鯨骨生物群集 或いは
1 名前: ◆9f9QlHZGt.[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 21:55:56 ID:9prP.Kj60
国内のどこぞの海岸に鯨の死骸が打ち上げられたらしい。
ラジオから流れてきたそんなニュースを、私は微睡んだ意識の中で聞いていた。

鯨。

鯨の死骸にまつわる何かを、誰かが昔、語っていたような気がする。
あの話を聞いたのは、さて、いつのことだったか――――

答えの出ぬまま、思考は再び胡蝶に帰る。

2 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 21:59:15 ID:9prP.Kj60
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鯨骨生物群集 或いは


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3 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:00:26 ID:9prP.Kj60
長い午睡から目を覚ますと、外はすっかり日が落ちていた。
向かいのアパートでもぽつぽつと、カーテンの隙間から室内の光が漏れ出している。

時刻は午後6時55分。
思うに、最も無為な休日の過ごし方とは、二度寝三度寝を繰り返して正午過ぎにようやく覚醒したかと思いきや、
昼食代わりに摂取した缶詰の焼鳥と安酒で思いの外酔いが回り、日が暮れるまで再び眠りにつく……
そういう、怠惰と無精の極致のような物を指すのではないだろうか。

从 ゚∀从 いやまあ、私のことなんだけどさ

自嘲して、床に直置きされた空き缶を拾い上げる。
結露した水滴が作った円形の跡を足で拭うと、糖類特有のベトベトした感触が指の間に残った。
焼き鳥のタレでも零れていたのか。気持ち悪い。寝汗もかいたし、いっそシャワーでも浴びてしまおうか。

そんなことを考えながら室内を見回していると、玄関の郵便受けに一通の手紙が挟まっているのに気が付いた。

从 ゚∀从 電気もガスも今月分は払ってるし、宗教か新聞の勧誘かね?

まあ良い、そっちは後で確かめよう。
目下の課題は足のベタつき。それと――――

从 ゚∀从 ……やっぱ、寝てるだけじゃあ何も浮かんで来ねえなあ

4 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:01:42 ID:9prP.Kj60
蛇口を捻ると同時に、無数の水の粒がシャワーヘッドから飛び出して肌を打つ。
狭い浴室に、細やかな水音とボイラーの稼働音が反響する。

シャワーってのは、しゃわーって音がするからシャワーなんじゃないかな。しゃわーって。缶も落とせばカーンって鳴るしな。
「晴天の霹靂」の霹靂なんてまさにそうだ。大昔の中国の詩人が、雷の音をヘキレキと表したことが語源らしい。
だからきっとこの世の全ては、誰かにそう聞こえたからそんな名前が付けられているんだ。

音と、世界。

そう、その世界では最初に出した音で名前が決まる。本質が決まる。
きらびやかな音色を出した物は見目麗しく、力強い音を出した物はどんな衝撃でも砕けない。
空は軽やかな音とともに澄み渡り、太陽は燦めく音色を響かせながら燦々と、SUNSUNと大地を照らしている。
(ほら、やっぱり音と名前と本質は全て根底で繋がっているのだと、その世界の人間は得意気に鼻を鳴らすだろう)
そして、醜くひ弱な音を出してしまった者は、周囲の全てに疎まれ、虐げられ、暗い地の底で怨嗟の声をあげ続けるのだ。

そんな中で、生まれてから一度も音を出したことがない人間が居た。
音が本質を与える世界では、青年は何者でもない、空虚な存在だった。
目には見えている。肌にも触れられる。それでもその世界の住人は、彼を認識する術を持たなかった。

地底で嘆く亡者達よりも更に不幸で、哀れな青年。
自身の存在を証明する旅の果てに彼が出会ったのは、同じく孤独の世界を生きる聾者の

从 ゚∀从 ああ、これじゃ只のギャグだ

ようやく明瞭になった思考で、自分の空想に没を出す。いくらなんでもSUNSUNは無い。
排水口に引っかかった髪の毛が水流で揺れるのを眺めながら、新たな物語が次、次と、脳裡に浮かんでは消えていった。

从 ゚∀从 ネタが無い。ネタが無いんだよ

5 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:03:25 ID:9prP.Kj60
物語を作る。文章を書く。
そういった作業が好きなのかと聞かれたら、まあ恐らくは好きなのだろう。
しかし、それ自体に対する情熱が薄れ、惰性と焦りが動力になっている現状もまた、否定できない。

焦り?

一体私は、何に対して焦っているのだろう。

从 ゚ -从つ キュッ

蛇口を締め、浴室を出る。
たった今生まれた疑問の解決を後回しにして――――
もしくは、答えを探す行為から逃避するように、乱暴に、粗雑に水気を拭き取って、
綿の薄くなった万年床に体を投げ出した。

从 ゚∀从 万年床……

万年床。

万年床をひっくり返すと、布団カバーの柄の色味が反転していた。

片面が日に焼ければこういう風になるのだろうか。それとも、元々そういうデザインのカバーだったのか。
深く考えずそのまま眠りについた男は、翌朝、目に見える全ての物が反転していることに気が付いた。

近所の公園に住み着いていた浮浪者が高そうなスーツに身を包み、真っ赤なオープンカーを乗り回している。
怒鳴り散らすだけの無言な上司は無駄口を叩くこともせずデスクワークに集中しているし、チータラは鱈をチーズで挟んでいる。
起こっている出来事に理解が追いつかず、気分が悪くなった男は会社を早退した。
家に帰ると、ポストの中には差出人不明の一通の手紙が

从 ゚∀从 手紙?

そうだ、手紙だ。結局あれは何の手紙だったのだろう。
重たい体を起こし、郵便受けから折れ曲がった封書を引き抜く。

中から出てきた黒枠の書状に私は眉を顰めた。

6 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:04:50 ID:9prP.Kj60
                 .
長男ホライゾン儀 かねて病気療養中のところ 8月19日午前4時37分 膵臓癌のため24歳にて永眠いたしました
ここに生前のご厚誼に深謝いたしますとともに 謹んでご通知申し上げます
追って 葬儀及び告別式につきましては 仏式にて下記の通り執り行います

            記

日時  8月21日  葬儀   午後1時~2時
            告別式 午後2時~2時30分

場所  草佐区セレモニー会館
     草佐区下良場 2-31-14

平成29年8月19日

                    喪主 内藤ロマネスク

                    外  親戚一同

7 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:06:17 ID:9prP.Kj60
ξ ;⊿;)ξ あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん! ぶーん!ぶぅぅぅぅぅぅぅん!!!!!

棺に縋り付いて泣いているのは、故人の二十年来の幼馴染だ。
私とは中高の6年間の付き合いだったが、
溢れ出る恋心を押し隠しながら故人と接する姿を、周囲の人間は微笑ましく眺めていたものだ。
どうやらその関係は、高校卒業後も変わっていなかったらしい。

(゚、゚トソン 若いから癌の進行も速くて、気付いた時にはもう手遅れだったんだとか

从 ゚∀从 ツンは内藤の病気のこと知らなかったのか?

(゚、゚トソン 聞いた話では、ブーン君が彼女には知らせないようにと

(゚、゚トソン ふくよかだった彼が、最期はこんなに痩せ細って……

(゚、゚トソン 変わってしまった自分の姿を見せたくなかったのかもしれませんね

「ふうん」と、思いのほか気の抜けた返事が口から出た。
「君がそういう返事をするのは、相手の発言に納得出来ていない時だ」とは、大学時代の友人の弁である。

从 ゚∀从 しかし、よりにもよって内藤がなあ

(゚、゚トソン ええ、残念でなりません。参列者は皆が同じ気持ちだと思いますよ

8 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:07:24 ID:9prP.Kj60
/ ,' 3 この度はご愁傷様でした。本当に、信じられません……

( ФωФ) 荒巻先生……生前は、息子がお世話になりました……

受付では、喪主である父親と高校時代の恩師が会話をしていた。
気丈に振る舞ってこそいるが、二人とも、目には涙を溜めているようだった。

/ ,' 3 長い教師生活の中で、ホライゾン君は特に印象に残っている生徒でした

/ ,' 3 彼の周囲には常に沢山の人がいました。人間的な魅力。彼の人徳の賜物です

/ ,' 3 人を喜ばせたいと、常に考えている子だった。定年を迎えた私のために、校舎の屋上から手書きの垂れ幕をぶら下げてくれた

/ ,' 3 同時に花火も打ち上げたものだから、垂れ幕に引火して、消防車が2台……

( ;ФωФ) あの時は愚息がご迷惑をおかけしました

/ ,' 3 でも、嬉しかった。教師としては雷を落とさずにはいられませんでしたが

/ ,' 3 彼が成長したらどんな人間になるのか、出来ることならばずっと見守っていたかった

/ ,' 3 それなのに、こんなに早く……

( ФωФ) ……

暫しの沈黙の後、荒巻は目元を拭い、口を開いた。

/ ,' 3 私は今、学習塾の講師をやっています。垂れ幕の件の説教の後に、彼が勧めてくれたものです

/ ,' 3 怒られた後に言うことではないと追加で説教する事になりましたが、おかげで私は今も先生を続けられています

/ ,' 3 彼のおかげで、今の私がある。だから今日は、別れとともに感謝を伝えに来ました

9 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:08:36 ID:9prP.Kj60
教師、しかも還暦を何年も前に過ぎたような人間が、教え子の死に添えて語る言葉ではないだろう。
だが、式場のあちらこちらで同様の遣り取りが繰り広げられているこの状況で、彼らを咎める人間は居ない。

職場を代表してやって来た故人の上司。学生時代の後輩。
それに、どこで知り合ったのかもわからないような友人達が老若男女問わず大量に。
皆が口をそろえて、故人の人徳を、偉業を、涙ながらに語っている。

从 ゚∀从 すげーな、こんなの見たことねえや

(゚、゚トソン このセレモニー会館って本当なら、会社の社長とか、もっと地位のある人間の葬式に使うものなんです

(゚、゚トソン でも、彼の交友関係を考えると一般用の式場では足りないだろうからと特別に……

从 ゚∀从 なるほど。確かに……

(゚、゚トソン 確かにこの様子だと、それは正解だったようですね

从 ゚∀从 ん? ああ、そうだな

確かに、テレビで偶に見る、芸能人の告別式のような雰囲気だ。
本当はそう言いたかったのだが、流石にそれは不謹慎だろうと思い直し、都村の言葉に合わせることにした。

10 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:09:57 ID:9prP.Kj60
しかし、いよいよ同級生が死に始める時期がやってきた。
これから何年か毎にこういったことが有るのだろうと考えると、言っては難だが、やや億劫な気分にもなる。
もっとも、今回のような葬式はそう何度も体験することは無いだろうが。

(゚、゚トソン あれ? ハインは知らないんでしたっけ?

(゚、゚トソン 私達のクラスでは去年の今頃、既に一人亡くなっていますよ

从 ゚∀从 へ? マジで?

(゚、゚トソン 元々体が弱い人でしたし、学校に来ても保健室登校だったので覚えていないかもしれませんが

(゚、゚トソン 小森ヒッキー君。覚えていますか?

从 ゚∀从 ……

从 ゚∀从 ……鯨骨生物群集

鯨骨生物群集。そう、鯨骨生物群集だ。

(゚、゚トソン げ、げい……何ですか、それ?

从 ゚∀从 いや、何でもない。それで、その小森の葬儀はどうだったんだ?

(゚、゚トソン 人を呼ぶことはせず、家族葬だったらしいです

(゚、゚トソン 私を含めて、小学校から面識のある近場の人間には葬儀後に訃報が届きました

(゚、゚トソン 訃報が届いた人達が元級友のネットワークで色々広めてたらしいですけど、ハインは友達少ないですからね

从 ゚∀从 うるせえよ……。しかし、ヒッキー、あいつとうとう死んだのか……

11 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:10:43 ID:9prP.Kj60
(゚、゚トソン ヒッキー君のこと覚えていたんですね。仲良かったんでしたっけ?

从 ゚∀从 まあ、悪くはなかったかなあ

小森ヒッキーは都村や内藤と同様、私の高校時代の同級生だ。
影が薄く、しかも病弱で、彼が授業に出席している姿は殆ど記憶に残っていない。
思い出せるものと言えば、保健室で小難しい本を読んでいたり、食堂の隅っこで携帯電話を弄っていたり、それから……

(゚、゚トソン なんなら、お線香でも上げに行ったらどうです?

(゚、゚トソン 確か来週の土曜日がちょうど、一周忌だったはずですよ

从 ゚∀从 ……そうするよ

そう応えると、都村は目を丸くして、「あら」と呟いた
予想以上にすんなりと受け入れた私に驚いているのだろう。
あの時代、私と小森の間にあった物を、証明したい気持ちが芽生えた。

从 ゚∀从 なあ都村、知ってるか?

(゚、゚トソン 何をです?

从 ゚∀从 あいつな、セックスの時に泣くんだぜ。ありがとう、ありがとうって

(゚、゚トソン え……

12 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:11:05 ID:9prP.Kj60
           .



        .

13 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:12:32 ID:9prP.Kj60
小森ヒッキーは確かに高校時代のクラスメイトだが、
私が彼の存在を意識するようになったのは、高校三年のクラス替えから半年ほど経った頃のことだった。
最初の会話は確か、そう……

从 ゚∀从 その中にゃあ何も居ないよ

放課後の生物室で空っぽの水槽を見つめていた彼に対して、私が思わず口にした言葉だ。

(-_-) うん、知ってる。

从 ゚∀从 それじゃあなんで……

(-_-) この水槽が一番海に近いかなって思って

彼は基本的に理屈屋だったが、時折妙に観念的な事を言い出す人間だった。
その中でもこの発言が特に、私の中では一番、なんというか、意味がよくわからない発言だった。

从 ゚∀从 海に近い? 距離的な話では無いよなあ

(-_-) ここに海水を入れてやると、多分海になると思う

(-_-) 僕は体が弱くて海に行けないから、近場に海があると嬉しいな

从 ゚∀从 ああそう。まあいいや。その水槽がそんなに気に入ったなら、持ち帰っても良いぜ?

(-_-) いや、それは駄目でしょ。部の備品だろうし……

从 ゚∀从 そいつは私が持ち込んだ私物だよ。ちょっと前まで蟹を飼ってたが、うちの部の新人のミスで先月死んだ

从 ゚∀从 蟹だけじゃなく、飼ってた生き物の大半が死んだんだがな。新人はそれが原因で止めて、今残ってるのは私一人さ

(-_-) うちの部?

14 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:13:18 ID:9prP.Kj60
从 ゚∀从 生物部に決まってる。生物室には生物部員しか入らねえだろ

(-_-) じゃあ僕は?

从 ゚∀从 生物室には基本的に生物部員しか入らねえだろ

(-_-) そう……でも、水槽は遠慮しておこうかな

从 ゚∀从 遠慮すんなって、どうせ捨てようか迷ってたもんだ

从 ゚∀从 後で欲しがっても、もう無くなってるかもしれないぞ?

(-_-) でも僕ほら、責任取れないし……

从 ゚∀从 責任って何のだよ?

(-_-) だって僕、死ぬし……

从 ゚∀从 は……?

(-_-) でも、この水槽気に入ったから、たまに見に来ても良いかな……?

小森は初めて会った時から、自分が間もなく死ぬ人間だと自覚しているようだった。

「生まれた時から体が弱く、偶に学校に来ても保健室登校」
都村はその程度に語っていたが実際はそんな優しいもんじゃなく、
私と会った時にはもう既に、内臓の幾つかが使い物にならなくなっていたらしい。

そう、私と小森の関係は、元々期限付きの状態で始まったんだ。

15 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:14:05 ID:9prP.Kj60
鯨骨生物群集 或いは 『轢殺刑の町』

ごうんごうんという駆動音を乗せて、轢殺列車はレールを走る。
町の外壁を沿うように、ぐるぐると、ぐるぐると、回り続ける。
線路の周囲では飢えた鳥達が、新たな獲物が食卓に上る時を心待ちにしている。

轢殺列車が罪人を裁く、無機質で無慈悲な轢殺刑の町。

16 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:15:30 ID:9prP.Kj60
ある日、奴隷商の男が轢殺刑を科せられた。

男は他の奴隷商から虐げられている奴隷達を買い取ってはそれを厚遇し、知識を与え、技能を与え、優秀な従者に育て上げた。
決して奴隷に手を上げず、飢えさせることも、凍えさせることもない。
奴隷達からの信頼は厚く、街人も彼を褒め称え――――
そしてそれ故に、彼が持つ影響力を恐れた人間の手によって陥れられた。

男は教会に火を放ち、聖職者を手に掛けた罪によって捕らえられた。
冤罪だった。奴隷も、街人も、彼の無実を信じた。
しかし、次々と現れる虚偽の証言者が、捏造された証拠品が、遂に彼を処刑台に上らせた。

目隠しと猿轡を取り付けられ、線路上に磔にされ、一切の自由を奪われた男を見下ろして刑吏が叫ぶ。

( #^Д^) 奴隷商ホライゾン! 貴殿は去る7月の末日、教会に火を放ち、スカルチノフ牧師を殺害した!

( #^Д^) その罪により、これより貴殿を轢殺刑に処す!

(  ω ) ……

処刑場の広場に集まった群衆の背後を、轢殺列車が通過する。
突風に煽られた何人かの街人は、小さく悲鳴を漏らして体を丸めた。
次にこの道を通るのは、半日ほど後になるだろう。

( #^Д^) 刑の執行は轢車法第11条3項に従い、スカルチノフ牧師の長女であるバルケンが務める!

( #^Д^) 執行者バルケンをここに!

刑吏の部下と見られる男が、赤いフードを深々と被った女の手を引いて現れる。
女は顔の半分を布で覆い隠していたが、その瞳には、強い怒りが宿っていた。

スカルチノフの娘、バルケンである。

17 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:16:25 ID:9prP.Kj60
( #^Д^) 轢車法第13条1項に基づき説明をしよう!

刑吏がバルケンに語る。

町の外周を走る轢殺列車は一日に二度、分岐器の上を通過する。
その時に分岐器のレバーが引かれていれば、列車は進路を変え、目の前の男を轢き潰すだろう。
執行中にレバーに触れることが出来るのは執行者であるバルケンのみであり、
バルケンは同時に、罪人に対する汎ゆる行為を許容される。

但し、刑の執行は三日以内――――
つまり、列車が分岐器上を六回通過するまでに行われる必要があり、
六度目の通過時にもレバーが引かれていなければ、その時点で執行完了となる。

( #^Д^) 執行後に罪人が生存していた場合、その者は釈放される。良いな?

( ,'3 ) ……はい

( #^Д^) よろしい。それではスカルチノフの娘バルケン、刑を執行せよ!

18 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:17:25 ID:9prP.Kj60
刑吏が言い終えると同時に、群衆の一角から歓声が上がった。
「バルケン、今すぐレバーを引け」「いや、三日間苦しめて殺せ」
ホライゾンを陥れた者達の息がかかった、ならず者の集団である。

( ,'3 ) ……

( ; ω ) ……!

( ,'3 ) いい気味だ

その言葉と共に、バルケンはホライゾンの頭を蹴り飛ばした。
二度、三度と平手打ちにし、懐に忍ばせた短剣を肩口に突き刺すと、次はそれを何度も踏み付けて傷口を歪に広げた。

体を仰け反らせ、痛みに耐えるホライゾン。
その両手首に巻かれた荒縄にはいつしか血が滲み、猿轡の隙間から言葉にならぬ叫びが漏れ出している。
群衆の多くは彼の余りに悲痛な姿から思わず目を背け、
ならず者たちは下卑た笑みを浮かべながら、より大きな歓声を処刑台に投げかけた。

バルケンによる報復は、日没の直前まで続いた。

19 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:18:21 ID:9prP.Kj60
( #^Д^) 時間だ。合図を出せ

( <●><●>) はっ!

間もなく太陽が完全に沈むという所で、刑吏の部下が警笛を鳴らした。
轢殺列車が分岐器に近付いていることを示す合図である。

( ,'3 ) ……

バルケンはホライゾンの体に突き刺された小刀を抜き取り、ゆっくりと歩き出す。
視線の先には、分岐器のレバーが設置されていた。

広場の群衆は既に半分程にまでその数を減らしていたが、
いよいよ轢殺列車がホライゾンを裁くという段になって、盛り上がりは最高潮を迎えた。
その中にはバルケンの行為に対する非難や、今なおホライゾンの無実を信じる者の抗議の声が少なからず含まれていた。

( #^Д^) 一周目か、意外な所だったな

( #^Д^) 罪人への恨みが強い者ほど、先延ばしにしたがるものだ

( <●><●>) 復讐のため、より長い苦痛を望みますからね

( <●><●>) 早い段階で終わらせたがる姿勢は、実のところ処刑に対して消極的である証です

( #^Д^) もしかするとホライゾンに対する激しい報復は、自身を奮い立たせるための、ある種の演技だったのかもしれんな

20 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:19:20 ID:9prP.Kj60
刑吏の言葉は正しかった。
バルケンは分岐器のレバーを握りしめながらも、それを引くのを躊躇していた。

ホライゾンの無実を疑っているのではない。ましてや、憎しみが薄れることなど有り得ない。
バルケンの手を止めているのは、彼女に仕える壮年の従者の存在だった。
従者の名はギコ。バルケンの幼少期からの教育係でもある彼は、かつてホライゾンにより命を救われた解放奴隷である。

バルケンが轢殺刑の執行者に任命された日、ギコは町外れの仕立て屋に赴き、フード付きのローブと手袋を持ち帰った。
群衆から顔を隠せるように、レバーを引く手の感触が、不快感が、少しでも和らぐように。
自分がホライゾンを処刑するならば、これがギコの最期の仕事になるだろうとバルケンは直感していた。

「怖気づいたか」「不孝者が」

動きを止めたバルケンに対し、心無い罵倒を浴びせる者が現れた。
しかし、それらの言葉にバルケンが動じることはなく、
最後に彼女を動かしたのは、ローブと手袋を手渡しながらギコが語った言葉だった。

    (,,゚Д゚) 全ての人間には、各々が為さねばならぬ役割が有ります

    (,,゚Д゚) それが自身の心と合致しているのであれば、これほど幸せなことは無いでしょう

レバーは引かれ、歓声と悲鳴が広場の空気を震わせた。
上空を旋回していた鳥達も、気が付くと地上に降り立ち、処刑の瞬間を見守っている。

21 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:21:11 ID:9prP.Kj60
轢殺列車が分岐器を通過し、処刑用の線路に突入する。
バルケンはレバーから手を放せぬまま、列車の接近を眺めていた。

列車がホライゾンのもとに到達するまで、あと十秒か、二十秒か。
刑吏の部下がホライゾンの余命を指折り数え始めたその瞬間、雄叫びとともに、一人の男が処刑台へと駆け寄った。
ギコだった。バルケンは「やはりそうか」と呟いて、両手で顔を覆った。

( #^Д^) 愚かな事を……

( ;<●><●>) 衛兵! 衛兵! その男を止めなさい!

衛兵は鉾槍を構え、ギコの正面に立ちはだかる。
しかし、次の瞬間衛兵が目にしたのは、今まさに処刑台に雪崩れ込まんとする奴隷達の波だった。

( ;<●><●>) 何だこれは! 数が多すぎて……いや、ですが、大丈夫です!

( ;<●><●>) 列車はもう目前。連中がホライゾンを解放するには時間が足りません!

( #^Д^) いいや、そこが問題ではない。ホライゾンの命を救うだけならば、時間など必要ない

奴隷達の意図を、刑吏は理解していた。
刑吏は轢殺列車の運転席に向けて処刑続行の信号を出し、言葉を続ける。

( #^Д^) 轢車法第17条2項……

( #^Д^) 「轢車が分岐点を通過後何らかの理由により停車した場合、刑の執行は完遂されたものとする」

( ;<○><○>) あっ……!

刑吏の意味する所を察し、部下は言葉を失った。
直後、線路上に横たわった奴隷達の体を、轢殺列車は次々と轢き潰した。

22 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:22:25 ID:9prP.Kj60
骨の砕ける音が、断末魔の叫びが、重なり合って広場に木霊する。
先程まであれほど喧しかった歓声も、悲鳴も、今はもう聞こえない。
恐怖と困惑に喉を焼かれ、群衆はただ苦しげに胸を上下させるのみである。

( #^Д^) ……さて、執行完了だ。奴隷商ホライゾンの生死を確認せねばな

( ;<●><●>) はっ、はい! 今すぐに!

刑吏と部下は厚手の手袋を両手に填め、処刑台へと歩み寄る。
轢殺列車は処刑台の真上で停止し、周辺には奴隷達の死体の破片が散乱していた。
ホライゾンの生死を確認するためには、先ず彼の体を覆い隠している死体の山を片付ける必要が有った。

( #^Д^) 奴隷の死体をどけろ! 急げ!

( ;<●><●>) うう……承知しました!

刑吏は積み重なった肉片を次々と放り投げ、死体の山を崩す。
部下は両目に涙を溜め、嘔吐きを堪えながらそれに追従した。

そして、ようやく姿を現したホライゾンは、体の左半分が車輪の下敷きとなって圧し潰されていた。
変形した眼窩から零れ落ちた目が、刑吏の顔を覗いている。

( #^Д^) ……

( ;<●><●>) 奴隷商ホライゾンの死亡を確認しました

( #^Д^) ……うむ

( ;<●><●>) しかしこれは危なかった……。無事に終わったから良かったものを……

( ;<●><●>) もしあと一人、自身を犠牲にホライゾンを救おうとするものが居たならば、処刑は失敗に終わっていたでしょう

無音となった広場に、部下の呟きが響く。
心を殺して己の役割を全うした刑吏は、その場に泣き崩れて謝罪の言葉を繰り返した。

23 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:23:11 ID:9prP.Kj60
                     .

鯨骨生物群集 或いは 『轢殺刑の町』

                      了

24 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:24:10 ID:9prP.Kj60
人生を線路に例えるなんて、散々に使い古された陳腐な表現。古墳時代の遺物だ。
それでも敢えて言うのであれば、私と小森の人生のレールは、一生のうちのごく短い期間において一つに重なっていた。

一瞬だけ重なって、すぐに分岐して。
私のレールはその後に、都内の安アパートに続いていた。
小森が進んだのはきっと、深い海の底へと向かう道だったのだろう。

小森は海が好きだった。
何より鯨に憧れ、鯨のような死に憧れていた。

25 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:26:33 ID:9prP.Kj60
(-_-) 死んだ鯨はどこに行くと思う?

小森がこの話をしたのは確か、内藤が花火で高校の校舎を燃やしかけたあの日。
燃え上がる垂れ幕に対して、五百ミリリットル入りのボトルジュースで消火を図る内藤の姿を、
向かいの校舎の三階にある生物室から眺めていた時のことだったと思う。

小森と出会ってから二ヶ月ほど。
相変わらず学校に来ることは稀だったが、保健室登校の帰り際に、彼は必ず生物室に顔を出していた。
小森はそこで一時間くらいどうでもいい話をして、私はその間に備品の整理やら、
唯一生存していたグッピーの水槽の世話やらをするというのが日常だった。

从 ゚∀从 一昨日ちょうどスーパーで見たよ

(-_-) ……そう

从 ゚∀从

(-_-)

从 ゚∀从 悪かったって

26 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:27:21 ID:9prP.Kj60
思えば小森は、自分の話を茶化されるのが嫌いだった。
もっと端的に言うのであれば、自分の語らんとする物事が、粗末な笑い話の種として消費されるのを嫌っていた。
普段はネガティブな感情を表に出さない小森が、その時だけは不快感を露わにする。
私はそれが面白くて、度々彼をからかっては顰蹙を買っていた。

(-_-) 鯨が死ねば、その死骸は深い海の底まで沈んでいく

(-_-) 水深千メートル以上、太陽の光も届かないような海底。食料の少ない過酷な環境に現れた、巨大なエネルギー源

(-_-) やがてそこには、鯨の死骸を中心とした特殊な生態系が生まれるんだ

(-_-) まず集まるのはヌタウナギやヨコエビのような腐肉食動物。こいつらは数年がかりで鯨の死肉を剥ぎ取る

从 ゚∀从 数年?

(-_-) そう、数年。鯨の死骸を覆い尽くすような数の生き物が集まって、それでも数年掛かりでなきゃ食べ尽くせない

(-_-) 鯨っていうのは、それくらい大きな生き物なんだ

27 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:28:17 ID:9prP.Kj60
(-_-) 腐肉食動物達が鯨の肉を食べると、今度はそいつらのフンや食べ残しを目当てにして、甲殻類や多毛類が現れる

(-_-) 肉が無くなれば脂質を目的としたバクテリアが現れ、バクテリアが出す硫化水素を好む生物が現れ

(-_-) すると今度は、硫化物を好む生物を食べようと狙う生物が……

(-_-) 鯨骨生物群集と呼ばれるこの生態系は、鯨の死から数十年、場合によっては百年以上も続くらしい

从 ゚∀从 鯨骨生物群集ねえ……それで、なんでこの話を今?

(-_-) 内藤くんがね……

ヒッキーが指差したのは、内藤の居る屋上。
先程まで一人ではしゃいでいた馬鹿が、気付くとバケツリレーの先頭に立っている。
回りで動いている生徒たちは、この短い時間で一体何処から湧いて出たのか。

28 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:30:37 ID:9prP.Kj60
(-_-) 内藤くんは、鯨なんだ

(-_-) たった一人の行動が、あれだけ多くの人間を動かすんだ。それも自主的にね。考えられる?

从 ゚∀从 ……まあ、あいつは色々と特別だよな。馬鹿だけど。馬鹿だからこそかな?

(-_-) 微かな身じろぎ、尾の一振りまで、周囲の注目を集める

(-_-) だから僕は、内藤くんは鯨なんだと思うし、彼の事を羨まずにはいられない

从 ゚∀从 羨ましいんだ?

(-_-) 彼は生きている間ずっと……もしかしたら死んでからも、皆の心の深い所に居続けることができる

(-_-) 正直憧れるし、きっと妬ましくも思っているんだと思う

(-_-) 僕には決して出来ない死に方だからね

从 ゚∀从 普通は出来ないよ、そんなもん

(-_-) 誰かに何かを残したい。一人で消えたくない

(-_-) 皆が持ってる感情だと思うよ。勿論、ハインも

从 ゚∀从 ……

29 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:31:39 ID:9prP.Kj60
                       .

鯨骨生物群集 或いは 『瓶詰柘榴と東京ガスマスク・ラブ・ストーリー』

今日も街は、ガスマスクを身に着けた人々で溢れている。
頑強な防毒面が覆い隠している物は、きっと私達の素顔だけではないのだろう。
燻る感情。蟠りと諦念。

俯いた心には、柘榴のパイがよく効くらしい。

30 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:32:34 ID:9prP.Kj60
午前6時のアラームに起こされて一日が始まる。
眠たい目を擦りながら階段を降りると、味噌汁のダシの香りと、食パンの焼ける匂いが漂ってきた。

(;*゚∀゚) 何回も言ってるけど、パンに味噌汁は無いだろー?

J( 'ー`)し 何回も言ってるけど、パンを食べるのはあなただけで、お父さんもお母さんもご飯派なの

J( 'ー`)し 主食に合わせてスープを二種類作る時間なんて無いんだから我慢しなさい

(;*゚∀゚) オニオンスープとかさ、ご飯にも合うだろ? コンソメをぽちゃんとさ……

J( 'ー`)し ほらほら、食べるの? 食べないの?

(;*゚∀゚) 食べるよ! もー……

食卓にはパンと目玉焼きと真っ赤なソーセージが並んでいる。
玉ねぎの入ったコンソメスープが付いてきたなら完璧なのにと肩を落としつつ、フォークを手に取る。

J( 'ー`)し どうしてこの子はこんなに味噌汁が嫌いかね? 美味しく作ってるはずなんだけど

(*゚∀゚) 味は好きだよ。味は

J( 'ー`)し 味が好きなら良いじゃない。何が気に入らないの?

(*゚∀゚) ……見た目が、外の空気みたいじゃん

J( 'ー`)し ……

31 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:34:02 ID:9prP.Kj60
窓の外に目を移すと、茶色く濁った景色の向こうに巨大な工場の影が見えた。
雲にも届きそうな長い長い煙突から、赤茶けた煙が際限なく吐き出されている。
あの忌々しい工場は、今日も絶好調で稼働中だ。

(*゚∀゚) かーちゃん、あの工場はいつになったら爆発するんだ?

J( 'ー`)し 馬鹿なことを言うんじゃないよ。そんなことが起こったらこの国は終わりさ

(*゚∀゚) でも、何十年も前はあんな物が無くたって、皆生活できてたって言うじゃないか

J( 'ー`)し 一日三食ジャガイモだけの生活をしたいのかい?

J( 'ー`)し 豊かな暮らしも、あなたが大好きな柘榴のパイも、全部あの工場のおかげなんだよ

J( 'ー`)し 下らない事を考えてないでさっさと食べちゃいなさい。今日は何かの当番なんでしょ?

はっとして時計を見る。気付くと15分以上も時間を無駄にしていた。
慌てて食事を口に詰め込み、味噌汁で流し込む。
かーちゃん、やっぱりバタートーストと味噌汁は合わないよ。

J( 'ー`)し でもご飯とはすっごく合うのよ

(;*゚∀゚) もー! 行ってきます!

J( 'ー`)し はいはい。マスクのフィルターも替えておいたからね

(*゚∀゚) ありがとっ!

32 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:35:19 ID:9prP.Kj60
(;*゚∀゚) ゴソゴソ……
 つ[◎廿◎]

( [◎廿◎] よしっ!

自分用のガスマスクを装着して玄関を出る。その先にはガラス張りの風除室。
元々は雪国にしか無かった物らしいけど、今はもう、どこの家でもこれが当たり前だ。

(;[◎廿◎] 今日は一段と強烈だあ! 風除室でもう臭い!

(;[◎廿◎] ……っていうかこのフィルター芳香剤入ってないやつじゃん! 勘弁してよかーちゃん!

朝から文句は山ほどあるけど、もう拘っている時間がない。
急いで学校に向かわなくては。

ミセ[田iii田] おはようつーちゃん。今日は随分早いね

声をかけてきたのは向かいの家に住むミセリさん。
確か今日は朝一番から、窓の汚れを掃除すると言っていたっけ。
今日のこの煙の様子だと、掃除してもすぐにまた汚れる気がするけれど……

( [◎廿◎] ミセリさんおはよう! 急いでるからじゃあね!

ミセ[田iii田] いってらっしゃい。風が強いから気をつけてね

( [◎廿◎] うん、行ってきます!

33 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:36:47 ID:9prP.Kj60
学校へと向かう道を走る。
視界の悪さから車に轢かれそうになったりもしたけれど、そんなことはお構い無しだ。
早く学校に着かないと、みんなの登校時間に間に合わない。
私が空気清浄機のスイッチを押さなくちゃ、今日一日みんなマスク装着で授業を受けないといけなくなる。

(;[◎廿◎] 先週寝坊でやらかしたから、今回はちゃんとやらなくちゃ!

学校まであと少し。なんとか間に合いそうだ。
この角を曲がれば、残るは一直線。陸上部員の実力を見せつけて……

その時、曲がり角の向こう側から、人影が飛び出してきた

(;[◎廿◎] えっ……あーっ!?

スピードに乗った私はその人影を避けきれず、激突する。
相手の胸板に顔面を打ち付ける形になり、衝撃でガスマスクが何処かに飛んでいってしまった。

(;*゚∀゚) あっ……

(;* Д ) …………っ!?

一呼吸、思わず吸い込んだ茶色い空気が強烈な不快感を引き起こす。
目が痛い。咳が止まらない。胃が引き締まり、内容物が込み上げて来た。

(;* Д ) 助け……マスクを……!

目を閉じたまま手探りで、地面に落ちたはずのマスクを探す。
だけど、手に触れるのは地面だけ。マスクはどこにも見つからない。

34 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:38:51 ID:9prP.Kj60
もう駄目だ、私はここで死んでしまうのだ。
そんな諦めさえ芽生え始めた時、私の頬に大きな手が触れるのを感じた。
次に、顔全体を包み込むマスクの感覚。少しずつ呼吸が楽になり、痛みは消え、吐き気も治まった。

( [ ゚ iiii ゚] ……えっと、これは……?

顔に手を当てて、感触を確かめる。
私が装着しているのは間違いなくガスマスクだったが、つい先程まで身につけていた物とは明らかに形状が異なっている。
そこでようやく、私は眼の前に居る人間に意識を向けることが出来た。

( ´_ゝ`) ……

その人は、ガスマスクも無いのに平然として、私のことを見下ろしていた。

( ´_ゝ`) ごめん、急いでた

( [ ゚ iiii ゚] いえ、こちらこそ……って、マスク! マスク無くて大丈夫?

( ´_ゝ`) うん、そうみたい。みんな着けてるから持ってきたけど……

( ´_ゝ`) ……いや、うん。とにかくごめん。急いでるから行くね

( ´_ゝ`) そのマスクはあげるから。あと君のマスク、あっちの植え込みの方に飛んでいったよ

そう言うと細目の男は、まだ呆然としている私を置いて走り去ってしまった。

しばらくして我に返った私は急いで学校に向かうも、結局当番には間に合わなくて、友人達から顰蹙を買った。
言い訳はしたけれど、マスクを着けずに外を歩ける人間のことなど、誰も信じてはくれなかった。

35 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:40:52 ID:9prP.Kj60
ガスマスクを着けたまま、授業が始まる。
教壇で熱弁を振るうのは、日本史のビコーズ先生だ。

(( ∵) かつて日本は経済的に貧しい国で、国民は日々の食事にさえ困窮する有様でした

(( ∵) 偉大なる政治家ジョルジュはそんな国民の様子を嘆き、日本の工業の発展に努めました

(( ∵) 後に第六次産業革命と呼ばれたこのムーブメントは、僅か十年の間に貧困国家の日本を世界有数の経済大国にまで押し上げます

(( ∵) 今やあの工場で作れない物は無い。家も、衣服も、食料も、宇宙船だって作れます

(( ∵) まあ、八本足の鶏やピンクのスライム肉のように、行き過ぎた効率化が発覚し、倫理的な面で非難されることも多いのですが

日本史の授業は嫌いだ。
特に近代史の授業は、いつも最後にあの結論に辿り着く。

(( ∵) ――――ともかく、今の日本の発展には、窓から見えるあの工場が大きく寄与しているのです

(( ∵) 皆さんの生活はあの工場が支えています。感謝の気持ちを持って日々を過ごしましょう

工場に感謝しなさい。その話を聞くのはもう何回目になるだろう。
ノートの隅に棒人間を書く作業にも飽きて、窓の外に目を向ける。

空気が綺麗だった頃の名残である、無駄に広い校庭。
昔は生徒達が太陽の下で素顔をさらして、あの場所を駆け回ったのだという。
今はもう、わざわざ屋外に出て運動する物好きなど居ないだろう。

36 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:41:51 ID:9prP.Kj60
( [ ゚ iiii ゚] ん……?

しばらく校庭を眺めていた私は、その片隅に小さな人影があることに気が付いた。
小さな人影? いや、あれは体を丸めているだけだ。体を丸めて朝礼台の陰に隠れながら、こちらを観察している。
人影は私の視線に気づくと、手に持った何かを頭上に掲げ、振り回した。
目を凝らす。揺られているのは、見覚えがあるマスク。

(;[ ゚ iiii ゚] (あれ、私のガスマスクじゃん!)

(;[ ゚ iiii ゚] 先生! トイレ!

(( ∵) 女の子ならもうちょっと小声で言いなさい

教室を飛び出して、校庭に向かう。
職員室の前を通らないよう、遠回りしないといけないのがもどかしかった。
校庭に居たのは、案の定と言うべきか、今朝出会った謎の男だった。

( ´_ゝ`) 拾っといたよ

そう言って彼は、手に持っていた物を渡しに差し出した。
やはり、今朝私が落としたガスマスク。土埃で汚れているけれど、壊れているわけではないらしい。

(;[ ゚ iiii ゚] あ、ありがとう……届けに来てくれたんだ!

( ´_ゝ`) 君と同じ服を着た人が入っていくのを見たから、多分ここだろうと思って

( ´_ゝ`) 目印があると便利だね。俺も腕に目印ついてるけど

( [ ゚ iiii ゚] 腕に……?

37 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:43:12 ID:9prP.Kj60
彼の腕に目をやると、右腕の肘を挟むようにして、赤と黄色のラインが引かれているのが見えた。

(;[ ゚ iiii ゚] これって、あの工場の……

( ´_ゝ`) あ、バレちゃった?

腕に引かれたラインは、工場で働く職員の証。
その中でも赤と黄色のラインは、最も地位が低い奴隷階級を示すものだ。
あの工場では他に行き場がない浮浪者や孤児が、僅かな食料と引き換えに家畜のような扱いを強いられると聞く。

皆がいい暮らしをするため、仕方のない犠牲だ。だからこそ彼等には感謝しなければいけない。
安全な立場の人間が「自分だって苦しいのだ」と言わんばかりに涙を流し、そんな言葉で工場を賛美する。
彼もまた、この吐気がするような胸糞悪い体制の犠牲者の一人だったのだ。

(;[ ゚ iiii ゚] なんでこんな街中に居るんだ!?

( ´_ゝ`) 逃げてきたんだよ。あそこで働いてたら、いつ死んでもおかしくないからね

( ´_ゝ`) 俺は生まれた時からあの中に居た。奴隷同士の間に生まれた子だという

( ´_ゝ`) でも、外からやって来た奴隷達から「こっち」の話は聞いていた

( ´_ゝ`) こっちは良いな。空気は工場より綺麗だし、何より命の危険が少ない

( ´_ゝ`) でも、もし奴等に捕まったら半殺しか全殺しか……だから、できれば誰にも言わないでほしいな

(;[ ゚ iiii ゚] 言わないけど……それならこんな所に来ないで隠れてれば良かったのに……

( ´_ゝ`) でも、このマスク無いと困るでしょ?

(;[ ゚ iiii ゚] そりゃそうだけどさ

( ´_ゝ`) まあ、確かに危ないからもう逃げるよ。じゃあね

38 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:44:35 ID:9prP.Kj60
( [ ゚ iiii ゚] ……あ、ちょっと待って! すぐ戻ってくるから何処かに隠れてて!

( ´_ゝ`) うん? うん、わかった

そうだ、確か今日の弁当には、あれが入っていたはずだ。
出てきた道をそのまま遡って、誰にも気付かれないようこっそり教室に侵入する。
ビコーズ先生は板書のために背を向けている。生徒はだいたい寝てる。大丈夫だ。

ロッカーから学生鞄を引き抜いて、再び校庭に向かった。

( [ ゚ iiii ゚] ほら、これ!

片手に収まるサイズのタッパーを差し出すと、男はそれを受け取って、怪訝な面持ちで口を開いた。

( ´_ゝ`) これは?

( [ ゚ iiii ゚] お礼だよ。私の好物の柘榴のパイ!

( [ ゚ iiii ゚] 逃げてきたってことは、ロクに物も食べてないんだろ?

( [ ゚ iiii ゚] かーちゃんの手作りだから世界一うまいぜ! 後で食いなよ!

( ´_ゝ`) くれるのか、俺に。こんな美味そうな物を貰うのは生まれて初めてだな

( ´_ゝ`) ありがとう

39 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:45:26 ID:9prP.Kj60
( [ ゚ iiii ゚] それと……
  ∩ ∩

(;*-∀-)
  つ[ ゚ iiii ゚]

(;*-∀-)
  つ[◎廿◎]  [ ゚ iiii ゚]

(;[◎廿◎]
  ∩ ∩

(;[◎廿◎]  ハァ…ハァ…!!
  つ[ ゚ iiii ゚]

(;[◎廿◎]  ……ごれ゙も゙!
  つ[ ゚ iiii ゚]

(;[◎廿◎] マスクも無しに出歩いてたら、流石に怪しまれるだろ……!?

( ;´_ゝ`) あ、ああ……ありがとう

40 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:46:19 ID:9prP.Kj60
( [ ゚ iiii ゚] それじゃあ、俺はもう行くよ。ありがとな

( [◎廿◎] うん、上手いこと逃げろよ。もし捕まったら工場まで出向いて笑い者にしてやるから

( [ ゚ iiii ゚] そいつは困るな……まあ、せいぜい頑張るよ

授業の終わりを告げる鐘の音が鳴る。
私は慌てて教室へと走り、男は手を振ってそれを見送っていた。

(( ∵) トイレに行く途中でマスクのフィルターが駄目になった……それは大変でしたね……

( [◎廿◎] 予備があって助かりました

(( ∵) いくらかガスも吸ってしまっているでしょうし、体調が悪ければ無理せず保健室に行きなさい

( [◎廿◎] はい、ありがとうございます!

(( ∵) ……それと、脱走者と親しくするのはやめておいた方が良い

(( ∵) 後で悲しむのは、あなた自身ですよ

(;[◎廿◎] あっ……気付いて……

(( ∵) 言わないだけで、大人はみんな分かっていますよ。余程問題が無い限りは黙認しますが

「今回だけ、出席ということで付けておきます」
ビコーズ先生はそれ以上何か言うことも無く、職員室へと戻っていった。

41 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:48:18 ID:9prP.Kj60
その後の授業も、家に帰ってからも、私はずっとあの男のことが気がかりだった。
無事に逃げることは出来たのか、捕まって、酷い仕打ちを受けているのではないか。
もしかしたら、この街の何処かに隠れたまま、食料もなく、飢え死にすることになりはしないか。

男の大きな手の感触を、切れ長で細い目を思い出しながら、そんなことばかり考えている。
家族とクラスメイト以外で男の素顔を見たのは、これが初めてではないだろうか。
頬が少し、熱くなるのを感じた。




彼と私が再び出会ったのは、それから一週間後。
そしてその日が恐らく、私が彼を見た最後の日だったと思う。

42 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:49:10 ID:9prP.Kj60
私はその日、例によって空気清浄機の稼働当番だった。
二週連続の失態を取り戻すべく午前5時半のアラームで飛び起きると、
前日から用意していた弁当箱二つを学生鞄に詰め込んで家を出た。

学校まではゆっくり歩いても20分弱。
今日はガスが薄いから清浄化するのも早いだろうし、
のんびりと登校して来る生徒達を教室の窓から眺めつつ、悠々と朝食を摂れるはずだ。

ミセ[田iii田] おはよう、つーちゃん。早起きね!

(;[◎廿◎] おはよう! 多分ミセリさんのほうが早いと思うけど!

ミセ[田iii田] 工場の一部が稼働を止めてるらしくて、ガスが薄いじゃない?

ミセ[田iii田] 空気が良いうちに庭の掃除でもしようと思って!

ミセ[田iii田] ……ところでつーちゃん、これから登校なら気をつけたほうが良いよ?

( [◎廿◎] へ? なんで?

ミセ[田iii田] 向こうの道。通学路の所を、工場の作業着を着た人達が走って行ったの

43 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:50:08 ID:9prP.Kj60
ミセ[田iii田] いたぞー、とか。つかまえろー、とか。そんな声が聞こえてきて……

ミセ[田iii田] 多分あれ、脱走者を追いかけてたんだと思う

ミセ[田iii田] 脱走者に出くわしたら何をされるかわかったもんじゃないし、変な人が居たらすぐに逃げなさいね

( [◎廿◎] そうなんだ……気をつけます……

私は平静を装いながらミセリさんに別れを告げ、学校に向かった。
いや、正確に言うならば、通学路を通ったという脱走者を追いかけた。

私の頭の中は、あの人のことで一杯だった。

彼はこの一週間、何処にいたのだろう。近所の公園や郊外のゴミ集積場、ビルの隙間や路地裏。
ガスマスクのフィルターが切れる心配が無ければ、視界の悪い屋外で、隠れる場所はいくらでもある。
今回の追跡さえ振り切れば、再び彼を発見するのは困難になるだろう。

( [◎廿◎] 今回だけ……今回だけ、あの人を助けよう……!

そう、私の頭の中は、あの人のことで一杯だった。
だから、追われている脱走者があの人ではない可能性など、考えもしなかった。

44 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:50:55 ID:9prP.Kj60
放置された車の陰、テナント募集中の空き家、彼が隠れていた場所を虱潰しに探しながら学校に向かう。
工場の作業員達が彼を見つけるより先に、私と彼は再び出会うだろう。
そんな根拠のない自信が、心の奥深くから湧き上がった。

ブロック塀の曲がり角。ここを曲がれば学校まで一直線だ。
そういえば彼と最初に出会ったのも、この場所だった。
彼との出会いを再現するように、私は全速力で丁字路に突入した。

曲がり角の向こう側から、図ったようなタイミングで人影が飛び出してきた。

(*[◎廿◎] あっ、久しぶりだ――――

大きな手が私の喉首を鷲掴みにして、ブロック塀に叩きつけた。

(´<_` ) ……

あの人に似ていた。でも、あの人ではなかった。

(´<_` ) マスクを貰う。暴れたら殺す

45 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:53:48 ID:9prP.Kj60
返事を待たずに、男の手が私の顔に掴みかかる。
マスクが顔から取り外され、体内に大量のガスが入り込む。
苦しみから地面をのたうち回り、自身の吐瀉物に塗れながら、ようやく私は、私が置かれている状況を理解した。

(´<_` ) なんだ、マスクを外したら死ぬのか。そりゃ悪かったな

(´<_` ) 外の人間は弱い奴等だ。こんなののために、俺達は……

(ill*;∀;) がえ゙っ……マスク……

[◎廿◎] ) 騒ぐなよ見つかるだろうが……いや、こっちの方が都合が良いか……

[◎廿◎] ) じゃあな。でかい声で助けを呼べば助かる可能性もあるだろう。それが出来ればの話だが

[◎廿◎] ) 俺はその騒ぎに紛れて逃げさせてもらうぜ

(ill*;∀;) いや……助げて……だっ……

(ill*;∀;) ……

(ill*;∀;) 死に゙たくない

[◎廿◎] ) ……

[◎廿◎]#) お前達が! 俺にそれを言うか!!

私に背を向けて歩き出していた男は、突然振り返って私を罵倒した。
目は涙で何も見えないけれど、こちらに走り寄ってくるダン、ダンという足音は聞こえる。
何をされるのかな。もう息もできなくなってきた。

頭の真横で足音がして、大きな手が私の顔を包んだ。

46 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:55:10 ID:9prP.Kj60
( ´_ゝ`) 悪かったな、勇気が出なくて……もう大丈夫だから安心しろ……

大きな手はゲロまみれの私の顔を拭って、少し汗臭いガスマスクを押し付けた。
吐き気も、目の痛みもすぐには止まらないけれど、フィルターから送られる清浄な空気が、気分を少し楽にしてくれた。

(ill[ ゚ iiii ゚] へへ……臭いよ、これ

( ´_ゝ`) マスクなんか着けずに生きてきたもんだから、邪魔くさくてな。結局使わず、こう、シャツの中に突っ込んで……

(ill[ ゚ iiii ゚] 馬鹿じゃん。でも、ありがと……あいつは?

( ´_ゝ`) あいつ? ああ、君を襲った奴なら向こうで伸びてるよ

( ´_ゝ`) まだ目は見えないだろうけど、あいつを追ってた工場の人達も居る

(ill[ ゚ iiii ゚] 工場の人達って……馬鹿! お前も捕まっちゃうじゃん!

( ´_ゝ`) まあ、仕方ないよなあ。そうしなきゃ君、死んでたもの……

(ill[ ゚ iiii ゚] でも……!

( ´_ゝ`) 俺のことは気にしないで良いよ。俺がやりたいから、そうしたんだし

( ´_ゝ`) 救急車も呼んだ。納得出来ないことも有るだろうが、今はとにかく休みな……

(ill[ ゚ iiii ゚] ……

(ill[ ゚ iiii ゚] うん

47 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:55:52 ID:9prP.Kj60
( [ ゚ iiii ゚] スー…スー…

( ´_ゝ`) 顔色も良くなったし、もう心配無い。そうだろう?

ィ'ト―-イ、
以`゚益゚以 そうだな。しかしお前は、馬鹿なことを……

(;'A`) 工場じゃもう、お前は死んだものとして扱われていたんだ

(;'A`) コストの無駄だと捜索も打ち切られていた。だが、目の前に出てこられたら、捕まえなきゃいけないじゃないか

ィ'ト―-イ、
以`゚益゚以 すまんが、逃げないでくれよ。逃げられると俺の首が飛ぶ

( ´_ゝ`) 逃げないよ。もう気は済んだし、工場に帰るとしよう。だが……

ィ'ト―-イ、
以`゚益゚以 だが?

( ´_ゝ`) 最後にもう少しだけ時間をくれよ

48 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:56:44 ID:9prP.Kj60
( ´_ゝ`) なあ君、まだ起きてるんだろ?

私の方に顔を向けて、彼が言う。
出来ることなら眠っていたかった。寝て、起きて、その間に別れを済ませておきたかった。

( [ ゚ iiii ゚] ……うん

( ´_ゝ`) 色々迷惑かけてごめん。思えば最初の出会いも、今の状況とあんまり変わんないね

( [ ゚ iiii ゚] ふふ、そうだなあ

( ´_ゝ`) 実を言うと女の子の素顔見たの、人生で初めてだったからドキドキしたよ

( ´_ゝ`) 君みたいな可愛い子でよかった。あそこに居る般若面野郎みたいな顔だったらトラウマだ

少し離れた所から、「おい」という野太い声が聞こえてくる。
それと同時に、声の後ろで何人かが吹き出して笑っていた。

( ´_ゝ`) 柘榴のパイも、うまかったよ。今まで食ったものの中で一番

( [ ゚ iiii ゚] そうかあ、そりゃあよかった

49 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:57:36 ID:9prP.Kj60
( ´_ゝ`) えっとさ、もう時間だし、お別れだ。般若面が手招きしてる

( [ ゚ iiii ゚] うん……あのさ……

( ´_ゝ`) なんだ?

( [ ゚ iiii ゚] ゲロまみれの顔でいいなら、最後にもう一回、見ておく?

( ´_ゝ`) ……

彼はゆっくりと私の顔に手を伸ばした。
呼吸を止めて視線を送ると、静かにマスクが取り外された。

(*゚∀゚)

( ´_ゝ`) ……良い?

(* ∀ ) コクリ







( [ ゚ iiii ゚] いつか絶対、会いに行くから

( ´_ゝ`) ああ、楽しみにしてるよ

('A`) ……

50 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:58:04 ID:9prP.Kj60
             .




                    .

51 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:58:55 ID:9prP.Kj60
午前6時のアラームに起こされて一日が始まる。
眠たい目を擦りながら階段を降りると、コンソメスープの香りと、食パンの焼ける匂いが漂ってきた。

J( 'ー`)し おはよう。調子はどう?

(*う∀゚) 眠い……退院後最初の登校が空気清浄機当番って、気遣いは無いのか……

J( 'ー`)し あなたがやるって言ったんじゃない。ビコーズ先生は休んでも良いって言ってたんでしょ?

(;*゚∀゚) そうだけどおー

J( 'ー`)し 内申点稼いで良い大学に行って、工場に勤めるんだって言い出したのは誰?

(;*゚∀゚) もー!

J( 'ー`)し あんなに工場を嫌ってたのに、どういう風の吹き回しかしら

(*゚∀゚) ……工場は今でも嫌いだよ。でも、やりたいことがあるんだ

退院の翌日、私は家族に隠れてこっそり工場を訪ねた。
工場の敷地はフェンスで囲われていたけれど、その近くで働いていた作業員に、彼の所在を聞いてみた。

        ( ´ー`) 知らないねえ、この工場には細目の奴なんていくらでもいる

        (*゚∀゚) その顔見りゃ分かる

        ( ´ー`) 言うねえ……まあ、ここで人探ししたいなら、ここに勤めて、偉くなるのが一番速いよ

        ( ´ー`) 部署は多いし、戸籍が無い奴だって沢山働いてるからね

だから決めたんだ。お目出度い考えかもしれないけど、それが近道だって言うんなら。

52 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:00:24 ID:9prP.Kj60
J( 'ー`)し そう、頑張りなさいな。かーちゃんも応援して、優しいかーちゃんになってあげるよ

J( 'ー`)し 優しさの証のコンソメスープ! あなたの大好物の柘榴のパイ!

(*゚∀゚) 柘榴のパイ!? 朝から食べていいの!?

J( 'ー`)し 昨日、工場の偉い人が来てね。迷惑をかけたお詫びにって特級の柘榴を置いていったの

J( 'ー`)し 見舞いの電話が来る度に、柘榴大好きアピールをした甲斐が有った!

(*゚∀゚) えらい!

J( 'ー`)し 食パンは買い忘れて1枚しか無いから、パイでお腹を満たしなさい!

(*゚∀゚) やっほー!

熱々のパイ生地にナイフを立てると、さくり、さくりという小気味良い感触が伝わってくる。
柘榴のパイは、俯いた心への特効薬。

そして、初めてのキスの味だ。

53 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:01:08 ID:9prP.Kj60
           .

鯨骨生物群集 或いは 『瓶詰柘榴と東京ガスマスク・ラブ・ストーリー』

                                         了

54 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:02:15 ID:9prP.Kj60
小森ヒッキーとそういった関係になったのは、私が大学に合格した日の夜のことだった。
私が大学の有る県外に引っ越すまでの一ヶ月半ほどの期間、その関係は続いた。
泣いていたような気がする。小森も、私も。

小森は寝物語に鯨がどうとか、海がどうとか、相変わらずそんな話を繰り返した。
私はそれを聞いてあれこれ空想しては、下らない作り話を披露して、毎度小森を呆れさせていた。
思えば、話を作るとか、文章を書くとかいう趣味は、これが発端だったのだろう。

恋人ではなかった。ただお互いに、相手を手放したくないと思っていた。
その欲望を伝える方法を、他に知らなかっただけなのだ。

私達はそれが新幹線の距離の引っ越しで途切れてしまうような弱い繋がりであることを理解していたし、
一方で、その繋がりを絶たれることが、何よりも耐え難い苦痛だと思っていた。

比翼の鳥でも、連理の枝でもない。
かまってちゃんが二人が悲劇の主人公をやっていただけ。
誰かにそう言われても、反論は出来ないかもしれない。

別れの日に贈った水槽は、今も小森の部屋に有るのだろうか。

55 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:03:44 ID:9prP.Kj60
内藤の葬式から一週間。
私は実に六年ぶりに、小森家のドアを叩いた。

爪'ー`) いらっしゃい、待ってたよ

そう言って私を迎え入れたのは小森の兄。名前は昔一度だけ聞いたような気がするが、思い出せない。
「どうも、お兄さん」と無難に挨拶したつもりが、「フォックスだよ」と返された。
見抜かれていたか、と思わず表情をこわばらせると、彼は苦笑しながら言葉を続けた。

爪'ー`) いや、ヒッキーもそうやって誤魔化すところがあったから

爪'ー`) 似てるなあって思ってさ

从 ゚∀从 はあ……

爪'ー`) 案内するよ。仏間に入るのは初めてでしょ?

从 ゚∀从 あ、その前にこれを……

鞄から熨斗袋を取り出すと、彼はそれを一瞥して、両手で大きなバツを作った。

爪'ー`) そういう堅苦しいのはいいよ。別にジャージで来ても構わなかったんだから

从;゚∀从 流石にそれは問題が有るのでは?

爪'ー`) まあまあ、とにかく。上がってよ

爪'ー`) ……それと、鞄の中の焼き菓子はお供え物? そっちは好物だから貰っていいかな?

从;゚∀从 は、はあ……

56 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:04:37 ID:9prP.Kj60
異常な程にフランクな案内で、畳張りの仏間に通される。
壁にはヒッキーの祖父母や曾祖父母の遺影が飾られていて……
その中にはやはり、私の記憶の中よりも少しだけ成長したヒッキーの姿もあった。

从 ゚∀从 ヒゲ生えてら

爪'ー`) 高校の頃はつるっつるだったもんね

爪'ー`) ……ほら、蝋燭にも火を着けたから、線香あげてやって

从 ゚∀从 ありがとうございます。では、失礼して……

線香を一本手にとって、蝋燭の火に当ててやる。
香炉の灰は丁寧に均されているが、蝋燭は既に半分ほどの長さになっていた。

从 -∀从 

从 ゚∀从 ……ありがとうございました。わざわざ準備してくださってたみたいで

爪'ー`) 一応毎日あげてるからね。習慣だよ、習慣

爪'ー`) ちょっと待ってて。今お茶出すからさ。焼き菓子ならコーヒーのほうが良いかな?

从 ゚∀从 えっと、それじゃあお言葉に甘えて

57 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:05:56 ID:9prP.Kj60
数分後、コーヒーカップをトレイに乗せたフォックスさんが戻ってきた。
それから、私の持ち込んだ焼き菓子の箱を開封して、小分けされたパックを幾つか卓上に並べた。

爪'ー`) ヒッキーはマドレーヌが好きだったね

从 ゚∀从 そうなんですか?

爪'ー`) マドレーヌがと言うより、貝の形がね

从 ゚∀从 ああ、成程そういう

爪'ー`) 海好きだったからね

从 ゚∀从 ええ、特に鯨が

爪'ー`) 言ってたねえ、そんなこと。鯨骨生物群集だっけ?

从 ゚∀从 そうですね、鯨みたいな人間に憧れるって……

爪'ー`) お、それは初耳だ。聞かせて貰っていいかな?

思いの外、話が弾む。
小森ヒッキーという一人の人間の存在が、私とフォックスさんの感情を繋いでいる。
きっと今の私は、内藤の葬式に参列していた他の者達と、似たような目をしているのだろう。
私は目の前の人間を通して、小森ヒッキーを見ているのだ。

从 ゚∀从 そういえば、あの水槽ってまだ有りますか?

何気なく口にした一言に、フォックスさんの動きが止まった。

爪'ー`) ……あれは、割れちゃってね

从 ゚∀从 割れた……

爪'ー`) ちょっと、来てもらって良いかな? ヒッキーの部屋だよ。

58 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:07:36 ID:9prP.Kj60
小森の部屋の中は、一見、六年前と何も変わらない様子だった。

五畳半ほどの細長い室内にベッドが一つ。
そこから手を伸ばせる位置に本棚が二つあって、それでおしまい。

ただ一点違ったのは、部屋の中央に置かれた教卓ほどのサイズの机だった。

爪'ー`) ヒッキーはこの机に水槽を乗っけて、海水を入れて眺めてたんだ

爪'ー`) やっぱりこれが海だったって、満足そうに笑ってたよ

从;゚∀从 本当にやったんだ……

爪'ー`) 正直、僕にもよく分からなかったけどね。喜んでるならそれでいいやって思った

爪'ー`) ヒッキーはよく、自分が死んだらこの水槽を頼むって言ってたっけ

爪'ー`) でもね……

フォックスさんは急に屈み込んで、机の脚元の床を指差した。
木製の床板の一部が、三角形に凹んでいる。

爪'ー`) 去年の……そうだね、春先のことだったと思う。内蔵の方に新しい病気が見つかってね

爪'ー`) 一気に体力落としちゃったんだけど、それでもヒッキーは水槽の手入れを自力でやってたんだ

爪'ー`) 勿論僕が代わるって言ったんだけど、これだけは自分がやらないとって聞かなくてね

爪'ー`) それである日とうとう、水を替えているタイミングで腕から滑り落ちて……

59 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:08:28 ID:9prP.Kj60
「海が消える」

その時、小森はそう叫んだらしい。
ガラスの破片を掻き集めて、手を傷だらけにしながら、水槽を修復しようとした。
でも、どれだけ探しても、最後の一欠片が見つからなかった。

小森の容態はそれから急激に悪化して、間もなく……

爪'ー`) ヒッキーはこの机の下で、うつ伏せになって死んでいた

爪'ー`) 頭はあっち、足は大きく開いてこの辺だったかな?

爪'ー`) あの日も水槽の破片を探していて、その途中で発作が起きたんだろうって医者は言ってたよ

从 ゚∀从 私の……

爪'ー`) 君のせいじゃない

爪'ー`) 僕はむしろ、ヒッキーがこれだけ長生きしてくれたのは、君の水槽のお陰だったと思ってるよ

爪'ー`) だって、あんなに喜ぶ姿も、あんなに悲しむ姿も、初めて見たからね

从 ゚∀从 ……しばらく、ここに居ていいですか?

爪'ー`) ……どうぞ

60 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:11:46 ID:9prP.Kj60
私達の関係は、私が彼のもとを離れたあの日で終わったのではなかったのか。
相手の死すら知ることが出来ないような状態でも、私達は互いに影響しあっていたのか。

答えはきっと、どちらも是である。

从 ゚∀从 鯨骨生物群集、だよな

鯨の死、人間の死と同様に、私と小森の関係も、その後に何かを残したのだろう。

小森は海を眺め、私は物語を空想する。
物語が浮かばないことへの焦り。それは、小森との日々が否定されることへの焦りだった。
小森が水槽の破片を探し続けていたように、私もまた、空想への足掛かりを探し続ける。
短い時間の、浅い縁。私達はその死骸に集る生物群集だ。

从 ゚∀从 なあ小森、お前は強情な奴だったから、ご馳走を残して死んだりはしないだろう?

小森が死んでいたという机の下に、うつ伏せになって倒れ込む。
フォックスさんの話だと、頭はあっち、足はこっち。
顔はどちらを向いていたのだろう。顎を床に付けて真正面か、それとも右か、左か。

一人にしてもらって良かった。こんな姿、遺族に見せるもんじゃ――――

从 ゚∀从 ほーら、やっぱり見つかった

61 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:12:43 ID:9prP.Kj60
                 .

ベッドの横に並んだ本棚の下。


底板と床との僅かな隙間の中で、海の欠片がちらりときらめいた。

     .

62 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 23:13:19 ID:9prP.Kj60
鯨骨生物群集 或いは 『小森ヒッキーの訃報に寄せて』

                                 了



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