわさにっ……」

('、`*川「そうだろうとも、気触れに渡す手紙なんぞ聞いたこっちゃないだろうさ、気になって仕方がなかろうね」

一寸した遊びのつもりだったのでしょう。
此方もそんな思惑が警察内部に蔓延っているとは思いませんから、蓋を開けて吃驚玉手箱とでも巫山戯ておきましょうか。
しかしこの警官をそのままにしておく事は出来ません。

('、`*川「服を脱げ」

爪; ー )「ひっ、ひぃ、いぃぃやだ…………」

('、`*川「脱げって言ってんだ」

涙ぐむ警官の面に、女はそっと剥いだ爪を押し当てますと――ええ、女自ら剥いだ爪で御座います――
哀れな警官は体を引き攣らせて、制服を剥いだのです。

68 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:06:45 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「いやぁ、立派な洋刀だなぁ。抜いて見せておくれよ」

にっかと笑う女に、やはり警官は逆らえず、そぞりと銀に輝く刃を見せたのです。

('、`*川「よし、それで顔の皮を剥げ。声は漏らすな」

残虐な遊戯の様に見えますが、決してそうではありません。
相手の皮と呪詛によって此奴に成りすまし、――虫の戯れの応用で御座います――署へと向かおうと思ったのです。
ご想像の通り、警官の末路については憐愍の情を免れぬ有様で御座います。
声一つ上げる事も、皮を剥ぎ終わる迄事切れる事も許されなかったのですから……。
まあ仔細は省くと致しましょう、かくして我々は初めて外へと出る事が叶ったのです。
が、目的は逃走ではなく、呪師の居処を特定する事でありました。
逃げてしまえば宜しかったのに、という顔をなされていますが、もう今になって社会に適応しようにも、
何処の馬の骨とも分からぬ女でありますし、半生を問われても聞かせられるような話では御座いません。
軍や相手の呪師からも追われ続けるようでは一生腰を据えて住むなんて夢のまた夢、
何方も居処が割れた時点で平穏無事にという訳にも行きませんでしょう。
何より、この女の本質は怨恨であり、一度相手に殺されかけた身であります。
やはりそれについては、やり返さなくては気が済まなかったのです。
署に着いた我々は、杉浦を探しておりました。
同僚と思しき者に声を掛けたところ、昼休憩と称して公園に居るとの事でしたので、早速探しに行ったのです。
丁度季節は皐月の頃合、新緑の季節でありました。
汗ばむ程の気候の下、彷徨っていますと、眼鏡を掛けた初老の男が、弁当を広げておりました。

( ФωФ)「おお、木津根の」

箸を振り、男が呼び止めましたから、これが杉浦であろうと目星を付けました。

爪'ー`)「お疲れ様です、杉浦上官」

( ФωФ)「ちょいと一本どうだ」

杉浦が差し出したのは、煙草の箱でありました。

69 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:07:27 ID:RVB3J.KE0
爪'ー`)(如何するかね)

(´・_ゝ・`)(お気に召す侭に)

一巡思案した後、女は煙草を頂戴致しました。
例の屋敷に住んでいた時には、軍人らが内外問わずすぱすぱとやっているのを
しょっちゅう見ていましたので、女も間も無く味を覚える事となりました。

( ФωФ)「どうだね、件の女については」

海苔の入った出汁巻をつつきつつ、杉浦は尋ねて来ましたので、女は滞りなく答えます。

爪'ー`)y‐「やはり正気です。獰猛な笑みを浮かべて封書を受け取りましたから、
     きっと今の時分には、面妖な儀式を行っているんじゃないでしょうか」

すると杉浦は、ふうと一息ついて、呟くのです。

( ФωФ)「すると女は、また人を殺めなくてはならんのだね」

その言い様に憐情はあれど侮蔑の色は無く、女はぎょっとしておりました。

爪'ー`)y‐「愚図愚図していると、あの女がまた人を殺してしまうかもしれません」

( ФωФ)「可哀想な事だね」

爪'ー`)y‐「……杉浦上官は、あの女を恐ろしいとは思いませんか」

( ФωФ)「君は、どう感じる」

張り詰めた問いを、穏やかな問いによって塗り潰され、女は益々杉浦という男を理解出来ずに居ました。
それでもまさか、自分がその女だとは言えませんし、悟らせた時点で如何なるかなんて、
分かったものではありませんから、努めて冷静に返したのです。

70 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:08:14 ID:RVB3J.KE0
爪'ー`)y‐「血も涙も無い、下民のように思えます。唯一俺との接点を見出すとしたなら、
      人間であるという点だけですが、実際には怨霊の類を相手にして居るような気分になります」

さもさもらしく振舞ったものの、杉浦は首を横に振りました。
何処かしくじったのでは無いか、一抹の心配が僕を掠めて行きましたから、僕はそぅっと杉浦へと絡み付いたものです。

( ФωФ)「いいや、その女もやはり人間さ」

爪'ー`)y‐「何故、女の肩を持つ様な事が言えるのです」

半ば警察官らしく、半ば女は馬鹿にされた様な心地になって憤慨して見せると、杉浦はこう言ったのです。

( ФωФ)「常々から言っている様に、確かに俺は自由党の肩を持っている一方で、俺は警察官であり、
       職務を果たさなければならない。運動が起こる度に鎮圧せねばならん事に無情さを感じてならないし、
       その度に己が仕事の性という物を考えてしまう。しかし同時に、今帰属している
       自由党の全てを称賛できるかと言われれば、それはまた違うのだ」

女の持つ煙草の火が尽き、杉浦はもう一度箱を差し出してきたので、黙したままに受け取ると、杉浦は微かに微笑みました。

( ФωФ)「人を殺しては、いかんのだよ。確かにその女も数多の人間を殺したのだろうが、
       其奴を殺しても、根本的な争いの解決にはならん。武器を持って制する事は勿論、過度の規制も殺しと同じだ。
       この国はどんどん一つの思想に纏め上げようと手を入れられているが、それでは駄目なのだよ」

爪'ー`)y‐「……じゃあ、どうすれば宜しいと考えているのですか」

( ФωФ)「話し合えばいい」

爪'ー`)y‐「話し合いで全てが解決すると思わねえがな」

ぽつと呟いた後、女は口調が崩れつつある事に気付き、杉浦を見ると、杉浦は、さして気にもせず、焼き鮭を解しに掛かっておりました。
塩がこれでもかと吹いている、真っ赤な鮭でありました。

71 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:08:43 ID:RVB3J.KE0
( ФωФ)「勿論、思想を掲げる者は皆己が意見が正しいと思っていようよ。しかし、殺し合い抔せずに、
       話し合いをすれば見ている我々の中から、また新しい意見が生まれるであろう。それを取り入れたり、
       ぶつかり合う抔をして、新たな意見と枠組みが生まれる……。
       そうして、分解と衝突と再構成を繰り返していけば良いのだ。
       丁度この塩辛い鮭も、解した後に飯と食えばいい塩梅となる」

爪'ー`)y‐「……では、人間は、」

そこまで言い掛けて、女は言葉を飲み込んでしまいました。
杉浦もまた、その先を勧める事もなく、嬉しげに米を頬張りながら言うのです。

( ФωФ)「国の行く先を憂う者は沢山いて、考える事は違うがそれでいいのだ。皆が一様の思想に染まる必要は無い」

確かに、杉浦の言う事は最もで御座いましょう、しかし現実には杉浦の考えもなく、二極化した思想の対決によって世間は揺れ動いているのであります。
なんともはや、無力な思想かつ純粋な理想でありましょう。
二本目の煙草が尽きた頃、杉浦は警官もとい女に、

( ФωФ)「木津根、ちょっと使いを頼まれてくれないか」

と、神妙な声音で呼び掛けたのです。

爪'ー`)「何で御座いましょう」

( ФωФ)「……住所を渡すので、其処にいる先生方に、件の女についてどうか恩赦願えないか伝えてくれないか」

手帳に万年筆を走らせ、どうやら渡されたのは、とある寺の所在地でありました。

72 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:09:40 ID:RVB3J.KE0
( ФωФ)「制服では目立つだろうから、着替えて行くが良い。何卒、女を殺さぬ様にと」

爪'ー`)「…………」

目の前に、部下を殺した女が居るのです。
しかも散々に呪詛をばら撒き、杉浦の慕っている先生方の命を奪って来た女であります。
それでも、女は警官に化けているのですから、断る理由抔持ち合わせていないのです。
しかと真面目に、苦汁を飲む様な心地で頷く他ありませんでした。

( ФωФ)「任せたぞ」

爪'ー`)「……任されました」

( ФωФ)「それから、爪の剥がれには軟膏を塗って綿紗を巻いておくが良い。雑菌が入ると大変な事になる」

爪'ー`)「……痛み入ります」

深々と頭を下げ、女は唇を噛み締めておりました。

爪'ー`)(普通の人間であれば、こんなにも人間は優しくしてくれるのだな)

そう思いましても、やはり女は人殺しの人非人であります、その事実は決して変わらないのです。
されども、生きなくてはなりません。
芯の底から生きたいと女は思い、また果たしたいと考えた仕事を持ってしまったのですから。
そうして、僕がやっと杉浦から離れた頃でありました。

73 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:10:29 ID:RVB3J.KE0
爪'ー`)「杉浦殿」

面を上げた女がしっかと見つめていますと、杉浦は視線で先を促しました。

爪'ー`)「悲嘆院という孤児院をご存知ですか」

( ФωФ)「悲嘆院。……悲田院ではなく」

爪'ー`)「ええ、悲しみ嘆くという字面の、孤児院であります」

ふっと息を止め、女は言葉を吐き出します。

爪'ー`)「少しでも人殺しを減らしたいとお考えでしたら、其方に行くと宜しいでしょう」

そうして、今度こそ、女は立ち去ったのであります。

74 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:11:31 ID:RVB3J.KE0
署から歩いて半刻程、歩きに歩いて我々は、郊外にある麻喜寺へと辿り着きました。
外観には普通の仏閣となんら変わりは致しませんが、此処が自由党員、ひいては民権主義者らが
出入りしている建物であると知ってしまえば、やはり妙な目で見てしまうものでした。

爪'ー`)(入るのに、少し躊躇ってしまうな)

珍しく繊細な物言いを致しますから、思わず女を見てしまいました。
それを非難と受け取ったのか、はたまた急かされたと思ったのか。
女は開け放してある門へと寄って、足を踏み入れた次第であります。
すると、

爪'Il`)「ぐっ」

皮に亀裂が走り、べろりと剥け、霧散と化したのです。

('、`*川「結界の類を敷いて居やがったな」

半日ぶりに元の貌を得た女は、そろりと顎を撫でました。
その内、足音が騒々しく聞こえまして、どうも早々に侵入した事が分かってしまったらしい、と僕は蜷局を巻いておりました。

(’e’)「何者だ」

寺社より出でたのは、軍刀を下げた男衆、その数六人。
しかし、呪詛を吐く女の敵では御座いません。

('、`*川「死ね」

瞬間、僕は膨れ六方へと向けて地を這い、足元から天辺、しんがり残さず駆け巡ったのであります。
心得も無く怨恨食らいし男らは、翻筋斗打って口々に言葉も成らぬ声上げ七転八倒、
終わりの終わりまで見る事なく、女は先へと急ぎます。
とうとう助かるまいと見込むまで、僕は男らに憑いて回っていたものの、やはり女の動向が気になります故、漫ろと後を追いました。

75 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:12:00 ID:RVB3J.KE0
寺社に上がり込んだ女は、慈姑頭の男と相対して居りました。
僧衣を纏っているものの、その目は修行したと見えぬ、俗気と三毒に満ちておりまして、
詰まる所この女と少しも変わらぬ風を吹かせていたので御座います。

(゚、゚トソン「軍の犬か」

そうろりと立ち上がり、男は錫杖を手に致しました。

(゚、゚トソン「随分と捨て鉢になったものだな」

('、`*川「命令で此処に来たと考えているのなら、思い違いも甚だしいぜ」

(゚、゚トソン「では何故此処に」

('、`*川「そらぁ、俺の質問よ」

けっけと喉奥で笑うのは、女が調子を整えているからでありましょう。
僕も万が一に備えまして、男に巻き付こうと致しましたが、

('、`*川(まあ、待っていろ)

(´・_ゝ・`)(宜しいのですか)

('、`*川(俺の済むようにさせろ)

そう訴えて来ましたので、僕は静々と燻っていたのです。

('、`*川「手前、何処から来た。何故呪師なんぞに成った」

すると男は、さも失望した様な顔をしたのです。

76 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:12:33 ID:RVB3J.KE0
(゚、゚トソン「勿体振るので何かと思えば、そんな事……。人に聞かせられる様な話でも無い」

答えたくないとはっきり断られたのでありますが、女はそうとは取らず、変わらず喉奥で笑います。
笑いますから、男は気狂いでも見る様な目つきで、女を見たのです。

('、`*川「なぁんだ、手前も俺と同じ身の上か。大層に法衣なぞ着やがっているのに」

(゚、゚トソン「私は貴様とは違う。憎しみによって、ただ人を殺す様な、賎民とは」

('、`*川「何が如何違うって」

獣の如く犬歯を見せつけ、女は詰るも男は平然としております。
その時点で、僕は勝手に男を殺してしまえば良かったのでありましょう。
されども僕は、女の命を愚直に守っていたのです……。

(゚、゚トソン「私は、大義の為に戦っているのだ」

('、`*川「へぇ、ご大層なこって」

(゚、゚トソン「国民を操り、権力を肥大させ、その汁を啜る軍は、国民の敵である。
     私を手中に収めていらっしゃる先生方は、その国民の為に戦っておられるのだ。
     ……私はその汚れ仕事を請け負っているだけの事。同時に、これは私にしか出来ない仕事なのだ」

そらそらと語る言葉に、されど熱は無く、今度は女が失望する番でありました。

('、`*川「……手前は、本気でそんな事を言ってやがるのか」

77 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:12:56 ID:RVB3J.KE0
馬鹿馬鹿しいと思っているのが透けたらしく、男は薄白い頬を赤くして、

(゚、゚トソン「先生方の行いを、愚弄する気か」

と言いますので、女は首を振ったのであります。

('、`*川「手前、望んでこの仕事を請け負うって決めたのか。喜んで人を殺してやると決めたのか」

(゚、゚トソン「…………」

('、`*川「俺は望んで成った訳じゃねぇ、生きる為に仕方無く、だ。
     両親共々揃っていれば、こんな仕事の事なぞ知らず、何処ぞへと嫁いで居ただろうさ」

(゚、゚トソン「……何が、言いたい」

('、`*川「答えてねえのは手前の方さ。手前は、人殺しに成りたかったのか」

(゚、゚トソン「…………」

('、`*川「もう一つ聞こう、手前の元々の仕事は何だったんだ」

( 、 トソン「…………」

('、`*川「あの日、手前が飛ばした呪詛は、果たして本当に軍人共々皆殺しにしろという命令によって為されたものだったのか」

( 、 ;トソン「…………」

('、`*川「答えられねえのか」

( 、 ;トソン「…………」

('、`*川「……腥坊主だな」

78 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:13:25 ID:RVB3J.KE0
瞬間、錫杖の頭が女の目元を激しく打ち叩き、女は音を立てて倒れたのです。

(;´・_ゝ・`)(この野郎っ……!)

('、`*川(待て)

(;´・_ゝ・`)(しかし……)

('、`*川(待て、と言っている)

のそと起き上がり、帯刀していた軍刀を抜くと、

('、`*川「答えられねえって事は、手前も俺と同じ身の上で、軍人も手前の私怨で殺し過ぎたと取ってもいいな」

女は、尚も挑発したのです。

( 、 #トソン「巫山戯た事を、言うんじゃねえ……」

畳に向けて、鈍い音を放ちながら、錫杖がめり込みます。
それに反して遊環はしゃりり、軽やかで涼やかな音を上げるものですから、男の建前と本性を表している様に思えました。

(゚、゚#トソン「私は、大義を果たすのだ!」

錫杖片手に男は軽やかに踏み込み、女の右手を捉えます。
一瞬顔を歪めたものの、女は剣を離さず、薙いで斬り付けようとするが、反応するが早く、刃に錫杖を噛ませましたから、
耳障りな金属音が響くだけ、それがまた、強かに打ち叩かれた女の右手に響きますから、ちょいと力が緩んだのです。
賺さず錫杖に力が入り、そのままはたき落とされてしまったのです。

('、`*川「ぐっ……」

二度、三度と腹を打たれ、女の身は崩れ落ち、差し詰め男に平伏す様にも見えました。

79 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:14:02 ID:RVB3J.KE0
(;´・_ゝ・`)(ああ、如何すれば宜しいのか)

面を上げようとする女の首を打ち、男は頭を踏み付けます。

(゚、゚#トソン「……貴様の、舌を、引き抜いてやる。次に、手足を落とす。
     その次には、男共の、慰み物とする。
     最後に、海へと投げてやる……。苦しんで死ぬが良い」

死ぬ。
女は、殺されてしまうのです。

(´・_ゝ・`)(この侭で宜しいのでしょうか)

女に問い掛けても、その心は読めず、僕は立ち尽くしておりました。
僕は、言葉は、使われる身であります。
口に出さぬ限り、言葉に秘められた力は、生み出されず、その者の中で秘匿され続けるのです。
では、口に出したくとも出せぬ言葉は、延々と積もり積もった末に如何なるのか、その体現が現在と成ります。
体を得た僕は従来通り、言葉の流儀を果たし続けて居りました。
僕は彼女の言葉で在り続けようとしたのです。
愛も知らず呪詛のみを吐く女に対し、僕はせめてもの想いで、女と繋がり続けようとしたのです。
言葉の本質は、人と人とを繋げる事で御座います、性質の善し悪しはさて置き、その事に変わりは御座いません。
僕は、彼女を独りにしたくなかったのです。
ですから、悪に染まり行く女とは対照に、敢えて僕は善で在り続けようと努めていたのです。

80 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:14:31 ID:RVB3J.KE0






されど、女の願いは生きる事であり、呪詛を紡ぐ事。






.

81 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:15:25 ID:RVB3J.KE0






そして、恩讐彼方に見据えるは、この男に非ず。






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82 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:16:10 ID:RVB3J.KE0





呪殺すべしは、己が宿命――。





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83 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:16:54 ID:RVB3J.KE0
かふ、と肺より空気の漏れる気配が致しました。
床に転がっていた軍刀が、胸へとつきたてられたからで御座います。

( 、 ;トソン「なっ……、ぜ……」

ぎ、ぎ、と背後を見やる男は、ひぃと悲鳴を上げました。

( 、 ;トソン「お、鬼……っ!」

ええ、ええ、鬼は隠(おぬ)から――人の目には見えざる超常的な力という意味であります――
転じた化生で御座いますから、確かに僕は言葉から鬼へと変じたのでありましょう。
その証左らしく、頭皮と髪を押し上げて、二本の角が生えつつありました。
これを以って鬼と言わねば、何と形容致しましょう、されどもっと相応しい言葉が、見つかったのです。

(´・_ゝ・`)「いいえ、僕はこの女の呪詛で御座います」

ただ使われる機会を待つ身では無く、女が生き延びる為になら全てを踏み躙らんとする呪詛で御座います。
しかし気分は不思議と晴れており、女が生きている事に、僕は並々ならぬ幸福を抱いたのであります。

('、`*川「先に死ぬのは如何も手前になりそうだな」

殊勝な女の物言いに、男は目も合わさずにぶちぶちと呟いておりました。

('、`*川「聞こえねぇなあ」

( 、 ;トソン「……に、……ち……な、……」

84 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:17:37 ID:RVB3J.KE0
唾液と練り合う響きは如何にも良からぬ色でありますが、男の前髪を掴み女は問うのです。

('、`*川「大きい声では言えないけれども、小さな声では聞こえませんなぁ」

すると、

( 、 ;トソン「貴様に、価値などない!」

男はごぶり、火の玉の如く血塊を吐きて、罵り始めたのです。

( 、 ;トソン「貴様には、何の価値はない! 存在を喜ぶ者もいない! 貴様は、圧倒的にひとりだ!
      周りには誰もいない、まるで希望も無く、唯利用されるだけに存在しうる道具だ!
      未来抔無く、微塵の可能性も無い!」

('、`*川「…………」

( 、 ;トソン「そうだ、お前は無意味だ、無意味で無価値で無様で滑稽だ!
      絶望的とも言える、本当に笑える、お笑い種だ、お笑い種!
世間が見れば、お前など、唯の愚図で、俗悪で、低劣な、生きる価値の無い塵芥!
      なのに、何故、私が殺されなければならないぃぃ……!!」

男は、己が生命が終わるという事実が受け入れられなかったのでしょう。
長大な罵倒の末、僕は怒り余って、ぐつぐつと男の体共々に煮えくり返っていたのですが、何ら音沙汰は無く、
泡飛ばし、血眼に成り、何か一つ、女よりも己が優っていると確信する迄、男は口を閉じはしなかったのです。

('、`*川「……違いない」

85 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:18:58 ID:RVB3J.KE0
ぽつと言い捨て、

('、`*川「俺は卑劣だ、人が当たり前に生きているだけで憎いと思い、
     全人種の死を希う、仕様のない屑に違いない、違いないが、」

ふ、と儚い笑みを浮かべる女は、

('、`*川「手前も俺も、他人にこき使われるだけの道具、唯の五寸釘さ。
     それが如何して俺だけを、屑だ何だと言えるのか、よくも手前だけが清廉潔白、
     表で言いふらせる様な仕事をして居りますって面で俺を引っ叩けたもんだな、この糞ったれが!」

目の奥で、めらと怒りが舐り焼いていたのです。

('、`*川「屑で結構、塵で結構、卑怯とも劣等とも好きに言うが良い。しかし、生きようと藻?惜く事の何が悪い!
     他人に重宝されようが値踏みされようがそんな物、俺には微塵も価値が無ぇ!
     俺は、俺の生に、価値を感じている、それを他人様に如何斯う言われる筋合いなんざ許しゃし無ぇ!
     それが、俺だ!!」

舌が回りに回って長台詞、一息たりとも吐く暇無く、仰せたものですから、大したのでしょう。

('ー`*川「手を貸せ」

諸手を僕に翳しまする女には頑是ない笑み、相対する男には死相と絶望、
それを超えて僕は軍刀掴みつつ、肩より更に腕生やし、しっかとその手を受け止めます。

('ー`*川「この男に、俺の爪を全部呉れてやる」

言うが早いか、もんずと女の指先に僕の節が入り込み、ぴしと天井目掛け弾き飛ばせば、
悲鳴一つも上げられぬ内にだらだらり、赤い血弾けて男を取り囲み、
決して逃しは致しません。

86 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:21:12 ID:RVB3J.KE0
('∀`*川「喜べ、腥坊主の五寸釘。今から手前は死ぬよりも遥かに辛く酷い憂き目に遭うが、
     但し泣いて叫ぼうが死にたかろうが俺は一切合切承知し無え。
     遠慮せず、この殺意怨恨怒気跋扈、受け取ってくれや。
     なぁに、咫尺を弁ぜぬ間柄、汚え仕事してる者同士の吉見さね、
     遠慮せずに共々碌でもねえ人生を仲良く歩もうじゃあないの」

( 、 ;トソン「やっ、ゃめ……っ……」

刹那、僕は再び煮え立ち男を包み、ぎゅぅと圧縮せしめたのです。

( Д ;トソン「ぐぅううぁあ ゙あ ゙ぁあ ゙!!」

悶うる相手を血潮髄液肉骨削いで均して型に嵌めるも、相手は必死で御座います。
血眼剥いて女を見上げ、

( Д ;トソン「お前に、お前に救い抔無い!
      ……いや、小さいものも、大きなものも、皆救われない……!絶望的だ……!」

('、`*川「その通り。坊主殿は偉いなぁ、死に際に説法かますとは」

( Д ;トソン「なら……何故……生きようとする……!」

納得出来ぬ男を見下げ、女は言います。

('、`*川「もう一生、救われ無ぇからさ。手前も、俺も」

( Д ;トソン「う、ぅう、死にたく、無い……死にたく……!」

('、`*川「地獄の沙汰も今際の際も、とっくの昔に演じてらぁに。
     今更じっくり死んだところで何ら変わりゃせんさ」

果たして女の声は男に届いたのか、お答えする事は出来ません。
呆然としつつも罵倒を連ねる男に、痺れを切らした僕は渾身の力を込めまして、頭から抱き沈めてやりました。
そしてとうとう、男は女の影と一体になってしまったのです。

87 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:21:55 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「そうだろう、腥坊主殿」

呼び掛けるにも、後にはざくり、血を吸った畳へと軍刀が刺さり落ちるのみ、といった具合で御座います。
ちょいと影を突いてみるも、何ら音沙汰はなく、しかし幽かに影の濃淡が変わりますから、やはり男は閉じ込められてしまったのです。

(´・_ゝ・`)「万が一にも僕が動かなかったら、貴女は如何するおつもりだったのですか」

非難めいた言い回しで突きますと、女は罰の悪そうに、

('、`*川「いいや、お前なら遣ってくれると思った」

抔と申しますから、僕は呆れて居りました。
同時に一人で生き長らえて来た女が僕に身を委ねるだなんて、初めての事でありましたから、信頼を寄せられているのだと思えば又心地が違って参りました。

('、`*川「之にて俺の仕事は終いさ」

すっきりとした容貌で、からからと笑っていた折でありました。
たす、たす、たす、と、二本揃えた指の腹で、西瓜がどれ程熟れているのかを、確かめている様な音がしたのです。
その西瓜の中には生肉が詰まっておりまして、湿りつつも粘った様な音を吐きまして、
女は、あっと言いたげな表情で、此方に倒れて来たので御座います。

(´・_ゝ・`)「……おい、」

( 、 ;川「……くそ、っ」

食い縛る女を受け止め、門の方へと顔を上げてみれば、其処には警察官が七、八人、銃を構えて立っていたのです。

88 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:22:24 ID:RVB3J.KE0
( 、 ;川「潮時、か」

観念した様な声を上げますが、僕はかぶりを振りつつ、

(´・_ゝ・`)「貴女は、生きなくてはなりません……。生きたいと願っていたではありませんか……」

するとこんな時分であるというのに、女はそっと柔らかく笑んで答えるのです。

( 、 *川「もう、いい。俺の大義は、全て済んだ」

どうも心を覗いてみれば、真の底から思っている様でありますが、しかし唯一の望みが薄らぼんやりと、僕へと迫って来たのです。

( 、 *川(此処では死にたくない。もう、誰の好きにもさせず、俺が望む侭に。一人で、静かに……)

重ね重ね申し上げますが、世間一般から見て、確かに女に生きる価値は無く、
同情の余地すら見出す事の出来ない、嫌悪すべき存在で御座いましょう。
しかしこの女が一生涯を懸けて掴もうとしたものは、生きたいという、普遍的な願望で御座います。
黒々と女の心身を蝕む浅ましさは、その過程で培われてしまったものであり、自ら望んで染まった訳では無いのです。
全く以って同情を禁じ得ない身の上でありましょう。
況してこの鬼めは、まざまざと間近で見聞きし、散々たる生涯を共に歩んで来たので御座います。
その様な哀れで愛い女の願いを、果たして叶えない鬼抔居ましょうか。
抱え込むが速いか僕は疾風となり、警官共の間をばらばらとすり抜け、忽ち人気の無い場所へ向かったのです。

( 、 *川「……俺に、気など、使わなんで、いいものを」

(´・_ゝ・`)「いいえ、何と仰られようとも、僕は貴女の願いを叶えます」

今迄何者かに支配され続け、我慢を強いられて来た人生で御座います。
せめて死に際くらいは自由にさせたい一心で、遁走して居りました。
而して我々は、掘っ建て小屋とも言えるこの長屋へと辿り着いたのです。

89 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:22:55 ID:RVB3J.KE0
( 、 *川「俺に、似合いの、場所だなぁ……」

肩、腹、足からたらたらと、相変わらず血は流れ、女の体は随分冷え切っており、口を利くにも随分無茶をしている有様です。

(´・_ゝ・`)「喋ってはいけません」

居た堪れず言い聞かせるも、女はまた例の、けっけと喉で笑んで居りますから、
ぎゅうと骨の折れる手前まで、思い切り抱き締める他御座いませんでした。

( 、 *川「痛ぇぞ、鬼っ子」

(´・_ゝ・`)「少しでも寒くならぬ様にと、施して遣りたいのです」

( 、 *川「……好きにしろ」

(´・_ゝ・`)「ええ」

女が咳き込むと、肩口にべちゃと熱が張り付きましたから、恐らく吐血でもなさったのでしょう。
恐ろしくて少しもそちらの方抔見ず、稚児を寝かしつける様、背中を撫でておりました。

( 、 *川「いい、良いな……。懐かしい」

(´・_ゝ・`)「もう、黙って下さい……」

( 、 *川「……なぁ」

(´・_ゝ・`)「はい」

( 、 *川「もし、生まれ変わりってやつがあるのなら……、俺も言葉に、なりてぇなあ」

何故、とは聞きません。
理由は痛い程に分かりました。
再び人に生まれ変わろうとも、やはり人間は争いを、――いいえ、衆生有る限り、憎しみは消えないのでしょう。

90 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:23:18 ID:RVB3J.KE0
その様な心に別れを告げ、ただ使われる身でありたいと、女は思ったのです。
言葉は人間の周りで常に存在し、意識もなく、良くも悪くも使われますから、
如何使われようとも、何も感じぬ心が欲しいのだと気付いてしまった時の悔恨たるや……。

( 、 *川「……死ぬったぁ、随分と、時間が、かかる…………」

(´・_ゝ・`)「お願いですから、もう無理をしないで下さいまし……」

( 、 *川「……苦労を、かけたな」

(´・_ゝ・`)「……いいえ、僕は貴女のお側に、何時迄もお仕え致します」

( 、 *川「……他所に行ったって、かまいやしねぇ、ぞ」

(´・_ゝ・`)「地獄の果てまで、お供致します」

( ー *川「……もの好きめ」

微かに笑った様な気配がし、僕は堪らなくなる程に、この女の事を慈しんでいるのだと初めて気が付きました。
女が何と称され様とも、唯一真面な口を利いてやろうという気になったのも、哀れみではなく愛しいからだとも……。
しかし今更それを口にするのは、野暮というものでしょう。
現に言わなくとも、

( 、 *川「ずっと、いて」

(´・_ゝ・`)「いてやる、ずっと」

( 、 *川「ずっと、そばに、そ、」

(´ _ゝ `)「そば、に、いて」

( 、 *川「いてやる……」

91 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:24:06 ID:RVB3J.KE0




女は、そう言って、芯の底から氷の様に冷え冷えとして、それでも僕の着物を、掴んで離しはしなかったのです。





(´ _ゝ `)(そうだ、そうだ! 俺はお前を愛してやるぞ……!)




.

92 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:25:06 ID:RVB3J.KE0





(´ _ゝ `)「俺だけは、お前を、愛してやるぞ!」

慟哭宛ら、地の果て迄響きます様、僕は伝えます。

(´ _ゝ `)「愛して、やる……!」

それきり、ぶっつと意識は途切れたのです。




.

93 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:25:32 ID:RVB3J.KE0
気が付きますと、朧げに意識がある事に気付きまして、僕は辺りを見廻しました。
ただ其処には何も無く、

(´・_ゝ・`)(全ては、夢、だったのでは)

思うも、自我がある事に違和感が致します。
おまけに四肢の感覚までもがはっきりとしまして、

(´・_ゝ・`)(いや、いや、之はおかしい……)

額を探りますと角が微かに有る、そう自覚した途端に、

とった、とった、とった、

と足は橋を渡って居ります。
之は何処へ繋がる橋か、必死に歩き続けると四方の景がはっきりとこの頭に触れて来るのです。
やがて、赤黒い空が見えて参りました。
天には七の彩りを撒き散らす、太陽らしきものがありまして、その又隣には、穴の空いた様にも見えまする奇怪な月がありました。
その下には鉄の様に重苦しい色をした山の峰が続いており、雪とも雲とも言い付かぬ、
平たい様に見えて何層にも厚みを連ねた奇怪な霞が広がっておりました。
その手前にはずろりと障壁が囲んでいまして、又其処へと辿り着くまでには
広大な川と、白く艶めいた蝋石の様な砂利が続いておりました。

(´・_ゝ・`)(どうもこれは、賽の河原では無いか)

ともすれば、此処は地の獄でありましょう。
亡者どもを押し退け、僕は直ちに女を探しに行きました。
川原に着きますと、其処には牛頭と馬頭が居りまして、その内馬頭の方が僕に気付き、首を傾げたのです。
ははぁ、さては角が生えて居ますから、獄卒連中と間違えられたのでありましょう。

94 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:26:02 ID:RVB3J.KE0
問われるよりも先に、僕は女を探していると伝えますと、馬頭はうんうんと唸るばかり、代わりに牛頭の方が、

(´<_` )「女と言われようと、此処には五道より出ずる者が日々降ってくる。
       それらが全て逃げ出さぬ様、見張っているだけなので、特徴など言われても分からぬ」

きっぱりと断って来ましたから、はて如何したものかと考えていた折でありました。
川に沿って、悲鳴がどんどん流れて来ましたから、何とは無しに顔を上げたので御座います。
豆の様に見えまする人集りの上を、何者かが飛んだり跳ねたり、詰まり亡者を踏み付けながら歩んでいるのです。

(´<_` )「何と……」

絶句する牛頭に対し、馬頭の方は

( ´_ゝ`)「まあ、これ如何にも……只ならぬ……!」

驚嘆しいしい、其処を指し、

( ´_ゝ`)「あすこに行きたまえ!」

言うより早く、僕はとっくに駆け出しておりました。
並走する透けた川の底では、傴僂の大魚や口ばかり目ばかりを持つ蟹に、
注連縄の如く畝る蚯蚓抔、多様な生き物が挙って亡者を引き摺り込む様が見えました。
恐らく罰を受けるよりも先に、これらの化生によって五臓六腑撒き散り四肢も散れ散れ、
生き餌となりながら、閻魔の元へと向かうのでありましょう。
そんな目に逢おう抔とは微塵も思わず、喜び勇んで他人を蹴落とす者、心当たりは一人しか居りませぬ。

(´・_ゝ・`)「やはり貴女でしたか」

('、`*川「来るのが遅かったな」

不遜極まる態度でありますが、再会を喜んでいるのは確かでありましょう。
深々と沈む亡者より飛び降りて、女は僕の元へと泳いで来たのです。

95 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:26:27 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「酷く体に染みる」

死因となりし銃槍から水が染みているのかと言われますとそれは違いまして、
三途の川というものは、罪を犯した数だけ針の様にその身へと突き刺さるのです。
女が入水するのも嫌がって当然でありましょう。
ちちくちちくと衣を抜けて、僕も小さな罰を受けておりました。
その居心地の悪さと来たら、堪ったものではありませんから、僕は女を抱き上げてやったのです。
それも見越してか、今度は肌についた水が紅蓮に燃え出でて、女の髪肌衣全てを焦がしますから、

(´・_ゝ・`)「水と焔、どちらが宜しいですか」

思わず問うてしまったものです。

('、`*川「好きにしろ」

しかしそれでも、女は平然としてらっしゃいますから、大したものだと感心しておりました。
最も之ではちっとも罰になりませんので、獄卒連中には困ったものでありましょう。
さてやっとこ川を渡り終え、閻魔と謁見を控える事となるのですが、我々は一目見る事も許されなかったのです。
代わりに、一尺ばかりの小鬼がやって来て、

川 ゚ -゚)「立ち去れ。此処にお前の居場所抔無い」

と申しますから、何故かと問うてみた訳で御座います。

川 ゚ -゚)「第一に、図々しすぎる。他人を平気で蹴落とす事に躊躇いの無いお前に良心は皆無と判断した。
     第二に、その影に掛かっている呪詛が、余りにも強烈である」

('、`*川「如何言うこっちゃ」

川 ゚ -゚)「その影が受けた呪詛は、死ぬよりも遥かに辛い目に合わせる物であろう。
     であればそれを身に付けているお前にも、当然降りかかるのが筋と言えよう」

96 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:27:05 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「何故!」

川 ゚ -゚)「何故って、お前、同業の吉見とやらで共にそれを享受しようと言ったではないか」

('、`*川「…………」

川 ゚ -゚)「散々人を食い物にして生きてきた宿報とも言えような」

果たして、この獄卒を論破する如何様な理屈が御座いましょうか。
三千世界何処を探しても、女の行いを正当化出来る理屈抔、見つかる事は無いでしょう。
我々は、救済の手立てを失ったのであります。

川 ゚ -゚)「再度言おう、此処にお前の居処は無く、罪を償う機会も与えない。立ち去れ」

斯くして獄卒が手を翳しますと、忽ち業火が我々を包み込んだのです。
流石に女も倒れ込み、僕も前後不覚の目に遭いました。
それでも女の側にと思いまして、僕はしっかと抱きしめたのであります。
気付けば二人の眼下遥か先に、地獄と思しき川原が見えて居ます。
その次には、太陽と月と背を並べて居りました。
我々は果てしなく上っているのか、それとも地獄が更に下へと窄んでいるのか。
何も分からず、唯地獄から遠ざかっているのだと理解は致しました。

('、`*川「なぁ」

女が呼びまして、指差す先はもう何処なのか、ただ目に付いたのは、色でありました。
赤、青、紫、青、黄、橙、緑。
虹であります。
互いに色を出し合い、補いながら、僕と女は虹と成ったのです。
灼熱の虹は尚も地獄を突き放し、現世へとひた走り、迸る熱は人々の間をすり抜け、意識を焦がすのです。

97 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:27:44 ID:RVB3J.KE0
僕は犬と成りました。
女は猫と成りました。
塀の上を歩く猫に犬は喰らい付き、猫の腹から鳥が二羽飛び立ち、かと思えば蛇となり、
鳥を喰らうとそれは変化の遅れた僕であり、喰われた直後に魚となった為、
蛇は腹が裂け、その身は海老と蟹とに分かれ、蟹は魚を引き裂き、海老がまた喰らいます。
藻屑となる僕は猿の群れとなり、蟹を食い、しかし毒に当たってしまい、
猿は苦しみながら死に、その上に木の葉が積もり、目に見えぬ物が猿を土へと変じます。
蚯蚓となった女は土に住まうも、僕が大雨を呼び、川となり流されました。
海へと出でた蚯蚓は生きてはいけません。
されども魚が、その死骸を喰うのです。
海は余りにも広大で、有相無相の区別もありません。
なんと恐ろしく、透んだ世界でありましょう。
けれども我々は蒸発し、天高く透く一片の雲にされ、再度地上へと降り立つのです。
ざんざんと、見窄らしいあばら家へ。
誰にも見つからず、誰にも知られず。
密やかに、我々は、取り残されたのです。

98 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:28:36 ID:RVB3J.KE0
(´・_ゝ・`)「そう言った次第で、地縛霊と成りまして」

('、`*川「もう何十年経ったのか、見当も付かねぇ」

さして重大な事でも無さそうに、亡霊と鬼は呟いた。
俺は煙草を吸うのも忘れて、――尤も、この女が呪師の男をやり込める段階で、余りにも冷血且つ強烈であった為、
慄いている事が分からぬ様、手を懐へ入れてしまった所為もある――話に聴き耽ていた。
愛も知らず、邪険にされ、利用され続けるも生き延びる事で希望を見出し、人死にによって争いが無くなる事を夢見ながらも、
それが果たされる事抔不可能であると悟り、己が宿命を打ち滅ぼした、女。
恨み辛みによって受肉し、他方に呪詛を振り撒き乍らも、傷付ける事しか知らぬ女を一人の人間として扱い、
誠実に向き合い、何時迄も寄り添い歩み、他人がどれだけ女に泥を投げようとも、その泥を食わぬ様希望を与えた、鬼。
苛烈にして残酷な定めに翻弄され、死して尚許される事も無く、此岸を彷徨っている二人は、正に一蓮托生と言うに相応しい。
悲嘆院の名を聞いた事が無いと俺が答えた時の、女の笑み。
生き延びる為に仕方なく全うした悪。
memento mori.
その時、俺の脳裏に一つの考えが浮き上がって来た。
迷い込み、男に誘われるが侭、此処へとやって来たのは、俺を悩ませる小説の種の所為。
ただ古典を書き起こすだけでは詰まらない、新しい何かを取り入れなければ。
唯只管に、その答えを欲していた俺は――。

(´・_ゝ・`)「雨は上がった様ですね」

('、`*川「良かったな」

長居するなと言いたげに、四つの目は俺を見つめた。
しかし、俺は頭を振った。

「貴女は、言葉に成りたいのでしょう」

99 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:29:57 ID:RVB3J.KE0
すると女は双眸見開き、次にはからりと笑ってみせた。

('、`*川「如何したんだい、御仁。急に改まった物言いで」

「言葉に、成りたくないのですか」

再度問い掛けると、俺が冗談を言っている訳ではないと悟ったらしい、女は視線を外し、軽く頷いた。

('、`*川「成りたいとも。此奴と同じ言葉に成りたい。そうすれば、苦しむ事も喜ぶ事も憎む事も狂う事もなかろうよ」

(´・_ゝ・`)「しかし、女に救済の道は鎖されているのですよ」

「いいえ、そんな事は無い筈です。でなければ、如何して私は此処へ辿り着けたのでありましょう」

問い掛けるも、答えは無い。
薄々皆が感じて来た疑問であり、明確な答えという物は無いのかもしれなかった。
しかし俺は物書きで、書きたい物は果たして何かと己に問うていた、男は言葉で、女は言葉に成りたがっている。
この出会いを必然と呼ばずして、偶然と呼べるだろうか。

('、`*川「……言葉に成るったって、如何しようって言うんだ。俺の一生でもその侭書き下ろしてみるか」

(´・_ゝ・`)「そんな事をすれば焚書に遭いますよ」

確かに尤もであろう。
億が一にも、女の人生その物を血肉として綴じた所で、 Catharsis の無い悪書と呼ばれるのが関の山。

「ならば、私が見聞きした結果に辿り着いた結びを骨とし、更に肉付けをして遣れば、
 それは貴女方が言葉となり、本となり、人に使われる事と同義では無いでしょうか」

つまり、彼らを Inspiration ――思索へと降りて、一雫の Idea を落とし、
その波紋によって、作家の手を動かす。一種の隠とも言えよう――とするのだ。

100 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:30:27 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「……正気かよ」

正気であり、本気である。
何故なら、あれ程頭を悩ませていた小説の形が、はっきりと定まったのだから。

「書くと決めたら書きますよ、私は」

決して一歩も引かぬ事を声に滲ませ、俺は二人を見詰める。
男は珍しく笑みを浮かべていた。
それを横目に如何したものかと女は問うが、

(´・_ゝ・`)「貴女の好きになさい」

何時でも、決定権は女に有るのだ。

('、`*川「……祟っても知らんぞ」

観念した様に、しかし晴れ晴れとした笑みは、やっと居心地の悪さから解放された事を物語っていた。

(´・_ゝ・`)「呪師の次は作家先生の霊感ですか」

('、`*川「楽しくなるぜ、恐らくはな」

二人の声を賛する様に、影が揺れ動く。

('、`*川「手前も来るか」

(´・_ゝ・`)「宜しいのですか」

伺う様な目付きに、俺は頷く。
賑やかになる分には構いやしない。

101 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:31:57 ID:RVB3J.KE0
('、`*川「何、此奴が妙な事をしやがったらぶん殴ればいい」

(´・_ゝ・`)「おお、怖い」

次第に、二人の姿は薄れ行く。
何れ程に目を凝らしても、輪郭と灯りが共に馴染んでしまうかの様に。
ふ、と室内で空気が揺れ動く。
燭台を見れば蝋溜まりがあるばかり、全ては夢の様にも思えた。
しかし囲炉裏の中には、灰に混じって敷島の吸殻が山の様に膨れていた。
決して、夢では無い。
あの、腹の底から熱く畝る様な感慨が、未だ質量を伴っている実感を得た。
立ち上がり、外へと出る。
すっかりと日は落ちている。
秋の気配を含む涼しい風が、興奮冷めやらぬ額を撫でていく。
冷却しながらも足早く、家路を目指す。
腹は減っているが、そんな物は後だ。
それよりも、書かねばならぬ。
話と熱が生きている内に、書かなくてはならない。
書き出しは、既に決まっていた。

102 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:32:44 ID:RVB3J.KE0





 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。




                          ――『羅生門』 芥川 龍之介







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103 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:33:16 ID:RVB3J.KE0





    弐ノ丸   終演





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104 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/22(火) 19:35:09 ID:RVB3J.KE0
以上を持ちまして、「三千世界、呪詛ばかりのようです」の投下は終了となります
以下の作品を参考に致しました

芥川龍之介
「羅生門」


あさき
「生きてこそ」
「神曲」
「水面静かに大地の烈日わたらせて」



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