ドッペルくん
- 2 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:36:00 ID:0dep3B6g0
深夜一時、眠れない夜のことだった。
茹だるような夏の暑さ。ろくすっぽ効きやしない空調。
小箱に詰められたような閉塞的な闇の中、着信が鳴った。
高校卒業以来まったく連絡を取らなくなった友人からだった。
名前は、独男という。
久しぶりに聴いた電話越しの彼の声は、ほんの少し上擦っていた。
「今から会えるか?」彼がそう言うから、ぼくは二つ返事。
このアパートの住所を伝えると、電話はあっさりと切れた。
彼の声が聞こえなくなって、再び部屋に静寂が訪れて、ぼくは寒くもないのに身震いした。
要件も伝えない独男。彼の上擦った声。
今振り返ってみると、不審な点はいくつかあった。
それでもぼくは何も聞かずに、彼と会う約束をした。
- 3 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:37:25 ID:0dep3B6g0
二年間、一切連絡を取っていなかった友人と会う理由など、この蒸し暑い小箱の中から抜け出したいから。
それだけで良かったのだろう。
彼が今どこにいるのかは分からなかったけれど、それほど時間はかからない気がした。
シャワーでさっと汗だけ流す。ここ暫く課題に追われ、徹夜続きだった。
食事もろくに食べていなかった気がする。立ち眩みをぐっと堪えながら、ハーフパンツとポロシャツに着替えたところで、再び着信。
「着いたぞ」
ちょうど、ぼくの予想とぴったりな時間に彼は到着した。
- 4 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:38:47 ID:0dep3B6g0
午前一時半。
部屋の窓を開けて外を覗き込むと、ヘッドライトを点けっぱなしにしたセダン車が唸り声を上げて、駐車場に停まっていた。
ライトに照らされる人型の針金のようなシルエット。
その後ろ姿は、高校の時の独男そのままだった。
「よう」
玄関に立ち尽くしたまま靴も脱がずに、独男は低い天井をぼんやりと見上げていた。
小柄な彼から見れば、少しはこの天井もましに見えるのかもしれない。
「久しぶりだおね」
「ああ」浅く息を吐き、そして深く吸う。「忙しかったからな」
- 5 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:40:21 ID:0dep3B6g0
その所作にどのような意味が込められているのかは解らなかったけれど、妙に引っかかった。
六畳一間のワンルーム。独男を百均の座布団に座らせ、グラスに麦茶を注ぐ。
自分の分になみなみと注いで、一気に半分ほど飲み干して注ぎ足す。
口の中に、饐えたような酸味が広がった。
昔から、疲れているときに何か口にするとこのような妙な酸味がする。
取り敢えず、とろみも無いしお茶が腐っているということはなさそうだ。
「今までなにしてたんだお?」
独男も、差し出したお茶を一息に半分ほど飲み干した。
煮出してそのまま冷蔵庫に入れてあったやかんを取りに戻るうちに、そのままお茶を飲み干して深い溜息を吐く音が聞こえた。
- 6 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:41:51 ID:0dep3B6g0
ぼくが知らない独男の二年間。語りたくはないようで、彼はだんまりを決め込んだまま。
軽薄だった、とぼくは自分自身を恥じた。
卒業を控えた、ちょうど二年前の今くらいの時期、彼は唐突に学校を去った。
そして今再びぼくの元に現れた彼の身なりを見るに、順風満帆とはいかないことなど、容易に想像はつく。
後ろ姿はそのままに、伸ばしっぱなしの長髪に、よれよれの和柄シャツ。
開いた胸元。ぼくにはそれが何を表しているのか解らないけれど、入れ墨が彫られていた。
そして、右の目尻に痛々しく真っ赤に腫れた傷。
- 7 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:43:05 ID:0dep3B6g0
己の軽率な行動を恥じると同時に、ぼくは友人との話し方を忘れてしまった。
大学では、それなりに上手くやっていると思う。
それなのにこうして彼を前にすると、被虐者としての自分を再認識させられているような気がして、ぼく程度の存在が、人様と口をきくことなど許されるのだろうか、と、そんな仰々しい自虐ばかりが脳裏を過る。
「特に用があったわけじゃないんだ」
ようやく独男は口を開いた。
中学の時とは正反対で、高校の時とまったく同じな、低くもはきはきとした調子
- 8 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:44:35 ID:0dep3B6g0
「別に用が無くてもいいお。元気そう……? でなにより」
「ふん、自分でも幾分か男前になったと思うよ」
不遜に鼻を鳴らしながら、独男は目尻の傷を指でなぞった。
ぼくは思わず噴き出してしまった。独男も、同じように笑った。
空調の利かない六畳一間はあまりに蒸し暑いから、ぼくは網戸もせずに窓を開けた。
大学まで少し遠いこのアパートは、家賃が安い代わりに、周りには本当に何も無い。
一本入ると田んぼが広がっていて、こうやって窓を開けると、蛙の鳴き声が喧しい。
「タバコ吸ってたおね? 窓際なら吸ってもいいお」
「あ、ああ、悪いな」
- 9 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:45:57 ID:0dep3B6g0
シャツの胸ポケットから取り出したくしゃくしゃのハイライト。
中身も当然、シケモクのごとくくしゃくしゃだ。オイルライターで火をつけるその手つきは辿々しい。
ぼくも彼に倣ってタバコを取る。マルボロのメンソール。
独男は一瞬目を丸くして、少しだけ悲しげな顔。
「タバコ、辞めろよ」
「色々忙しくてストレスが溜まるんだお」
半分くらいの長さになったタバコを、捩じ切るように灰皿に押し付けて、独男は深い溜息。
うっすらと混じった煙は、壁まで届くんじゃないかってくらい。
- 10 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:46:55 ID:0dep3B6g0
「ストレス、か」
長い髪を?き上げながら、独男は座るでもなく、部屋の中をうろうろと歩く。
「あの時以上にストレスのかかる日なんてなかっただろうよ」
自虐を含んだような笑み。
そうやって、色んなものを堪えながら、苦し紛れに笑えるようになるまで、一体ぼくたちはどれだけの時間を要しただろうか。
「……」
ぼくは何も言えなかった。
- 11 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:48:16 ID:0dep3B6g0
あの頃のことを忘れた日なんて、地獄から解放されてから今に至るまで、一日だって無かった。
気を抜けば脳裏を過る、罵声、身体の痛み。
あの時ぼくたちは、二人揃ってこの世界にひとりぼっちだった。
孤立無援の教室。周りを見渡せば、舌舐めずりする獣の群れ。
三年間の地獄は永遠のように長かった。
駆け抜けるような青春なんか、存在しなかった。
「お前はまともに生きてるみたいで安心したよ。もう、すっかり忘れちまったか? 中学の頃のこと」
「……」
何も、答えられない。答えられるはずがなかった
- 12 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:50:57 ID:0dep3B6g0
「悪いな」
独男は力なく笑った。今際の際のような顔をして。
ぼくには、彼とこの部屋を分かつ、存在というはっきりとした境界線が見えなかった。
希薄化した独男の顔が、身体が、朧げだ。
六畳一間を照らす白熱灯に掻き消されてしまいそうな独男は、目と鼻の先にいるのにずっと遠い。
「忘れられるなら、忘れちまったほうがいい。なんでもないような顔をして、わたくしの人生には何の汚点もありませんでしたって、我が物顔で生きていけるならその方がいいよな」
「一度だって、忘れたことないお」
「そりゃそうだ」
- 13 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:53:08 ID:0dep3B6g0
このまま放っておいたら、次の日には首を括ってしまいそうな独男。
ぼくは、彼が抱えているものの大半を共有している。
だからこそ、彼が何に対して蟠りを抱えているのかがよく解ったし、同時に理不尽だと思った。
光り輝く、茹だるような青春。あるいは順風満帆な人生の栄光。
それと等しく、もしくはそれ以上に胸の中に溜まるどす黒い感情は、抱えれば抱えるほど、持ち主の想いは霞んでゆき、やがて無いものとして扱われる。
社会不適合者。傷だらけのアウトランダー。
- 14 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:54:10 ID:0dep3B6g0
誰からも見向きもされない彼らは路傍の小石、にすらなれない。
黒い感情を抱えれば抱えるほど、社会その他諸々の群衆団からは乖離してゆく。
長い前髪を掻きながら顔を上げた独男は、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
「わりぃ、内藤」
どうして、ぼくに謝るのか、ぼくは彼のその先の言葉を聞いた後でも、まったく理解出来なかった。
「俺、人殺しちまった」
.
- 15 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:56:14 ID:0dep3B6g0
目が覚めたのは昼前。
なかなか寝付けなくて、最後の時計を確認した時点で午前八時を回っていたから、睡眠時間は決して充分とは言えない。
目の周りが痛い。瞼は重くて、鉛みたいだ。
起き上がると目眩がした。喉がひどく乾く。口の中が粘度の高い唾液のせいで気持ち悪い。
気を紛らわせようと歯を磨くけれど、歯ブラシを持つ腕すら怠いのだからもうどうしようもない。
- 16 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:57:33 ID:0dep3B6g0
口を濯いで、スマートフォンの通知を流し見る。
ネットニュースの通知を無視して着信履歴を確認するが、そこには当然、昨夜のあの時間に、独男からの着信の履歴が残っていた。
それを見るなり、酷い吐き気がこみ上げてきた。
磨いたばかりの歯を、こみ上げてきた胃液が容赦なく汚す。
俺、人殺しちまった――
彼はそう言って、血がついた小ぶりなナイフを、ズボンのポケットから取り出した。
彼が殺した男の名は、諸本という。中学の同級生だ。
- 17 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:59:10 ID:0dep3B6g0
ぼくは彼の震える手の中で存在感を放っていたあの鈍色の光を、きっと一生忘れないだろう。
刀身についた血は酸化して、どす黒くなっていた。
それでもなお鋭く光る切っ先に、ぼくは思わず仰け反ってしまった。
独男はそれきり暫く黙っていた。
そして、特に時間を決めていたわけでは無いのだろうけれど、空が白んできた頃に立ち上がって、この部屋を去った。
去り際、彼はこう言った。
「通報するか?」
ぼくは首を振ったけれど、彼はそのまま、振り返ることなく部屋を後にした。
- 18 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:00:02 ID:0dep3B6g0
彼を見送る気にもなれなかったぼくは、そのまま窓のそばで、布団も敷かずに横たわった。
フローリングは固くて、冷たかった。
階下までの一人分の足音。そして車のドアを閉める音が、はっきりと聞こえた。
エンジンが嘶き、走り出して、その音が遠くなり、やがて聞こえなくなった。
ぼくはそこで深い溜息を吐いた。
やっと息が出来た。
息を止めていたわけでもないのに、何故か、そう思った。
- 19 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:01:00 ID:0dep3B6g0
結局、堪えることが出来ずに吐いてしまった。
とは言っても昨日は朝から何も食べていなかったから、出るのは胃液のみで、それが逆に苦しい。
薄汚れた便器にしがみつきながら、胃の痙攣が収まるのをじっと待つ。
ようやく落ち着く頃、時刻は午後三時を回っていて、外の熱気は窓からじりじりと部屋を侵していた。
そして着信。
一瞬独男からだと思って身構えたけれど、画面を見て安心した。ツンからだった。
- 20 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:02:01 ID:0dep3B6g0
「あんた今日サボり? テスト前なのによくやるわね」
「いや、ちょっと体調が悪くて……」
「あら、夏風邪? あれって馬鹿が引くものだと思ってたけど」
「ま、まぁそんなところ」
「ふうん、今ちょうど帰り道だからさ、何か買っていくわよ。何か食べたいものとかある?」
「い、いや……」
断りの返事をしようと思ったけれど、途端に心細くなった。
こういう甘え方はよくないと知りつつも、今は、誰かと話したい気分だった。
とにかく、気を紛らわせたい。
「何か冷たいものを。アイスかゼリーが食べたい」
「了解。ゼリーはいいけど、アイスは大丈夫かしら。あんたの部屋ってコンビニから遠いのよね」
電話越しのツンの声色はいつもと同じで、ぼくはそれだけで少し安心した。
- 21 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:04:35 ID:0dep3B6g0
重たい身体を起こして、埃っぽい部屋に掃除機をかけていると、インターフォンが鳴った。
「よっ」
男勝りな、凛と弾けるような声。
化粧もいつもと同じで、少し濃い。
高校の頃のノーメイクを見慣れていたせいで、やはり艶っぽいこの顔にはまだ慣れない。
スキニーパンツにノースリーブのブラウス。
この時期の講義室に行けば十人は見つかりそうな格好だ。
ぼくはまじまじと彼女の服装を見る自分に気付いたが、既にツンは不機嫌そうに頬を膨らませていた。
- 22 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:05:33 ID:0dep3B6g0
「なによ、結構元気そうじゃない」
「はぁ、お陰様で」
「何がお陰様よ。心配して損した」
本当に、ここまで体調を持ち直したのはツンのお陰だ。
ツンが来ることを考えて、この小汚い部屋を少しでも綺麗にしようとするうちに、不快な吐き気は収まった。
目の周りと、頭が痛いのは治らないけれど、それは多分寝不足によるものだろう。
ここ半年ほどずっと不規則な生活が続いているし、こればかりはもうどうしようもない。
- 23 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:06:28 ID:0dep3B6g0
昨夜独男に出したお茶を出すのは少し憚られた。
台所でもたついていると、ツンは提げていたレジ袋からペットボトルのジュースを二本取り出した。
「どうせ冷蔵庫の中すっからかんなんでしょ? 飲み物くらい常備しときなさいよ」
ずけずけとものをいうタイプの彼女だが、今はこういう大きなお世話手前の親切がありがたい。
結局アイスは買って来なかったようだけれど、そこまで望むのは横柄というものだろう。
- 24 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:08:34 ID:0dep3B6g0
それから一時間弱、大学の授業や、彼女のサークルの人間関係の愚痴を聞いた。
ぼくはそれほど授業以外の活動に積極的に参加するタイプでもなく、分かりやすく言えば学祭の日を休校日とみなすような学生なのだが、
それとは正反対の彼女にとって、大学とはいくら身体があっても足りない多忙な場所なのだろう。
ぼくも多忙といえば多忙なのだけれど、彼女とそれとは違う。
交友の少ないぼくは過去問を手に入れるのもやっとで、自覚するレベルの要領の悪さも相俟って、大学に入学してからというもの、忙しくなかった時期の方が遥かに少ない。
尤も、中学高校の頃と比べれば、上手くやっているほうだと思うけれど。
- 25 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:09:54 ID:0dep3B6g0
ツンはぼくのそういった悩みを等しく背負う環境に身を置いているにもかかわらず、
テストや課題も難なくこなし、更に自らタスクを課すことによって、ぼくとはまったく異なる多忙の場に身を置いている。
こうしてツンの愚痴を聞くことは多々あるが、その大半は前衛的なスケジュール管理が災いしていることが多く、
また、本人もそれを重々承知しているので、ぼくとしては適当に相槌を打つしかない。
愚痴を吐く人間が求めているのは建設的な改善策ではなく、ただ話を聞いてくれるサンドバックなのだという話はよく聞くけれど、
こうして実際に自分が聞く側に回ってみると、たまったものじゃないというのが正直な感想。
- 26 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:11:03 ID:0dep3B6g0
話の時系列はあちらこちらの飛び交い、しまいには関係の無い昔話。
独男と同様、中学からの付き合い(話すようになったのは大学に入ってからだが)であるツンから見た教室は、
ぼくがいた教室とは随分と雰囲気が違っていて、同じクラスだったこともあるのに、そのようなギャップが生まれることにぼくは少し胸が痛くなった。
ぼくは少し迷ったけれど、昨夜独男がこの部屋を訪れたことを話した。
彼がしでかしたことを伏せて。
「独男って……宇津田?」
「うん」
ツンは独男の名前を出しただけで、露骨に嫌な顔をした。
- 27 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:12:47 ID:0dep3B6g0
不機嫌なんて生易しいものではなく、宇津田独男という存在を、
そしてその名を口にしたぼくをタブー視するような、忌々しげな表情。
「あいつの連絡先なんて知ってたんだ。意外」
「中学の時は独男しか話し相手いなかったし」
そこまで言って、ぼくはまた自分の軽薄な態度を胸の中で詰った。
ぼくら二人の地獄を知っていながら、当時何をするでもなく、完全に無関係な場所にいた彼女からすれば、
今更になってそれを想起するような言葉はタブーにだってなるだろう。
配慮が足りなかったと思う。
- 28 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:13:50 ID:0dep3B6g0
それは本心だけれど、同時に、後ろめたさに苛まれるならばそうなればいいと、
当てつけのような独りよがりな感情があったことも、否定出来ない。
ぼくらの間に、暫し気まずい空気が流れた。
「それにしたって高校の時は全然話したりしてなかったじゃない」
「まぁ、学校の中では」
「外では話してたの?」
「帰り道に少し話す程度、だったけどね」
「ふうん」
興味が無いわけではないが、それ以上踏み込めない。
そんな感情が、文字通り顔に書いてあるみたいだ。
- 29 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:15:40 ID:0dep3B6g0
何か言いかけて飲み込んだ彼女の所作に、
彼女なりのパーソナルスペースの見極め方を垣間見た気がする。
無理やり会話のレールを捻じ曲げたぼくたちは、
夏休みの予定などについて、ああだこうだとお互いに難癖をつけたり、羨ましがったりした。
それはぎこちないものでは無かったけれど、昨夜のことを誰かと共有したいぼくにとっては、どこかむず痒い。
そんなぼくの思いを知ってか知らずか、ツンが切り出した。
「昨日、宇津田と何話したの?」
好奇心が上回ったか、あるいはぼくの態度がじれったかったか。
- 30 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:17:06 ID:0dep3B6g0
彼女の感情の機微について、色んなことが考えられるけれど、
そうやって頭を使うわりに、実際に聞かれた時の心づもりは出来ていなかったようで、
ぼくは自分の心臓が一際激しく脈打つのを感じることが出来た。
打ち明けるか。否、有り得ない。
昨夜のことを自分一人で抱えていられるほど、ぼくは強くない。
それでも、誰かに吹聴するくらいならこのまま口を閉じてどこかに身を投げたほうがましだ。
百歩譲って誰かに話すにしても、当時のぼくらのことを知っている人間にだけは話したくない。
結局のところ自分がどうしたいのか、何一つ整理がついていなくて、自分自身に、落胆せざるを得ない。
- 31 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:18:46 ID:0dep3B6g0
ツンが買ってきたサイダーをグラスになみなみ注いで、一気に飲み干した。
呑気症のような気持ち悪さをぐっと堪えて、ぼくはなんでもないような顔を取り繕って。
「世間話だお。学校辞めてからどうしてたかとか」
「へえ、で、あいつ今何してるの?」
「深くは聞かなかったけど、工場で働いてるらしいお」
まったくのでたらめだ。
「普通に食べてはいけてんのね。良かった」
「だお。あいつ、高そうな車買ってたし、それなりに上手くやってるんじゃないかな」
でたらめの嘘のの直後に、尤もらしい嘘を混じえるやり口に嫌なこなれ感が垣間見えて、自分が矮小な存在に思えた。
- 32 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:19:51 ID:0dep3B6g0
「ああ、あと」
それを自覚していながら――
「津出は元気か? って言ってたから、変わりなくやってるって言っておいたお」
嘘に嘘を上塗りして、ぼくは素知らぬ顔をする。
「そっか」ツンは肩を竦めて。「ならいいや」
ツンは独男と同じように、唐突に立ち上がり、別れの挨拶もおざなりに部屋を去った。
「あんたってさ、嘘つく時鼻が膨らむわよね」
それが彼女の残した去り際の言葉だった。
- 33 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:21:03 ID:0dep3B6g0
入り組んだ山道。車を走らせること約三十分。
山の中腹あたりに、駐車場がある。
そこに車を停めて、更に歩くと心霊スポットとして有名な滝があるのだが、
夏休みにも入っていないこの時期の真っ昼間。
俺以外に人はいなかった。
用があるのは滝ではなく、獣道から更に逸れた手頃な場所。
具体的に言うならば、人を埋めるための穴を掘るのに苦労しない程度に土が柔らかい場所。
適度に草木が生い茂っていれば尚良し。
- 34 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:22:25 ID:0dep3B6g0
駐車場に停めた車のトランクを開けて、中の麻袋を台車に載せる。
人間一人分の大きさの麻袋を無理に載せたものだから、両端が地面に擦れる。
人に見られれば当然不味いのだが、どの道俺が警察に捕まるのは時間の問題なので、一周回って落ち着いていた。
自分でも不気味なくらいに。
台車を押し、凹凸の激しい獣道を歩く。時折台車ごと身体を持っていかれそうになる。
運動など、この二十年間ろくにした試しがないので、この夏の暑さも相俟って、本当に倒れてしまいそうだ。
今更社会的な立場を失う恐怖などないが、山の中で倒れているのを発見され、そのまま御用となってはあまりに間抜け過ぎるだろう。
それにどうせ法の元に裁かれるのならば、やりたいことを全てやり終えてからがいい。
「暑いな……」
不意に口から零れた。
- 35 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:23:54 ID:0dep3B6g0
散々虐げられても、後ろ指を指されても、どれだけ孤立して胸を痛めようと、初めて人を殺した瞬間すらも、生きた心地がしなかった。
それが今更になって、こんな何の変哲もない夏の暑さに、自分が生きている実感を見出すとは、皮肉な話だ。
獣道から逸れて二十分ほど歩いて、ようやく御誂え向きな場所を見つけた。
麻袋の紐を解き、中身を地面に転がす。
血に塗れた顔面。半開きの目と口が間抜けだ。
生前のこいつからは考えられない表情だ。
致命傷となった首の切り傷から噴き出した血は既に固まって、
どす黒い血で固められたこいつの顔が、人間には見えなかった。
尤も、既に人間ではないのだが……
- 36 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:24:56 ID:0dep3B6g0
「なあ諸本」
この肉塊の生前の個体を表す名前を呼び、俺は黒く染まった死体の胸ぐらを掴む。
「お前さ、自分が死ぬかもしれないなんて、微塵も考えたことなかったろ。そんな顔してるぜ」
今更死体に何を言っても、返ってくる答えなどないというのに。
それを知りつつも、俺は諸本に語りかけるのを止められなかった。
「俺は中学三年間、毎日毎日お前らに殺されるんじゃないかって、本気で思ってたよ」
物言わぬな亡骸の顔面に、一発。
あの時一発も返せなかった拳を捩じ込む。
- 37 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:26:05 ID:0dep3B6g0
拳骨が肉にめり込む感触。殴打音。飛び散る血。
「こんなもんだったんだな。抵抗出来ない奴の顔面を思い切りぶん殴るのって」
全てが、不愉快だ。
「お前らは、なんであんなに楽しそうに、こんな胸糞悪いことが出来たんだ! 答えろ!」
諸本は、何も答えない。
一瞬で、自分の頭に血が昇るのが解った。
それを自覚しつつも、衝動のような怒りが止められない。
怒り狂う自分と、それを見下す自分が同時に、俺の中にいる。
気付くと俺は、昨夜こいつを刺したナイフを取り出して、ひたすら顔面を刺し続けていた。
- 38 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:26:53 ID:0dep3B6g0
「答えろよ! 答えろっつってんだろうが!」
何度も何度も突き刺して、刀身から柄を介して掌に伝わる感触は不愉快。
目に映るもの、感じるものの全てが癇に障る。
怒りを止められる気がしない。最早、止める気も無かった。
刺せば刺すだけ、自分が沼に沈んでゆくような気がした。
もう片足どころじゃない。どっぷりと腰まで浸かってしまっている。
足掻けば足掻くだけ沈むのが早いなら、いっそ何も考えず、衝動のまま振る舞う方が楽だ。
もっと、黒く塗りつぶせ。もっと黒く――
黒く――
- 39 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:29:24 ID:0dep3B6g0
━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━
━━━━━
「なあ俺たちさ……生きてる価値あんのかな」
全身を熱を持って、関節の節々が痛む。
特に脇腹の痛みが酷い。もしかしたら、折れているのかもしれない。
起き上がるのもままならないが、触診する気すら起きなかった。
俺と同じくらい滅多打ちにされた内藤は、壁に背を預けて、肩で息をしている。
俺と内藤の惨状で違いを挙げるとするならば、顔面を殴られているか否か。
内藤の家は母子家庭だが、一応母親がいる。
俺はというと、両親は俺がガキの頃に蒸発して、それ以来、耄碌した祖母と二人暮らしだ。
近所の気のいい爺婆の温情もあって、なんとか今まで生きてきたが、
”こういうこと”までは、ご近所さんもケアしてくれないらしい。
- 40 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:30:57 ID:0dep3B6g0
とにかく、両親がいない俺にどんな怪我を負わせようと、
面倒くさいことにはならないというのが、あいつらの共通の見解のようだ。
常に青あざがある自分の顔面を鏡で見る度に、泣きたくなる。
「もう……いやだお。しんどいお」
内藤は俺の目も憚らずに、鼻を啜りながら泣いている。
全身が痛いし、ここまでされて何一つ仕返しも出来ない自分が惨めで情けなかったが、
俺はぎりぎりのところで踏み留まる自分を、矮小な矜持で誇っていた。
- 41 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:32:12 ID:0dep3B6g0
俺は、俺だけはこうはならない。
どれだけ虐げられても、嬲られても、絶対に涙だけは流さない。
そしてこの三年間の地獄を生き抜いて、真っ当に生きるのだ。
そんな決意を抱いて、ひたすら虎視眈々と磨き続けていたのに、
未だに情けない世迷い言が尽きない自分に腹が立つ。
「内藤。お前、こないだの模試の点数何点だった? 三〇〇点満点のやつ」
内藤の荒い呼吸が整うまで、少し時間がかかった。
「二八〇……」
内藤の点数を聞いて、少しだけ痛みが和らいだ。
「やりぃ、俺二九一点」
「独男はやっぱり頭いいお。天才だお」
「お前もな」
模試の点数を自慢することで、ようやく保たれる尊厳。
スポーツが出来れば。女子と自然に話せたら。顔面が整っていれば。
俺たちはこんな目には遭っていなかっただろう。
- 42 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:33:39 ID:0dep3B6g0
今更、自分に無いものを並べ立てて悔やむ気は無い。
俺たちには、最初からこれしかなかったのだ。
自慢ではないが、俺たちの家庭の収入は、この中学の生徒の親の平均収入の半分にも満たないだろう。
こうなると、いよいよ先行きは暗い。
無いもの尽くしの俺たちみたいな人間が、
平気な顔をして人を虐げる奴等を見返すには、
勉強しかないのだ。
- 43 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:34:49 ID:0dep3B6g0
「内藤、お前さ、K高に行くだろ?」
「うん。あそこは公立だし、偏差値も高いし、そのつもりだお」
「絶対受かるぞ」
内藤にかけたその言葉は、不思議と自分の胸にも、すっと染みた。
内藤は少し間を置いて、うんと答えた。
「
絶対……絶対受かる。そんで奨学金借りて、一流の大学に入って、一流の大手企業に入る。あいつらみたいな人間を、思い切り顎で使ってやるんだ」
内藤は弱々しくも、確かに頷いた。
その所作は、今にも消えてしまいそうな灯火を思わせる。が、顔は険しかった。
きっとこいつも、俺と同じだ。だから、そうでなきゃならない。
絶対にこの悔しさだけは忘れちゃならない。
- 44 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:35:44 ID:0dep3B6g0
それなのに、西陽に照らされる内藤は今にも消えてしまいそうで、それを見ていると、
なぜか目の奥が熱くなった。
目と鼻が繋がっているみたいで、
まとめてぐちゃぐちゃで、
痛かった。
視界の先、滲んだ内藤の顔は丸めたちり紙みたいにくしゃくしゃだ。
やがて獣の鳴き声のような、内藤の間抜けな声が教室に木霊して――
俺は膝を抱え、誰にも見られないように、泣いた。
- 45 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:37:19 ID:0dep3B6g0
諸本の死体を埋め終えた俺は山を下り、
ガソリンを満タンまで補給した。
多分、この車で給油するのもこれで最後だろう。
根拠は無いが、そう思った。
一応、一週間分の着替えを買い込んだ。
その他諸々の生活必需品も揃えて、残金は約二万円。
通帳の残高は三桁。正真正銘、俺の全財産だ。
いくら買い込んだとはいえ、車の中の俺の荷物は、
少し大きめのキャリーバッグならばすっぽり収まってしまうのだろう。
- 46 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:38:56 ID:0dep3B6g0
誰もがかけがえのない体験。
唯一無二の経験を踏んで、死ぬまでを生きる。
いいとこ育ちのボンボンも、
汚らしいヨイトマケも、
六畳一間に引きこもるアウトランダーも。
誰もが、かけがえのない人生を、生きる。
その中で人としての価値を定めるものといえば、死に際の荷物の重さだろう。
恋人もいない。職も無い。
今更になって思い浮かぶ顔といえば、中学時代俺を玩具にしやがった面々の、下卑た笑み。
キャリーバックに収まる人生が、俺のような人間にはちょうどいい。
- 47 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:40:45 ID:0dep3B6g0
ファミレスで肉を食べた。
肉という無骨な表現がぴったりな、塊のヒレステーキだ。
肉を食べるたびに、思うことがある。
昔から、スプラッター映画を見て肉が食えなくなったと宣う手合の気持ちは理解出来なかった。
内藤が確か、そんなクチだ。
あいつの気持ちがさっぱり解らない俺は、
その時冗談交じりにしつこくからかった(その時観ていた映画は確か、フレディVSジェイソン)。
俺はあの時、こんな陳腐なゴア演出を真に受けるなんてどうかしてると思っていたが、問題はそこではなかったらしい。
俺が映画を観た後でも平気で肉を食えるのは、
フレディ・クルーガーの鉤爪が安っぽかったからでも、
ジェイソン・ボーヒーズの殺し方が味気なかったからでもなく、
単に、共感性に欠けていただけなのだ。
- 48 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:42:03 ID:0dep3B6g0
諸本の頬に突き立てたナイフを、肉の中ででたらめにかき回す。
その感触を思い出しながら食うヒレステーキの味は、
いつも食う海外産牛肉と何ら変わらなかった。
怒りを自分勝手に吐き出した後には、こんな取り留めのないことを考えてしまう程度に、虚無感に襲われる。
ぽっかりと空いたものを埋めるように、俺はビールを二杯飲んだ。
酒なんて、一度も美味いと感じたこともないのに。
- 49 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 03:42:47 ID:0dep3B6g0
少し、気が大きくなっているのが自分でも解った。
この後白昼堂々飲酒運転をすること。そしてこれから自分がやろうとしていることを考えれば、
独りよがりな全能感すら湧いてくる。
一人を殺してしまって、吹っ切れた。
俺は当時の虐めの主犯格三人を、全員殺す。
それが俺の使命だとすら思えた。
塵芥のような人生の中、僅かに差した光だった。
- 53 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 22:19:15 ID:7oeOYwLk0
体調が優れない。
ツンが家にいるうちはそうでもなかったけれど、一人になってしまうと、
どうしても頭の隅のほうで、黒ずんだナイフがちらつく。
夏バテ、寝不足、その他諸々のせいにするのは簡単だけれど、根本的な解決には至らない。
やはり、警察に通報するべきだったのか。ツンに相談するべきだったのか。
今ぼくを苛むものが、社会的禁忌を見過ごしているがゆえの罪悪感だったとして――
ぼくが独男の罪業を白日の下に晒した時、同じようにぼくを苛むものは、友を切り捨てた罪悪感なのだろう。
どのみち、ぼくがこのように思い悩むことは、彼がぼくの家を訪ねた時点で、決定事項だったのだ。
ツンに買ってきてもらったジュースが空になるまで、ぼくは何をするでもなく玄関を眺めていた。
今にも独男がずかずかと上がり込んできそうだ。
- 54 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:20:44 ID:7oeOYwLk0
- 思えば、中学の時もそうだった。
母子家庭のぼくの家に、母親がいることは稀だった。
独男の家にはいつも祖母がいたため、二人で遊ぶとなると決まってぼくの家だった。
家にぼくしかいないと決めつけているので、彼に遠慮はない。たまに母親がいる日に、
彼がノックもせずに家に上がり込むと、互いにぎょっとした顔をして見合わせたものだ。
二人揃って、特別なことは何もしない。
部屋で漫画を読むか、映画を観るか。
独男は自分で買った雑誌類もぼくの部屋に置いていくので、今でも実家の自室には漫画本が溢れかえっている。
毎晩渡される夕食代を浮かせて、たまに二人で深夜のコンビニに行き、
缶チューハイやビール、安いウイスキー。そして濃味の菓子を買い込む。
悪いことをしたかったというよりは、憧れだった。
- 55 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:21:47 ID:7oeOYwLk0
中学は、背伸びをして悪いことをするのがかっこいい場所だったから。
あの時のぼく達は、自身が胸に抱いたエキサイティングな大人というアイドル的偶像ではなく、
それらを模倣し悦に入ることで同級生の評価を獲得する大人のなり損ない達に、憧れていたのだ。
今にして思えば、一種の変身願望のようなもの。
それでも何者にもなれないぼく達にとってあの時の酒の味はただの苦水だった。
グラスに湛えた琥珀色が、窓から差し込む朝焼けの光に溶け込む頃。
酔い潰れた独男の傍らで、ぼくは膝に顔を埋めて、泣いた。
- 56 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:23:00 ID:7oeOYwLk0
独男と連絡を取らなくなってから、ぼくは酒を飲まなくなった。
その代わりに、タバコを覚えた。
マルメンという銘柄のセンスも、いかにも背伸びをした大学生。
あの頃と何も変わってない。
ただ、虐められなくなっただけだ。
周りだけが大人になっていった。
化粧っ気の無かったツンは毎日濃いめの化粧をして、
量産型大学生a.k.a.哲学的ゾンビ達に上手く溶け込んだ。
- 57 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:24:28 ID:7oeOYwLk0
-
知っているかい、独男。
ぼくらを虐めていた埴谷は、実家の板金屋に就職をしたらしい。
今日日大学四年生なんて額面二十万とちょっとで買い叩かれる時代だ。
そんな中、愛した女とその子供二人を食わせて、
趣味の釣りを楽しむ充実した人生を謳歌しているんだ。
ぼくらを殴った拳の痣も薄くなって、若さゆえの過ちの延長に出来た子供を抱いて、
本物の愛を知った気でいるんだろう。
ちょうど今頃熱に浮かされた不良時代の真っ只中にいる後輩諸々を指して、
昔は自分もああだった、こうだったとか。
最近の奴等は根性がねじ曲がってる。
俺の時はそうじゃなかったとか。
四十度の酒をかっ喰らいながら自慢げに語るんだ。
- 58 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:26:15 ID:7oeOYwLk0
ぼくらを虐めていた高岡は、サッカーが得意だっただろう?
高校三年間を女子の黄色い声援の中で過ごしたあいつはそのまま推薦でそこそこの大学に入学したらしい。
今ではクラブで毎夜派手に遊んでいると聞く。
長期休みにはサークルの同類と共に学生旅行だ。
あいつの家は金持ちだったから、
親の脛を齧った盛大な夜遊びもとい大学生のうちにしか出来ないことをやり尽くすには困らないのだろう。
有り余った体力をアルバイトなんかに注ぎ込んで、あいつはきっとしたり顔で言うんだ。
「金が無いなんて甘え。俺は学費も遊ぶ金も全部自分で賄っている。
人間、やろうと思えばなんだって出来るし、
その可能性の芽を潰すのは環境なんかではなく、他でもない自分自身だ」
なんてね。
絶対に言うさ。なんならぼくは、彼がそんな世迷い言を吐くであろう時期まで完璧に予測出来る。
就活が始まる手前、誰もがこぞって就活のセミナーなんかを受け始める頃に。
- 59 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:27:36 ID:7oeOYwLk0
ぼくらを虐めていた諸本は、指定校推薦であのW大に進学したよ。
軽音楽のサークルでは高岡や埴谷との交流なんかもちらつかせて、
夜遊びに明け暮れて、好き勝手やってるらしい。
ぼくは断言するが、大学の軽音サークルなんかで小動物みたいな優男の皮を被って、
下半身の赴くままに過ごす奴は例外なくクズだ。
それに靡く女も女だ。
ろくに弾けもしないくせに、重いレスポールなんかを片手に、したり顔でインスタグラム用の写真撮影。
どうせスタジオなんてあいつらの乱交場所だ。
下半身お化け達が寄り集まって、楽器を弾けない連中に、背負ったギターを見せつけて、
真剣にやってる連中を余所に言うんだ。
「いやぁ、僕らはエンジョイ勢なんでw」
- 60 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:29:42 ID:7oeOYwLk0
そんな流行の最先端。
世間の風潮の扇動者。
学歴と似非コミュニケーション能力のパワープレイで乗り切る就活。
頭空っぽな女子大生相手に、社員証を見せつけてこじ開ける股ぐらの観音様。
そんな世間のヒーロー様の卵に、諸本はなったんだ。
バイブルは太宰か? 寺山修司か?
SNSに載せる希釈度千倍の言葉。さながら言葉のペテン師。
いつの間にかメインストリームになった自称マイノリティの代弁者。
なぁ独男、ぼくは解ったよ。
どうしてぼくがこんなにも吐きそうなのか。
ぼくは今、きっと君に負い目を感じている。
中学三年間の傷がぶり返しているんだ。心が叫びたがってるんだ。
- 61 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:31:07 ID:7oeOYwLk0
ぼくにとってヒーローは、代弁者は……
坊屋春道でもない、青井葦人でもない、立花瀧でもない。
ふざけんな!
あんなキラキラしたご都合主義の権化達を使って、ぼく達の中に切り込んだ気でいるんじゃねぇよ!
自分勝手に傷をぶり返して、抱いたルサンチマンに突き動かされて、
トチ狂ってしまった君こそが、ぼくにとってのヒーローだったんだ!
ぼくにほんの少しでもトチ狂った勇気があったなら、ヒーローになれたのかもしれない。
野放しにされた犬畜生に独りよがりな天誅を。
それが出来たのはぼくと独男だけ。
独男がその罪業を被ったから、ぼくはこうしてまっさらな経歴のまま、
のうのうと生きることが出来るのだ。
- 62 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:32:04 ID:7oeOYwLk0
だってそうだろう。
じくじくと痛み続ける傷が、彼らの死によって癒えるのだから、
ぼくは、彼のように人を殺さずに済む。
なぁ今世紀最大のヒーロー。
ぼくの唯一無二の友人よ。
君から見てぼくは一体なんなのだろう。
解らないけど、予想は出来る。
そっくりそのまま自分に置き換えてみればいいだけだから。
そのようにして、何もしなかった独男を夢想する。それは、過去の自分の残滓に見えた。
- 63 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:33:18 ID:7oeOYwLk0
ああ、なるほど……
だから君は、殺したという事実だけを残してぼくの元を去ったんだ。
これはきっと、過去の傷をかなぐり捨てる為の儀式だ。
そんな自分勝手な通過儀礼の最中、過去の被虐者としての自分を見つめつづけるなんて、
到底不可能な話だろう。
だったらぼくに出来ること、ヒーローとしてのお株を奪われた凡人に残された道は一つだろう。
ぼくは独男に電話をかけた。数度の呼び出し音の後、メッセージを促された。
「もしもし、内藤だけど……」
- 64 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:34:51 ID:7oeOYwLk0
ぼくさ、色々考えてみたんだけれど、やっぱり通報しないよ。
それがぼくにとっても世間にとっても、お前にとっても良くないことだとしても。
だって、今更になって警察なんかに頼って裁定者を気取ってなんになるってんだ。
今更になって偉そうに社会倫理なんかを説いて、お前に自首を促してなんになるってんだ。
ぐずついて、怖気づいて、躊躇って、尻込みして、
結局どこまで行ってもあの時のままだったぼくに代わって、
石を投げてくれたお前を、裏切ることなんて出来る筈がないんだ。
でもさ独男――
ぼくはお前と対立しようと思う。
あの時だってそうさ。
ぼくら、虐められたはみ出し者同士だったけれど、
ぼく達はおんなじじゃない、他人同士だったじゃないか。
ぼくはやっぱり、お前がやったこと、これからやろうとしていることは間違ってると思う。
だから止めるんだ。誰の力も借りずに、誰にも邪魔されずに。
どこで飲んだくれてるのかも分からないお前を見つけ出して、引っ叩いてやる。
だって、お前はぼくの――
- 65 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:36:20 ID:7oeOYwLk0
内藤からのメッセージは途中で途切れていた。
俺はそこから先の言葉を知っているから、当然折り返して電話を掛け直すこともしなかった。
運転しながらツイッターを開き「ハイン」というアカウントの直近のツイートを確認する。
ハインというのは、高岡のあだ名だ。
字は忘れたが、はいねという変わった読みの名前だったから、そこからついたものだろう。
ネットリテラシーもクソもない公開アカウントで、ご丁寧に日常のツイートを垂れ流してくれているから、
このアカウントをチェックしておけば、奴の動向はほぼほぼ手に取るように分かる。
高岡がこれから向かうのは、Y市の飲み屋街から一本入ったところにある会員制のナイトクラブ。
このまま車で飛ばせば三十分ほどで先回り出来るだろう。
- 66 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:37:34 ID:7oeOYwLk0
用済みになったスマートフォンを窓から放り投げる。
乾いた破砕音が風を切る音に掻き消されて、
後ろから喧しいクラクションの音が響く。
アクセルを踏み込むと嘶くエンジン。
前を走る軽自動車を追い越すと、
クラクションの音が二つ重なった。
.
- 67 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:38:54 ID:7oeOYwLk0
Y市の会員制ナイトクラブといえば、夜遊び盛んな若者ならば思い浮かべる場所は一つ。
通いつめて、もう常連客の顔は殆ど覚えている。
客として訪れたことは、一度も無いが……
最寄りのコンビニに車を停めて、トランクに積んだ服の中からパーカーを選ぶ。
フードが深いので、顔を隠すにはちょうどいい。
この期に及んで足がつかないように、などとは考えていない。
ただ、直前まで顔を隠しておいた方が、接触に際しては都合がいいだろう。
和柄シャツの上から羽織ったパーカーはちぐはぐだが、
これでも通行人にとって俺は、この街の夜の背景の一部らしい。
- 68 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:41:14 ID:7oeOYwLk0
道すがら漂う酒の臭い。不愉快だ。
道を塞ぐように立ち話をしていた集団を押しのけると、
その中の一人が怒号を上げながら胸ぐらを掴んできた。
威勢のいい金髪の小僧だ。
虚栄心が透けて見える。
きっといい「客」になるだろう。
小僧は自分で掴んだ俺の胸元に視線を落とすなり、舌打ちをしながら後ずさった。
初めて役に立ったな、と独りごちて胸の鳳凰を撫でる。
その筋の者が見れば後ろ指を指すのだろう。だがそれすらどうでもいい。
どうせ何の覚悟も無く彫った刺青だ。
厄除けになるのならば、喜んでそのように使わせてもらうさ。
- 69 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:42:35 ID:7oeOYwLk0
五分ほど歩くと、目的のクラブに着いた。
入り口の黒人スタッフが片言の日本語でIDチェックを促してくる。
パーカーのフードを少し捲くって目元を見せると、黒人はゴミを見るような目で見下してきた。
「ありがとよ」
俺とあいつの間での会話は、これが最初で最後だった。
都合のいいように使われているあいつらでも、
俺のようなプッシャーが何をしているのかくらいは解るらしい。
あいつは、こういう汚れ仕事に甘んじる自分を許せないタチなのだろう。
俺を見下す態度が、そういった良心の残滓によるものなのだとすれば、まだ更生の余地があるだろう。
明日以降顔を合わせることはない。
ないが、どうか、達者で。
- 70 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:44:48 ID:7oeOYwLk0
腹に響くダブステップ。薄暗い照明。
フロアーの熱気に比例して、二階の賑やかしの声も大きくなる。
バーカウンターの一番隅の席が俺の特等席だ。
冷たい壁に背を預けて、茹だるような熱気を遠巻きに眺める時間は、嫌いじゃなかった。
この空間が、自分がクズであることを再認識させてくれるからだ。
俺はクズだが、下で乱痴気騒ぎを起こしている外人共と比べれば幾分かましだ。
そんな風に腕を組んで見下している連中が一番たちが悪いのだ。
つまり、俺のような人間のことである。
- 71 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:45:45 ID:7oeOYwLk0
どの層に属していようが、自身の立ち位置に甘んじていながら同族を貶す輩は、
そうすることでしか自己を保つことが出来ない。
俺がそうだからよく解る。
ここは、そういう連中が集まる場所だ。
本物の馬鹿が、馬鹿のふりをしている風を装って、
結局やることと言えばセックスだの、クスリだの。
踊ってストレスを発散したいのなら、家の庭で好きなだけ踊っていればいい。
刹那的な快楽に酔いしれる、そんな自分に酔いしれてる。
- 72 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:47:22 ID:7oeOYwLk0
マトリョーシカだなんて聞こえは良いが、
俺たちは所詮けつに火がついていることにも気付けない、
どこぞのお山の愚鈍大食な中年のおっさんのようなものだ。
常連の客が俺を見るなりにやつきながら近づいてくるが、
身振りでクスリは持っていないことを伝えると、態とらしく中指を立てる者。
唾を吐き捨てる者。
様々。
粗悪な混ぜもののクスリ如きに、ここまで本気になれるこいつらがある意味羨ましかった。
- 73 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:48:34 ID:7oeOYwLk0
フロアーで一際大きな怒号。
外人のものなので何を言ってるかは分からないが、あいつらが激昂して吐き出すことなど「クソッタレ」以外に無いだろう。
見下ろすと複数人の若い客。その中の一人、いや、二人には見覚えがある。
刈り上げた頭に被さるかつらみたいな白髪後ろから見るとすっきりしているように見えるが、長い前髪は表情の半分を覆っている。
一昔前に流行った髪型だ。
ツイッターやインスタグラムに公開されている写真のまま。
高岡だ――
遠巻きに見たところ、あいつの取り巻きの中の一人が外人のツレに手を出そうとしたらしい。
血気盛んな取り巻きは今にも食ってかかりそうな雰囲気で、高岡の横顔はにやついて、同じ目線でそれを見下していた。
- 74 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:49:30 ID:7oeOYwLk0
細い腕が、不安げに震える肩を抱いている。
抱かれている女にも見覚えがあった。
名前は、津出。
よく覚えている。
中学校という名の地獄は、文字通り全てが俺と内藤の敵だった。
その中でただ一人、三年間徹頭徹尾無関心を貫き通した女。
そして、同じ高校に進学した俺たちに、なんでもないような顔をして声をかけてきた女だ。
津出は高岡に腕を回されながらも、際どく胸元に這い寄る指先をさり気なく躱している。
潔癖ではないが、そういうことに多少の抵抗がある。
その程度。
- 75 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:50:45 ID:7oeOYwLk0
このままいけば酒とこの場の雰囲気に飲まれて、いくところまでいってしまうのだろうと思った。
忙しなく動く彼女の視線が、ここからはっきりと分かった。
その目が俺を捉えるところまで見えていたのに、俺は顔を伏せることが出来なかった。
「……」
フードを目深に被ったまま、その目を見つめる。
どうせお前は、俺のことなんて覚えていないだろう。
高岡を殺しに来た筈なのに、俺の頭の中から奴の存在は消し飛んでしまっていた。
一瞬、ほんの一瞬だが、それを自覚した途端、腸が煮えくり返った。
動悸が激しい。
うなじが焼けそうで、ひどく喉が乾く。
懐に忍ばせたナイフを握りしめて、慎重に息を吐く。
- 76 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:51:36 ID:7oeOYwLk0
気を静めようとしているにもかかわらず、脳裏をよぎるのは苦い記憶ばかりだ。
まるで自分に言い聞かせているみたいだ。
そうでもしないと憎しみが風化してしまうと、
他ならぬ俺自身が認めてしまっているようで、ますます腹が立つ。
ポケットの中で握りしめた殺意は、
息を潜めて目を光らせている。
俺自身すら、捕食の対象となっているような気がした。
- 77 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:52:34 ID:7oeOYwLk0
音に乗れるほど器用な性格でもないが、こういう場所で仕事をしているので、
最低限の身のこなしは弁えている。
地に足をつけて踊っていればどこをどう移動しようと不自然ではない。
そういう場所だから、高岡に近づくのは容易だった。
俺と高岡の背中合わせ。
中学時代を思うと、今の状況は異様だ。
まさかこの陰湿を絵に描いたような男の後ろで自分が踊るとは思わなかった。
一人、また一人、取り巻きが減ってゆく。
それぞれ今夜の枕を見つけては浮き足立って、おめでたい連中だ。
- 78 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:53:32 ID:7oeOYwLk0
何度か津出にそういう雰囲気を持ち込んでも響かなかったのか、
高岡は彼女が自分の腕から離れてバーカンに移るのを引き止めなかった。
やるなら、今がちょうどいい。
足元を見て高岡の踵の位置を確認し、思い切り踏みつけてやる。
ぐらついた高岡の上体に肩をぶつけると、露骨な舌打ちが耳元に。
「気ぃつけろやチビ」
めぼしい枕がいないのが気に入らないらしく、予想通り突っかかってきた。
「ああ?」
フードを更に深く被り、高岡の顎の下から威圧を返してやると、肩を強く掴まれた。
「ちょっと来いや」
- 79 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:54:38 ID:7oeOYwLk0
少しでも俺や内藤への仕打ちを自省する気持ちがあるなら、
この距離で俺だということに気づきそうだが、それらしい素振りはない。
尤も、最初から期待はしてない。
肩を掴む手を振りほどき、逃げる気などないことを手振りで表す。
高岡は今にも殴りかかってきそうだが、
こいつ自体は自ら遊び場で悪目立ちする気はなさそうだ。
その方が、俺にとっても都合がいい。
- 80 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:56:46 ID:7oeOYwLk0
フロアーから出て、細い通路を進む。
照明が頼りない。
フロアーに金をかけているわりには、
こういうところの管理は杜撰らしい。
時折途切れる明かりの隙間に差し込む憎悪が、げろを吐くように零れてしまいそうだ。
「んだよ、こんなところでやろうってのか」
「見窄らしいお前にゃお似合いだろ」
トイレのドアが開く。
俺はパーカーのポケットに手を突っ込み、高岡の背中にぴったり張り付く。
一歩踏み込む。
俺たち以外に、利用者はいない。
それを確認すると同時に、こめかみに衝撃。
- 81 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:58:17 ID:7oeOYwLk0
低く威圧する怒号。
前のめりになるも、鳩尾を何度も殴られる。
「おうこら。面見せろや」
パーカーのフード越しに髪を捕まれ、そのまま持ち上げられる。
腹に鉛を詰め込まれたように苦しい。
顔面に吐いてやれたら、さぞ愉快だろう。
痛みはある。
思い切り殴られたのだから、本来ならば身悶えするほど苦しい筈だ。
感情が、自覚し得る領域に留まったまま昂っている。
「お前……宇津田か?」
目を見開いた高岡を見つめる。
なぜか笑みが零れた。
さぞ不気味だろう。少なくとも俺にはそう見える。
- 82 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:59:08 ID:7oeOYwLk0
明らかな焦燥を貼り付けた高岡の顔に唾を吐きつけてやった。
「おせぇんだよ。気付くのが」
ポケットの中で握りしめたナイフを、真っ直ぐ。
ちょうど高岡の股間目掛けて突き刺す。
柄に伝わる感触からは、睾丸を刺したのか陰茎を刺したのかは判然としない。
「うわああああああああ!?」
だが少なくとも戦意を喪失させるだけの痛みは与えられただろう。
間を置かずに抜いたナイフから血が尾を引く。
左手を力いっぱい握り、目の奥に抉りこませるくらいに――
- 83 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 22:59:59 ID:7oeOYwLk0
思い切り振り抜いた。
殴打音が小気味良い。
拳は痛いが、綺麗に眼底まで殴打が届くのは痛快だ。
「嘘だろ……」
「嘘じゃねえよ。俺だって何度も現実を疑ったさ。三階から飛び降りるよう強いられた時も、女子の前でズリセンこかされた時もな」
「ふざけんなよ……うぜぇ……いかれてやがる……」
「ああ、いかれてやがるな。今本当に胸糞悪いよ。何が楽しいんだこんなことして。お前ら全員イカれてるよ」
苦痛に悶ながら便所の床を這う高岡を見下しても、優越感は微塵も沸かなかった。
同時に罪悪感に苛まれることもない。
- 84 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:01:04 ID:7oeOYwLk0
ただ、ひたすらに虚無だ。
何も感じない自分が逆に薄ら寒い。
胸糞悪い。
諸本を殺した時にはあった焦燥も、二人目となればすっかり消え失せてしまって、
もうどうんなものだったのかすら思い出せない。
楽に殺すつもりなどないが、それも嗜虐心からくるものではなく、
自分が受けた痛みを一括で返してやるという使命感に近い。
「これからお前を痛めつけるけど、俺は全く悪いと思ってないから、手を止めるつもりもない。
そうだな……ちょうど野菜の下拵えをするような感覚だ。そんな調子で、淡々とお前を殺そうと思う。
だから、そのつもりでいてくれ」
- 85 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:01:55 ID:7oeOYwLk0
絶望と苦悶が入り混じった表情。
何か言いかけていたが、声を発する前にナイフの柄を喉に叩きつけてしまったので、高岡の主張を聞き届けることは出来なかった。
声にならない声と荒い吐息。嗚咽。
全て耳障りだ。
馬乗りになり、二の腕を思い切り突き刺す。二回。
両腕から流れる血がたちまち便所の床を染めた。
胴体だけの抵抗で俺の身体を引きはがせるだけのウエイトの差は無い。
ここからは正真正銘、一方的な虐殺だ。
オイルライターを着火し、高岡にも分かるように、ゆっくりその火を目に近づける。
咳き込み、血を吐きながら何か訴えているが、どうでもいい。
固く閉じた右瞼ごと、火で炙ってやる。
- 86 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:02:38 ID:7oeOYwLk0
身体が痙攣する。
刺された両腕で俺を引き剥がそうとするが、
左腕をもう一度刺してやると一度大きく跳ね上がって大人しくなった。
肉と髪が焦げる臭いが便所に充満し、吐き気がこみ上げてくる。
顔の半分を覆っていた前髪は粗方燃え尽き、もうその右目が開くことはない。
焼け焦げた睫毛がぴったりと、糊のように爛れた瞼に張り付いている。
脇腹を掠めるように三回突き刺す。
次第に弱まる抵抗。反応は少ないが、むしろ都合がいい。
- 87 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:03:50 ID:7oeOYwLk0
明らかな衰弱を見せる高岡を拘束する意味もないので、高岡の左腕を掴んで床に座り込む。
「なぁ高岡……返事はしなくていい。というか出来ないだろうからそのまま聞いてくれ。
俺な、今からお前を?こうと思う。全裸にひん剥くとか、そういうんじゃねえ。
文字通り、お前をこれで剥くんだ」
振りほどこうとした手を強く握り、跳ねる胴体を思い切り蹴り上げる。
何度も、何度も、肋骨がへし折れるまで。
ちょうど林檎の皮を剥くように刃を入れてやろうと思ったが、抵抗が思ったよりも激しい。
ごぼうの笹切りの要領で薄く刃を入れてやると、
潰れた喉の僅かな隙間から漏れた声が、笛のような音色を上げる。
- 88 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:04:46 ID:7oeOYwLk0
何度も刃を入れるうちに誤って自分の指も切ってしまったが、不思議と痛みは感じなかった。
俺は人体模型のような、筋繊維を露出した肉が覗くものだと思っていたが、
当然手元は血に染まっていて、それを確認することは敵わなかった。
やがて、抵抗が止んだ。
死んだのではない。恐らく痛みで気を失ったのだろう。
「塩水でも持ってきておけばよかったな」
血まみれになった自分の服を見て、俺の中で何かが急速に萎えてゆくのが分かった。
煙草が吸いたい。そう思った。
既に人としての形相を保てていない高岡の顔を見下ろし、唾を吐き捨てる。
- 89 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:06:49 ID:7oeOYwLk0
このまま放っておけば確実に死ぬだろう。
俺はとどめを刺す前から、高岡の命が終わる瞬間はあっけなく、
それを見て自分が萎えてしまうのを鮮明にイメージすることが出来た。
だが俺は、高岡の細い首の付け根にナイフの刃をそっと刺し込んだ。
ここなら幾分か刃が通りやすい。諸本を殺した時に学んだ
突き立てたナイフをそのまま胸に。
すぐに骨で刃が止まったので、そのまま深く刺し込んで柄を回すと、大量の血が噴きこぼれてきた。
パーカーを脱ぎ捨て、ナイフをそれで丸めて高岡の亡骸の胸に放り投げた。
洗面台に水を張り、シャツとジーンズについた血を濯ぐ。
完全には取れなかったが、暗い中これに気付けるものはそういないだろう。
いたとしても、その場を離れられれば問題ない。
- 90 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:07:45 ID:7oeOYwLk0
諸本を殺した時点で、今後の生活の全てを諦めている。
ずぶ濡れになった衣類を絞って着直したと同時にドアが開いた。
それだけを警戒していたので、反応が遅れることは無かった。
俺はドアを開けた男の顔も見ずに身を屈め、ドアの隙間を潜り抜けた。
全速力で通路を走る。
後ろから悲鳴が聞こえた。
何がどうなったのかなんて、この世界の誰よりも知っているのだ。
振り返る理由など、ない。
- 91 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:08:35 ID:7oeOYwLk0
フロアーの前を突っ切ったところで、曲がり角から出てきた女とぶつかった。
「あっ、あんた」
顔を見ずとも誰か分かった。津出だ。
自然と舌打ちが漏れた。振り払うように首を振りながら、
走るスピードを高める。
よく通る声が後ろから聞こえる。
何を言っているのかまでは解らなかった。
宇津田、と俺の名を呼んでいることだけは、はっきりと分かった。
- 92 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:13:18 ID:7oeOYwLk0
とうとうこの時が来てしまった。
それはぼくが思っていたよりずっと早くて、自分の認識の甘さに腹が立った。
朝食代わりのウイダーインゼリーを飲みながら三日ぶりに点けたテレビに、一昨日見たばかりの顔が映っている。
姓は宇津田。名は独男。
昨夜、Y市のナイトクラブにて高岡を殺害した容疑で指名手配。
こうして実名が公開されるまでにかかった時間は一日にも満たない。
異例の速さだ。
理由としては稀に見る残忍な犯行によるところが大きいだろう。
ニュースでは刺殺としか語られていなかったが、Y市のまちBBSを検索するとその話題でもちきりだった。
- 93 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:15:36 ID:7oeOYwLk0
犯人は被害者の同級生。
顔面を焼かれ、全身の皮を刃物で綺麗に剥かれて、皮の部分は便器に突っ込まれていた。
そんなアホな、とぼくは溜息を吐いた。
目眩がする。
場所はクラブだ。恐らく昨夜も大勢の人で賑わっていたことだろう。
トイレが犯行があったとしても、人間の全身の皮を剥ぐまでの間にトイレを利用する者がいなかったとは考えにくい。
その間の利用者を全員殺したとなればこの犯行も頷けるが、調べる限り被害者は高岡だけだ。
それに近しい犯行があったとしても、掲示板に書かれていることは誇張されたものだろう。
ツイッターを見る。
フォローしているのは大学で知り合った人間ばかりだが、多分ツンのアカウントから遡ればすぐに中学の同級生に辿り着くだろう。
- 94 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:16:15 ID:7oeOYwLk0
だがツンの直近のツイートを見て、情報収集の手はぴたりと止まった。
Y市のクラブに行くという旨のツイートに数件のリプライがついている。
最初の二件はそれを羨む声だったが、残りは事件の報せを受けて彼女の身を案じるものだった。
少し悩んだが、ツンに電話することにした。
歯を磨いて、身支度を整えて、ようやく電話をかける決心がついた。
数回の着信音。
ワンコールごとに、掌が汗で滲む。
「……もしもし」
- 95 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:17:14 ID:7oeOYwLk0
六回目の呼び出し音の後にツンの声。
第一声を聞いただけで、消沈していることが窺える。
その声を聞いた途端、ぼくは何を言えばいいのか分からなくなった。
「大丈夫かお?」
「……へーき」
辛かった。怖かった。とでも言われればまだ何か言いようがあるのに、
それだけ言って黙り込むものだから、沈黙だけが重なる。
「宇津田がいたわ」
「クラブに?」
「……うん」
「……何か、話した?」
「いや……」
- 96 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:18:34 ID:7oeOYwLk0
口籠る。その理由が判然としなかったから、多分ぼくには言いづらいことを話したのだろうと思ったが、
直後の言葉を聞いて、理由は分かった。
「多分あいつが高岡くんを殺した後になるのかな……そこでぶつかったわ。呼んだけどそのまま行っちゃったから」
「そうかお」
「復讐、よね」
ぼくらにとって高岡は糞以下の蛆虫だが、ツンにとってはクラスメイトの一人。
彼の死を、実際に自分で口にするのは憚られるのだろう。
それでも、ぼくの前でそのような態度を取るその無神経さに、腹が立った。
身勝手であることは重々承知の上で、ぼくは彼女が胸を痛めていること自体に憤っていた。
無神経なのは、どっちの方?
――言うまでもない。
- 97 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:19:50 ID:7oeOYwLk0
「あんた、何か知ってるんでしょ? 宇津田と会ったって言ってたわよね」
「……」
「諸本くんも行方不明なんだって。どうせそれも知ってたんでしょ?」
「なんとか言ってよ。黙ってたらあんたも同罪よ。ねえってば」
「同罪だったらなんだってんだお」
自分で認識する自分の声が明確な怒気を孕んでいることに、驚いた。
「中学時代の仲良しな同級生を守りたい。危機から助け出したい。
ご立派だよ。あくびが出るくらい立派だよ。
でもぼくたちからしたらあんな奴等、死んでしまった方がいいんだ。
あのクラスの人間は一人残らず、無残に死んでしまった方がいいと思ってる。
それが悪いことだって自覚はしてるよ。ぼくも、多分、独男も……
そういうことは全部解った上で生きてるんだ。だから、だからさ……
ぼくたちの知らないところで後ろ指を指して、今まで通り粗末な玩具みたいに見下して笑っててくれよ……
ぼくたちを、毛ほどに残ったぼくたちの自意識を、これ以上脅かさないでくれよ」
言葉は泥のように。吐き出すたびに痛くなる。
胸が痛い。喉が痛い。目の奥が痛い。
- 98 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:20:53 ID:7oeOYwLk0
熱い砂の上を裸足で歩くように、ぼくにはどうすればこの鈍痛が消えてくれるのか解らなかった。
「私も……」
「……」
「私も、死んでしまった方がいい?」
一番聞かれたくなかったことだ。
だが、これに答えなければぼくは今後、一生あの日々の蟠りを抱えたまま生きてゆくことになるのだろう。
たとえ独男が埴谷を殺したとしても、クラスメイト全員が不幸になっても。
「うん」
ぼくははっきりと、ツンの存在ごと否定した。
独男が復讐に走る様を止めずに黙って見ていたぼくを彼女が否定したように、
ぼくもあの時何もしなかった、危害を加えなかったツンをはっきりと、否定した。
- 99 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:21:57 ID:7oeOYwLk0
暫く無言が続いた。
ぼくから言うことはもう何も無くて、彼女の返答を受けてそれを決別とする。
そのつもりでいるから、この沈黙が永遠にも等しい時間に思えた。
ツンのことが嫌いなわけではなく、煩わしいわけではなく、
ただ、ぼく自身があの時間を許容出来ないだけなのだ。
あの地獄を取り巻く全てのものに何の罪もなくたって、
ぼくにはそれを想起して、駆け抜けるような青春だったと懐かしむ術が無い。
高校に入って、独男は髪を染めた。
体育館の裏で煙草を吸うようになった。
常に不機嫌そうな顔をして、近寄る人間を威圧した。
何かから逃げているようにしか見えなかった。
そのようにしてぼくは、本当に一人になった。
そんな折に声をかけてくれたツンに感謝はしている。
本当に嬉しかった。何も悪くないぼくが、許されたような気がした。
- 102 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:23:47 ID:7oeOYwLk0
ぼくの後ろで、独男が泣いているような気がした。
.
- 103 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:24:32 ID:7oeOYwLk0
見ないようにする権利がぼくにはあった。
それでも、淋しげにものを言う独男の背中から目を逸らすことが出来なかった。
鎖か、呪いのようなもの。
その呪縛を振り払うことが出来るものは自分の意志以外に無いから、誰からも共感を得られないのだ。
暗闇の中、朧げに浮かび上がる独男はぼくと同じ顔をしていた。
何から何まで瓜二つなのに、ぼくは独男ではないし、独男はぼくではない。
絶対に交わらぬもの。
- 104 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:25:31 ID:7oeOYwLk0
互いに足取り重く進む永劫。
ゆえにそこに救いはなく平行。
胸の中湛えた抵抗。
色褪せた脳内の映像。
どこまで行っても不幸だった。
何事もない平穏な日々が傷を癒やすことなんてない。
一度でも幸福を感じたことがあるからこそ身に沁みる不幸。
そんな詭弁はくそくらえだ。
ぼくたちは徹底的に虐げられていた。
泥に塗れた道の中で差し込んだ光。
- 105 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:26:44 ID:7oeOYwLk0
それを阻むものを切り捨てることになったとして、
足を止める道理にはならない。
横道に逸れるという選択肢が残されていない。
その道を塞いでしまったのは他ならぬこのぼくだから、ぼくは、行くよ。
今までありがとう。
君が見せてくれた可能性は、本当に眩しくて、貴いものだった。
「……そっか」
.
- 106 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:27:31 ID:7oeOYwLk0
今日が、最後の夜になる。
当時の虐めの主犯格の最後の一人、埴谷は既婚者だ。
家庭を持った人間が仕事以外の時間をどこで過ごすか。
そんなこと、聞くまでもない。家だ。
ぼくが独男ならば、確実に仕事から帰っているであろう夜中に、自宅を狙う。
何の根拠もないけれど、独男ならそうするという確信があった。
警察にも追われる立場だ。
実行に移すとすれば、今日以外にない。
- 107 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:29:00 ID:7oeOYwLk0
埴谷の家を特定するのに、二時間もかからなかった。
自宅の表で子供を抱いた写真をインスタグラムにアップしていたこと。
そして同じ学区だったので、その通りの風景に見覚えがあったこと。
これだけ特定出来る要素があれば、辿り着くのに苦は無い。
だがそれは独男にとっても同じことが言える。
きっと高岡を殺してすぐに、いやあるいは、
高岡を殺す前から、予め埴谷の家を特定していたかもしれない。
そう考えると、昨夜のうちに埴谷が殺されなかったことは奇跡だと言える。
- 108 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:29:54 ID:7oeOYwLk0
電車で一時間。久しぶりに帰ってきた地元の空気は褪せていた。
感傷に浸る余裕が無い。
最寄り駅から降りて、一歩、また一歩と進むごとに、
自分を取り巻く空気そのものが質量を帯びて、冷たく纏わりつくような気がした。
埴谷の家まであと五分ほどだろうか。
きっと、昼間ならば遥か前方に家の構えをはっきりと視認出来ているのだろう。
街灯が少なく、夜闇が際限なく空気に湛えられ、深く淀む。
そんな暗がりの中だから、背後からぼくを照らすヘッドライトにすぐ気付いた。
- 109 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:30:46 ID:7oeOYwLk0
ライトを中心に、朧げに浮かび上がる車体は独男の車によく似ていた。
いや、むしろ独男のものだとしか思えなかった。
事あるごとにぼくたちは他人として、
それでいてそっくりそのままな奇妙な隣人として共感を重ね続けてきた。
その集大成とも言える共鳴の精度。
研ぎ澄まされた刃のように鋭いそれが、針の筵となって全身を包む。
痛い――
全身を貫かれて、もう吐きそうだ。
全てを、投げ出してしまいたかった。
- 110 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:31:38 ID:7oeOYwLk0
奥歯を噛み締めて、一歩前に出る。
両手を広げて、道路の真ん中へ。
なぁ独男、解ってるよ。
ここまで来てしまったんだ。
もう、止められない。止まらなくなってしまってるんだろ?
それでもぼくは止めようと思う。
絶対に止まらないお前を、本気で止めるつもりで――
ライトがハイビームに切り替わる。
クラクションの音も無い。
エンジンの嘶きが一層激しくなる。
衝突まで、あと何秒?
三――
二――
一――
- 111 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:34:58 ID:7oeOYwLk0
人を撥ねたのは初めてだ。
真っ直ぐ、ブレーキを踏まずに、躊躇いなく撥ね飛ばしてやった。
衝突の寸前、ライトに照らされて浮かび上がった奴の表情は、悲しげだった。
本当に、ありがとう。
こんな俺のために、自分の人生すら投げ打って、この救いようのない一連の復讐劇を止めようとしてくれて、ありがとう。
お前が投げ打った命は、結果に何の変化も齎さない。
エンドロールすら仄暗いことに何の変わりはなくとも、俺は、
俺の人生の中で、お前という人間に出会えて本当に良かったと思う。
- 112 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:35:51 ID:7oeOYwLk0
埴谷の家の玄関に向かって、アクセルを踏み込む。
ブレーキは要らない。真っ直ぐ、この身体が千切れたとしても、構うものか。
衝撃で脳が揺れる。どこを直接打ち付けたわけでもないのに、全身に痛みが走る。
ぶつかる寸前に開いたドアが取れてしまって、飛び出したエアバッグに押し出され、そこから車外に放り出される。
ガソリンが漏れているかもしれない。
二人分の悲鳴と、赤子の鳴き声が木霊する。
どこだ。何処だ?
予めバックシートのポケットに忍ばせておいた包丁に手を伸ばし、握りを確かめる。
胸と脇腹がひどく痛むが、やってやれないことはない。
- 113 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:37:00 ID:7oeOYwLk0
「宇津田か」
階段らしきスペースから降りてくる人影。
声を聞いただけで、それが誰かは解った。
埴谷だ――
「俺のところにも来ると思ってたよ。いやむしろ、待っていた」
「……随分と余裕だな」
シャツの胸ポケットには煙草。衝撃で吹き飛んでいなかったようだ。
一本だけ吸う。ハイライトの中に混じったくしゃくしゃのガンジャ。
ガソリンに引火しようと知ったこっちゃない。
今更、死ぬのは怖くない。
- 114 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:37:58 ID:7oeOYwLk0
「今わの際に、何か言いたいことはあるか?」
包丁を突きつけて、埴谷の言葉を待つ。
「悪かった」
埴谷の口から漏れた言葉に、俺は頭が真っ白になった。
大麻をやっている時特有の鋭敏な感覚をもってしても、何も感じることが出来なかった。
「馬鹿なことをやったと思ってる。お前の気が済むなら、俺を殺せばいい。
好きなようにしてくれればいいさ。そんなことをしても俺がやったことがチャラになるとは思わねえけどな」
「ほう……」
むざむざと差し出された首を切り落とすことに抵抗は無い。
だが、何かが引っかかる。
高校を中退して、阿漕な生業に手を染めたがゆえの防衛本能なのかもしれない。
- 115 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:39:31 ID:7oeOYwLk0
近づくなと、俺の頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
「えらく聞き分けがいいんだな。理由を聞こうか」
「そんな大層なもんじゃない。家庭を持てば、価値観が変わる。それだけの話だ」
「……家庭?」
「ああ」
「……ふざけんなよ。家庭を持って丸くなったから、蛆虫みてえな奴が真人間になったってのかよ! ああ!?」
「その通りだ。その通りなんだよ。
お前には信じられないかもしれないけどな、ガキが産まれた瞬間から、
なっちまったんだよ。むしがよすぎるよな。俺もそう思う。だけど、これは事実なんだ」
「やめろ! やめろ! やめろ!
聞きたくねえ! 聞きたくねえ!
出鱈目なレッテルを貼って毎日毎日俺たちをこき下ろしたその口で、そんなこと言うんじゃねえよ!
じゃあ何か? 自分を殺す代わりに、家族だけは見逃してくれとでも言うつもりかよ!
通さねえ、絶対そんな出鱈目な要求通さねえからな!」
- 116 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:40:59 ID:7oeOYwLk0
もう刃が鼻先に刺さるんじゃないかってくらい詰め寄った。
直前の警鐘なんて、どこかに吹き飛んでしまっていた。
埴谷はそれでも、抵抗せず、ただ静かに両手を上げて、そのまま床に膝をついた。
見上げることもせず、その視線のまま、真っ直ぐ俺の膝あたりを見つめている。
やるせなかった。今すぐ車が爆発して、全てを焼き払ってくれればいいのに、そう思った。
「……頼む。嫁とガキだけは、見逃してやってくれ。あいつらはお前のことなんか知らねえんだ」
「言うな! もう何も喋るな!」
「……お前がそれを望むんなら、黙ってる。だから――」
「うるせえええええええええええ!!」
力任せに包丁を肩に突き刺し、間を置かずに引き抜いた。
埴谷は正座の姿勢のまま、悲鳴一つ上げずに目を瞑り、痛みに耐えている。
- 117 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:41:55 ID:7oeOYwLk0
「ぶっ殺してやる! お前を殺した後に、全員ぶっ殺してやる!
ガキをずたずたに引き裂いて、ガキの腸で嫁の首を締めながら犯してやるよ!
出来ねえと思ってんだろ! いじめられっ子の俺にはそんなこと出来ねえと思ってるから、
今更のこのこと顔を出して薄っぺらい謝罪なんか並べ立てられるんだろ!」
「…………」
「なんとか言えよクソッタレ!」
包丁を握りしめて、思い切り振り上げた両手が軽い。
そのまま天井まで突き破ってしまいそうだった。
伸び切った腕。そしてそのまま、振り下ろす。
自由落下のように埴谷の頭に落ちる包丁の刃が、途中で止まった。
- 118 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:42:29 ID:7oeOYwLk0
.
- 119 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:43:56 ID:7oeOYwLk0
「もう、どうしたらいいか解らなかったんだ」
目の奥から溢れる、堰き止めようのないもの。
それがぼろぼろと頬を伝う。焼けるように熱い。
背中に感じる温み。
うなじをくすぐる吐息。
がっしりと、力強く握られた二の腕。
背後から俺を止める者が誰か。
俺はその暖かさだけで、実感することが出来た。
- 120 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:44:49 ID:7oeOYwLk0
「解るよ」
「こんな糞みたいな人生で、出来ることが自分勝手な八つ当たりだったとしても、
こいつらにだけは解らせてやりたかった」
「……自分の頭の中を何気なく通り過ぎてゆく選択が、人の心の中で一生残ることを」
「自分を正当化する気なんて更々無かったよ。
大義名分なんて欲しくない。かといって復讐することで全ての気が晴れるなんて思ってもないさ」
「うん、うん」
「ただ、幸せになりたかった」
- 121 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:45:50 ID:7oeOYwLk0
足元の埴谷が、懐に手を突っ込むのが見えた。
覗く鈍色の刃。それを認識しながらも、手元の力は抜けて、指から包丁がすり抜けた。
ああ、こんなもんだ。
俺の人生って、こんなもんだったんだ。
最初から、解ってた。
腹部を一突き、痛みまで鮮明で、
一瞬で持って行かれそうになった意識の糸を無理やり手繰り寄せる。
背中に寄りかかっていた内藤の身体が崩れ落ちて、足元に転がる。
代わりに立ち上がる埴谷。
力が入らない身体。
- 122 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:47:06 ID:7oeOYwLk0
痛みが全身に伝染して、震える膝。こみ上げる吐き気。
倒れ込んだ床は、暖かかった。
俺は産まれて初めて、自分の血の温もりを知った。
自分に、血が通っていることを思い出した。
視線の先に、苦しそうで、それでいてどこか安らかな表情を浮かべる内藤の顔。
無理やり首を擡げると、鼻息荒く見下ろす埴谷の顔。
俺は最後の最後に、あの時怖くて言えなかったことを――
「くたばれ。畜生共」
.
- 123 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:48:26 ID:7oeOYwLk0
ただ、それだけ言う勇気があれば、俺はきっと自分の人生を違えることは無かっただろう。
不条理な暴力に中指を立てる意志さえあればよかったのに。
一度も泣かないなんて上っ面だけの意思表示で誤魔化して、ずっと、ずっと――
.
- 124 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:50:35 ID:7oeOYwLk0
最後まで、俺を見捨てないでいてくれてありがとう。
お前の未来に、華々しい光があればいいのにと、心の底から思うよ。
なあ、俺の首に刃が深々と突き刺さった後、お前はどうしてる?
俺と一緒に、殺されてしまうだろうか。
今の埴谷はきっと頭に血が昇っているから、充分有り得るかもしれないな。
……それだけは嫌だな。
俺とお前は他人だけど、俺は、お前は俺だとはっきり言えるんだ。
決して交わらない俺たちだけれど、
どこまで行っても他人な俺たちだけど、
ずっと一緒だったんだ。
- 125 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:52:04 ID:7oeOYwLk0
鏡合わせみたいに、同じように苦しんだ。
馬鹿をやって、虚しくもなった。
そんなお前、俺だからさ、最後くらい、いいよな。
こんなになって、俺はようやく正解が解ったんだ。
最期に願う、自分の幸せ。
だって、お前は俺の、
友達だから。
どうか内藤。精一杯生き――
- 126 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:53:10 ID:7oeOYwLk0
.
- 127 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:53:49 ID:7oeOYwLk0
.
- 128 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:54:12 ID:7oeOYwLk0
.
- 129 名前:名無しさん 投稿日:2017/08/26(土) 23:57:07 ID:7oeOYwLk0
深夜一時。眠れない夜だった。
ぼくは――
【ended happily!】
.
戻る