('A`)と歯車の都のようです

3 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:03:03.45 ID:mU7ZXrA70
第三部【終焉編】
  -Prologue-

自らの掌も見えない程の暗闇。
視界はゼロ。
位置の特定も、不可。
ふと、跫音。

冷たく硬い跫音が迫る。
ゆっくりとした跫音、数は一つ。
周囲に、幾重にも反響。
歩み、止まらず。

赤い光点、暗闇に浮かぶ。
位置、高い。
地面から2メートル程。
歩みに合わせ、光点が揺れる。

跫音の主、口元を緩める。
しかし、見えない。
それは鉄の仮面の下。
歪で奇妙で奇怪な、単眼の仮面。

赤い光点の正体は、その単眼。
まっすぐに前を向く単眼。
視線の先、ぼんやりとした光がある。
が、それは淡すぎて光源には成り得ない。

4 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:05:02.33 ID:mU7ZXrA70
正面から風。
それは、ただの突風。
風が、跫音の主にして単眼の仮面の主にまで届く。
しかし、仮面の主は意に介さず進む。

舞う音。
翻る音。
靡く音。
複数の音が、同時に響く。

やがて、仮面の主は辿り着く。
そこは端。
主の居る建物の、端。
そして、ここは頂上。

頂上にして端の場所。
眼下に広がるのは、数万、数億に達する程の光。
先程の光の正体は、眼下の光。
風に乗って、喧騒と熱気が主を包む。

腰まで伸びた、艶やかな黒い髪。
体を包むのは、黒いロングコート。
顔を隠すのは、銀色をした単眼の仮面。
風の動きに合わせて、髪とコートが揺れ動く。

建物の頂上には、屋根がない。
故に、頭上に広がるのは黒い雲。
時は夜。
仮面の主。

5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:07:07.02 ID:mU7ZXrA70


―――否。



主ではない。
ましてや、仮面の主ではない。
その者は王。
遠方にまで広がる眼下の都の王。

歯車を統べる王。
歯車を操る王。
歯車を廻す王。
歯車の、王。

王、複数の性別、年齢、感情が入り混じった声で宣言する。



|::━◎┥『終わりを、始めよう』



王の宣言。
それは、全ての終わりの宣言。
終曲の宣言であり。
そして、終焉の宣言でもあった。

【Prologue-END】

7 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:10:07.06 ID:mU7ZXrA70
その日は、とても静かで涼しい夜だった。
毎日聞こえている筈の喧騒も、人の声もしない。
都の明かりは疎らで、明かりを灯している家屋は灯していないそれよりも少なかった。
聞こえるのは涼しげな虫の声と、建物の間を吹き流れて行く乾いた風の音。

それだけが、ハッキリと空気を伝わって耳に届く。
風が吹く度、窓ガラスはカタカタと音を立て、木製の扉が僅かに軋んだ。
人の気配がしない裏通りの一角。
明かりも灯されていない、とある酒場に、素奈緒・ヒートは一人で座っていた。

肩まで伸び、そこから外に向けて刎ねた赤茶色の髪。
その下にあるのは碧眼の吊り目。
そこまでは、全てが芸術的な美しさと野性的な魅力を兼ね備えた、妙齢の美女が生まれながらに持つそれだが。
格好は見窄らしく、あちらこちらに穴が空き、所々が破れた、顔以外の全身を覆うポンチョの様な茶色のローブだけ。

見方を変えれば、その格好が逆にヒートの美しさを引き立てているとも言える。
ヒートの居る暗い店内には、外からの光が一切差し込んでおらず、そこは文字通りの暗闇であった。
だが、長時間闇に眼を慣らしていたヒートには店の細部まで見渡す事が出来た。
それどころか、窓の向こうに見えるビルの内部を見る事も出来る視力を持っている。

でも。
手元のグラスに浮かぶ氷に向けられたヒートの眼は、グラスを反射しているだけで何も見ていなかった。
普段見せる強気な光は辛うじて眼に宿っているが、精気がほとんど感じられない。
目元には蓄積した心労が浮かび上がり、誰から見ても正常な状態ではない事が分かる。

グラスの中身はヒートの愛飲する日本酒で、アルコール度数は高くないが馥郁いくとした香りで高揚とした気分になる筈だった。
なのに、今日に限って、飲んでいるのがまるで味気のない水であるかの様に、それに酔う事が出来ない。
寂しそうな目をしたヒートを慰める者は、この場に誰一人としていない。
ひょっとしたら、この世に居ないのかもしれない。

9 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:14:07.58 ID:mU7ZXrA70
思考が悪い方向に自走する前に、ヒートは酒を呷ってそれを事前に制した。
連日の気苦労は、徐々にではあるが確実にヒートの体と精神を蝕みつつあった。
他人に言われるまでも無く、彼女はその事を誰よりもよく知っている。
世の中にはどうしようもない事が数多く存在する。

これもその内の一つだと納得できれば、どれだけ楽か。
それが分かっていても、そうだと知っていても、それを理解していたとしても。
それでも尚、どうしても想う事を止められる筈がない。
少しでもこの想いを止めようと、抗えば抗う程、逆に心に負荷が掛る。

この悪循環こそが、ヒートを苦しめているのだ。
仮に、物に八つ当たりした所で、事態が好転する訳も無い。
だから、ヒートにはこうして酒を飲み、寝るしかする事がなかった。
第一、彼女が八つ当たりをし始めたらこの都を統べる者達が黙ってはいないだろう。

それはそれで面白いのだが、その果てにある物に全く興味がない。
深い溜息と共に、ヒートは氷だけになったグラスに傍らの一升瓶から酒を注いだ。
乱暴に注がれた酒がグラスから溢れ、木製のカウンターテーブルの上に広がる。
その様子を見ても、ヒートはそれを黙って見つめるだけで何もしない。

もう、何もかもがどうでもよくなり始めていた。
酒が溢れようと、この都で何が起きようと。
これから歯車王を殺し、歯車の都がその長い歴史に終止符を打とうがどうでもいい。
今、自分の頬を伝って零れ落ちた涙の理由を除いては、全てがヒートから遠い。

どうでもいい物事を処理するのであれば、無心、無情、無関心が鉄則。
涙の落ちたグラスの中身を一気に呷る。
それでも、涙は止まらない。
次から次へと、頬を伝って涙がグラスに落ちる。

10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:18:09.17 ID:mU7ZXrA70
ヒートの心が虚ろになるのを、涙の理由だけが防いでくれる。
そうだ。
まだ、その心は辛うじて枯渇していない。
ようやく、ヒートの瞳に精気が戻り始めた、その時だった。

机の上に置いていた携帯電話が、突然の着信を告げた。
その着信こそ、始まりを告げる物であり。
同時に、終焉の始まりを告げる物である事を、ヒートは何の根拠も無く直感だけで理解した。
涙声にならないよう、腹筋と喉に力を込める。

ノパ听)「……もしもし」

それまで泣いていた事を微塵も感じさせない声で応答したヒートに、短い指示が与えられた。
ヒートは返事もせずに携帯電話を畳んで、机の上に置き、席から立ち上がる。
店の隅に立て掛けていた大身槍を手に取り、店を後にした。
彼女が居なくなった店は他店と同様に、静寂だけが残された。






―――その日は、虫の声と風の音。
     そして、硬い脚甲が地面を踏み鳴らす音が聞こえる、とても静かで涼しい夜だった。






13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:22:19.46 ID:mU7ZXrA70




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('A`)と歯車の都のようです
   第三部【終焉編】
    -Episode01-

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14 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:25:15.11 ID:mU7ZXrA70
不気味な程に静まり返った路地を、一人分の跫音が進む。
世界最硬度の金属で作られた脚甲が地面を踏み、その度に独特の跫音が響く。
跫音の主である素奈緒ヒートは、自慢の赤茶色の髪を靡かせながら歩いていた。
ヒートが通り過ぎた場所に設置されていた街灯が、数回点滅して、そして消えて行ったのを知る者はいない。

物言わぬ街灯は分かっていた。
これから何が起きるのかを。

ノパ听)「……」

路地には不自然な程に生物の気配がなく、まるで何かに怯えて息を潜めて隠れているようだった。
密集して立ち並ぶ高層マンションやアパートが見下ろす路地は、街灯の明かりが消えるにつれて影の濃さが増している。
静まり返った路地にビル風が吹く度、身に纏うボロボロのローブが風に乗ってはためく。
ヒートが通り過ぎた薄暗い路地裏から、野良猫達が顔を少し出し、その後ろ姿を見つめたのを知る人間はいない。

人語を発さない猫達は分かっていた。
これから何が起きるのかを。

ノパ听)「……」

やおら、ヒートは視線を上げた。
その視線の先にあるのは、珍しく青白いライトで照らし出された歯車城だ。
歯車城は初代歯車王が誕生してから、数十年後に建造された、当時最大の建物だ。
今でこそ高さでラウンジタワーに抜かされているが、未だに都で五指に入る高層建築物である。

ヒートが目指すのは、正にその場所。
歯車城の主を殺す為に、ヒートあの城を目指していた。
そもそも、この行為は怨恨から来る物では無く、純粋に仕事の続きと言うだけ。
最初の暗殺の際、ヒートはドクオとチームを組み、そして辛くも勝利を収める事が出来た。

16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:30:00.97 ID:mU7ZXrA70
歯車王を殺すという目的が達成できなかった以上、その勝利に意味は無い。
全体の結果から見れば、ヒート達の勝利はあまりにも矮小だったのだ。
仕事の依頼が達成できなかっただけでなく、裏切り者、そして死亡者まで出した。
本来であれば、仕事の失敗は死を意味する筈だったが、ロマネスクはもう一度だけチャンスを与えてくれた。

失敗は許されない。
失敗は死を意味する。
失敗は、不要。
不要は、死。

昔を思い出し、ヒートは頭を振ってそれを消した。
せっかく消えかけていた記憶なのにと、ヒートは歯噛みする。
結局、こうなるようになっているのだ。
一方が死なない限り、どうあっても歯車王との縁が切れる事は無いらしい。

―――ヒートと歯車王には、一つだけ接点があった。

ノパ听)「……ん?」

ふと、ヒートは何かを感じ取り、その歩みを止めた。
目線を前にやるが、そこには闇以外何も窺えない。
視線の先に街灯の明かりが一つだけあったが、人影らしきものを照らし出してはいなかった。
素早く周囲を見渡し、地形の把握を始める。

唯一の街灯が照らしているのは、その直ぐ横にある小さいながらも精巧に作られた石造りの噴水。
そして、地面に敷き詰められている石畳と、丸い噴水の周囲を、円を描く様にして立ち並ぶほぼ同じ高さの建築物。
住宅街の中心にぽっかりと開いた穴の様に、噴水を中心として直径250メートルの広場がここにはあった。
周囲の景色から、ヒートは四方八方にあるこの広場の入り口の一つに、足を踏み入れたばかりである事を把握した。

17 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:34:42.69 ID:mU7ZXrA70
一方、ヒートが感じ取った"何か"は見事なまでに暗闇に同化し、姿を見せるに至っていない。
そこまでの技量がありながら、ヒートが知覚し得たのは何故か。
答えは決まり切っている。
あえて、知覚させたのだ。

ヒートの直感だが、相手は彼女の正面にいる。
それも、中心にある噴水からヒートと同じだけ離れている。
即ちそれは、真正面のもう一つの入り口でヒートが来るのを待っていたと言う事。
予め想定していたにせよ、実に"素晴らしい"。

いい予感を胸に、ヒートは一歩踏み出した。
向こうも、一歩踏み出したのが気配で分かる。
同じようにして、ゆっくりと向こうが一歩踏み出す。
ヒートもまた、一歩踏み出した。

徐々に接近するにつれ、人の形の陰が浮かび上がる。

ノパ听)「……っ!」

鼓動が高鳴った。
枯渇寸前と思われた胸に、灼熱の溶岩が湧き上がる様にして満ちる。
期待が逸る。
心が燃える様に熱い。

―――待ち焦がれていた瞬間が、想いも寄らぬ形で実現した。

ヒートの頭から、愁いが消し飛んだ。
と、共に。
彼女がこれまでに得ていた情報の歯車が、ゆっくりと廻り始めた。
やがて、一つの答えを導き出す。

19 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:38:24.94 ID:mU7ZXrA70
ノパー゚)「……なるほどそうか、そう言う事だったのか」

輪郭がハッキリと浮かび上がる前に、ヒートは笑みを抑え切れなかった。
今すぐ大声で笑いたい。
この瞬間、この場で一番の幸せ者は自分だと、大きく叫びたい。
爛々と目を輝かせ、ヒートの顔から疲労感やその他諸々の負の要素が吹き飛んだ。

大身槍を地面に突き立てる。
体を覆い隠していたローブを脱ぎ棄て、それを風が攫って何処かへと運び去る。
露わになったのは、鍛え上げられ、引き締まった美しい肉体とそれを包む露出の多い白銀の鎧。
伝説や御伽噺の中にだけ登場する戦乙女が、そこにいた。

ノパー゚)「そうだよな、あたしの相手が務まるのはあんただけだ。
    もう一度だけ、もう一度だけ闘えたらって思ってたんだよ。
    あぁ、こんな時、何て言ったらいいんだろうな?
    こんな気分初めてだからさ、あたし、何て言ったらいいか分かんねぇんだよ」

十代の少女の様に、ヒートは恥ずかしそうな表情を浮かべる。
そこに殺意も敵意も無く、あったのは純粋な戦意だけ。
目の前で対峙する者を退けなければ、仕事の続行は不可能。
全身全霊で迎え撃つ用意は、既に出来上がっていた。



ノパー゚)「……いや、違うな。
    言葉じゃ駄目だ。
    足りない、言葉じゃ全然足りないなぁ!
    そうだろ、そう思うだろ?」

21 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:42:13.70 ID:mU7ZXrA70
同意の声が返って来た。
ヒートは心底嬉しそうに、頷く。
これより先は、言葉は装飾道具でしかない。
言葉をどれだけ並べようとも、意味はあまり無い。

最も重要なのは、純粋な想いを込めた行為。
体と体をより強く、より激しくぶつけ合う行為。
それこそが、最も確かな愛情表現。

ノパー゚)「そうでなくっちゃ!
    それじゃあ―――」

ヒートは地面に突き立てていた大身槍を引き抜き、風車の様に大きくそれを宙で廻し、構えた。
双方の距離は30メートル弱。
互いに必殺の間合い。
そして両者の叫び声が、静寂を夢幻の様に霧散させる。

24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:45:10.11 ID:mU7ZXrA70







ノパー゚)「―――五年ぶりに、思いっきり愛し合おう!
     行くぞ、シャキン!」





(`・ω・´)「―――五年ぶりに、思う存分愛し合おうか!
      行くぞ、ヒート!」






今、"戦乙女"と"鉄足"の再戦がここに実現した。





26 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:48:14.45 ID:mU7ZXrA70





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('A`)と歯車の都のようです
第三部【終焉編】-Episode01-
   『Heat beat hearts』

Episode01イメージ曲
『ベートーヴェン交響曲第九番、第四楽章「歓喜の歌」』
ttp://www.youtube.com/watch?v=SKWm4SWzDjg
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28 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:52:16.55 ID:mU7ZXrA70
音速に迫る速度で突き出された大身槍による初撃は、徹甲弾以上の威力と砲弾以上の迫力があった。
人体や鋼鉄は当然として、戦車の堅牢な装甲も一突きで貫通できるだけの破壊力。
その一撃を、シャキンは"片脚"で難なく防いだ。
砲弾が着弾した様な爆音が響き、周囲の空気を振動させる。

威力の凄まじさを示すのは、何もその暴力的な破壊音だけではない。
ヒートが踏み込んだ石畳は無残に砕かれ、衝撃を受け止めたシャキンの右脚の地面は10センチほど陥没している。
大身槍の穂先を"脚甲"の裏で受け止めたシャキンは笑み、また、ヒートも笑い返した。
この程度で終わる筈がない。

"終われる筈が無い"と、目線だけで語り合う。
シャキンの姿を見た時、彼に何が起きたのかをヒートは理解していた。
彼は失われた筈の両脚の代わりに白銀の脚甲で地に立ち、失われた右手は腕甲を付けて戻っている。
だが、切り刻まれ、切断された部位が元に戻る事は肉体的に有り得ない。

ただ一つの可能性を除いて。

失われた体の一部を機械で"補う"のであれば、確かにその術は存在する。
それこそが、"機械化"。
機械化は全身でなくとも、失われた部位だけに施す事が可能な、歯車の都独自の技術である。
ただし、機械化の処置を施せるのはこの都には一人しかいない。

―――歯車王。

つまりシャキンは、歯車王によって機械化の処置を受けた事になる。
その事は、今の一撃でハッキリとした。
一般に普及している義脚や義手であれば、この一撃に耐え兼ねて破損し、吹き飛んでいたはずだからだ。
それ以前に、このタイミングでヒートの前にシャキンが現れた時点で、大まかな事は想像できていた。

30 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 20:56:32.91 ID:mU7ZXrA70
歯車王の手によって、失われた手脚を戻す代わりにこうしてヒートを足止めしろと言われたのだろう。
ギブ・アンド・テイク。
この都にこそ相応しい考え方によって、シャキンは再度、闘争の場に身を置いている。
脚を失った"かかし"ではなく、五年前にヒートと対峙した"鉄足"。

詳しい事情と相手方の目的はさて置き、今、ヒートは感動していた。
今一度こうしてシャキンと闘える。
しかも、今のシャキンの力量はかつてのそれを大きく上回っていた。
その理由は、機械化の影響だけではない。

シャキン自身の技量、力量が以前にも増して向上しているのだ。
おそらく、残りの人生でこれ以上の闘いは望めないだろう。
これ以上純粋で真っ直ぐな愛し合いが、今後果たして存在し得るのか。
答えは否。

今この瞬間だけにしか、この勝負は存在しない。
で、あるならばヒートがやる事はただ一つ。
シャキンの想いに応え、全力で相手をして、思う存分この勝負を味わい尽し。
そして、己の望みを成就させる。

両手に持つ大身槍の柄に力を加え、強引に槍を突き出そうと試みる。
だが。
穂先はおろか、大身槍はビクともしない。
シャキンの脚一本に止められただけでなく、これ以上の追撃も許されないとは。

実に見事。

ノパー゚)「いいねぇ、いいねぇ、最高だ!
    こうでなきゃなぁ!」

32 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:00:25.26 ID:mU7ZXrA70
気合いと共に手にした槍を手前に引き戻し、シャキンの意表を突く。
今度は、大身槍をより低い位置から上に向かって鋭く突き出した。
片脚立ちと言う体勢に対して、この攻撃。
如何にしてシャキンは回避するか。

穂先がシャキンの喉元を貫こうとした、正にその瞬間。
目に見えないレールに導かれるようにして、穂先はシャキンの傍らの地面に深々と突き刺さった。
一秒にも満たない出来事であったが、その間に何が起きたのかをヒートは見ていた。
あの不安定な体勢から、シャキンは左脚一本で攻撃を受け流して見せたのだ。

これが"鉄足"の技量。
脚技ならその右に出る者はいないとまで謳われ、その名を知らしめた男。
彼の左脚は、全ての攻撃を受け流し、右足が蹴り砕く。
ヒートはもう一撃加える為、槍を地面から引き抜こうとした。

その行為で生まれた隙は、僅かにコンマ数秒。
コンマ数秒の世界を先に制したのは、速度で勝るシャキンだった。
槍を手元に引き寄せたヒートに向けて、助走無しの飛び蹴り。
先程、ヒートが繰り出した槍の一撃を弾丸に例えるなら、シャキンの一撃は砲弾だった。

辛うじて槍の柄で防いだものの、ヒートは後ろに10メートル程押されてしまった。
槍の柄を蹴り飛ばして、シャキンは後方に大きく飛び退く。
両者無傷。
二人は再び構え直す。

(`・ω・´)「うん、調子はいいみたいだ。
      ウォーミングアップは、もういいだろう?」

ノパー゚)「あぁ、十分だ!
     よっしゃ、来い!」

34 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:04:12.32 ID:mU7ZXrA70
二人の間合い、20メートル。
それが何の合図も無く一瞬で縮まり、先程と同じかそれ以上の爆音が響く。
上段から振り下ろされた刃を、シャキンの脚が真下から受け止めた形で静止。
ヒートが横薙ぎにしようと槍を僅かに持ち上げた瞬間、シャキンの踵落としが何の前触れも無くヒートの眼前に降ろされた。

咄嗟にその場を退いていなければ、ヒートの頭は無残に砕かれた石畳と同じ運命を辿ったに違いない。
予備動作無しの蹴り技は、シャキンの十八番。
鉄をも砕くその脚の前に、石畳など発泡スチロールも同然。
それだけではない。

シャキンの装甲している尖った爪先の脚甲は、間違いなくヒートが彼に譲り渡した物だ。
ヒートの身を護る鎧と同じ素材で作られ、その頑丈さは折り紙つきである。
脚甲を装着した脚で繰り出される踵落としは、さながら戦槌の迫力。
威力に至ってはそれ以上。

が、その射程外にいれば意味は無い。
大身槍を長く持ち替え、大上段に構えた。
この構えの意味を、シャキンは即座に理解しただろう。
"叩き斬る"と言う明確な意志の具現。

ヒートの間合いに入った瞬間、この構えはその力を解き放つ。
大身槍の射程圏外にいるシャキンもまた、構えた。
両手には必要最低限の力を込めて構え、左脚を前に、右脚を後ろに。
姿勢は低く、視線は前に固定。

互いに互いの射程外にいるが、より長い射程を持つのはヒートだ。
シャキンがどれだけ疾く攻撃を仕掛けようとも、射程内に入った途端、そこで勝負は決する。
普通はそう考えるだろう。
しかし、相手はシャキンだ。

35 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:08:26.53 ID:mU7ZXrA70
ロマネスク一家の元No2に、普通は通じない。
この状況、如何にして打破するか。
無言の膠着状態の中、ヒートが摺足で僅かに前に出た。
たったそれだけの動作がこの状況に与えた影響は、甚大だった。

間合いが狭まった。
ヒートにその必要がないのにも拘わらず、あえて距離を狭めたのだ。
何故か、とシャキンはヒートの取った行動の理由を考えなかった。
その必要がないからである。

今シャキンが見ているのは、ヒートの瞳だけ。
距離の事は眼中にない。
ヒートもまた、シャキンの瞳だけを見ていた。
距離を縮めた理由は、自分でも分かっていなかった。

一つだけあるとしたら、恐らく、シャキンの瞳に惹かれたからだろう。
少しずつ。
また、少しずつと距離を縮める。
そして、大身槍の射程にシャキンの体が入った。

―――が。

両者動かず。
瞬きもしないで、互いの瞳を見つめ合う。
二人の耳に届いているのは風の音と噴水の水音、そして二人の呼吸音。
静かな呼吸音が重なった、その刹那。

クリスタルガラスの様に美しく透き通った残響音が、周囲に響いた。

ノパー゚)「……さっすが」

36 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:12:04.15 ID:mU7ZXrA70
槍を振り切った姿勢のヒートが、そう呟く。
短い賛辞の言葉に、傷一つないシャキンは笑みで答える。
二人の距離は、互いのまつ毛の数が数えられそうなまでに近付いていた。
全ては一瞬の出来事。

(`・ω・´)「……どうも」

回避不可能と思われていたヒートの一撃を無効にしたのは、芸術の領域にまで高められたシャキンの脚技だった。
直上からの攻撃に対してシャキンが行った行動は、大身槍の鎬を僅かに横に蹴っただけ。
限界を見極め、完璧なタイミングで完璧な位置を。
繰り出されたヒートの攻撃の欠点を突いた、非の打ち所が無い迎撃。

シャキンの左脚が健在である限り、ほとんどの攻撃は受け流されてしまう。
賛辞と感謝の意を込め、ヒートは直ぐ近くに迫っているシャキンの唇に己の唇を軽く重ねた。
数秒にも満たない口付け。
名残惜しげに唇を離し、眼を潤めるヒートはこう言った。

ノパー゚)「……続きはあたしに勝ってからだ」

(`・ω・´)「……尚更、負けるわけにはいかないね」

それを合図に、二人は一気に後ろに飛び退く。
ヒートは槍を短く持ち、穂先下がりの下段に構えた。
繰り出さんとするのは、脚技で防ぐのは困難な下段からの斬上げ。
どう対処してくれるのか。

地面に擦る寸前の位置に低く構えたまま、ヒートは一気に走りだした。
シャキンは動じることなく、ゆっくりと脚を上げる。
槍は振り子の様に振り上げられ、その先にいるシャキンを切り裂こうとする。
直後にシャキンの見せた対応に、ヒートは眼を大きく見開いた。

38 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:16:16.09 ID:mU7ZXrA70
切っ先の上に、シャキンは"飛び乗った"のだ。
これでは切り裂く事はおろか、叩く事も出来ない。
こんな技は予想していなかった。
反応速度、そして天才的なバランス感覚があって初めてこの曲芸めいた技は成立する。

気付いた時にはもう、シャキンはヒートが斬り上げる威力をそのまま利用して、高々と後方に跳躍していた。
逃げ場のない宙へと逃げ、何をしようと企んでいるのか。
いくら高く逃げようとも、逃げ道は無いと言うのに。
咄嗟に、ヒートは槍を投擲すべく振り被り、そして見た。

シャキンの跳躍した、その先を。
それから一瞬でその目的を理解した。
高層建築物の壁。
それを新たな足場、否、"スターター"にして、シャキンはヒートに向けて一直線に跳んだのだ。

地上では、絶対に有り得ないスタート。
水平どころの騒ぎではない。
重力を味方に付ける"斜め下"に向かってのスタートは、水平時のそれよりも疾い。
分かった所で、新たな動作を起こす時間は無かった。

そこでヒートは、槍の投擲を断念し、片手で槍を突き出すのを選んだ。
シャキンの飛び蹴りを、伸び切った右腕の掴む槍の穂先で受け止めた。
流石に、シャキンの蹴りを片手で受け止めるのは辛い。
穂先を強引に動かして、受け流そうと試みる。

が、重力の加勢がそれを許さない。
大身槍が嫌な音を上げ始めるも、手を出せない。
この状況は一瞬の内に起きている出来事なのだ。
結果。

40 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:20:15.33 ID:mU7ZXrA70
―――大身槍の穂が粉々に砕け散り、柄が折れ曲がった。

戦車を切り裂き、貫いた大身槍が。
建物ですら両断したこの大身槍が、"蹴り"で砕けた。
しかし、ヒートはその瞬間をまるで、卵から雛が羽化したかの様に清々しく感じ取っていた。
誇らしいと思える。

よくぞ。
よくぞ、ここまで芳醇に成り果せた。
この領域に踏み込んで来たのは、シャキンが初めて。
今、シャキンが奪い、シャキンに捧げるこの領域。

全身が総毛立つ。
毛穴と言う毛穴が開き、鼓動が一つになる。
体が熱を帯び、全身の筋肉が奮起する。
感じる。

確かに感じる。
体中から湧き上がる、この気持ち。
これが、愛。
これが、愛情。

毛髪の先から爪の先までが、得体の知れない快楽に支配される。
麻痺してしまったのではないかとも思える、強烈な快楽。
手にしていた大身槍の柄を手放して、ヒートは空を仰いだ。
目の前に着地したシャキンは、攻撃してくる気配がない。

42 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:24:03.37 ID:mU7ZXrA70
分かってくれている。
理解してくれている。
シャキンだけは、ヒートの事を解ってくれるのだ。
だから、今のシャキンならば叶えてくれるかもしれない。

ノパー゚)「―――また、お前に奪われちまったな、あたしの初めて。
     でも、こいつは痛くねぇ。
     気持ちいい、あぁ、気持ちいい。
     お前も、そうだろ?」

ゆっくりとシャキンに目を向け、戦慄く様に、喜びに打ち震える声でそう言った。

(`・ω・´)「……」

当のシャキンは、何と言っていいのか分からない様子だった。
黙ってヒートの瞳を見つめて頷いたのは、ヒートの言わんとする事を理解していたから。
彼もまた、ヒートと同じ高揚した気分になっていた。
二人の想いは同じ。

その姿が愛おしい。
狂ってしまいそうになる程に、その姿が、その存在が狂おしい。
故に―――

ノパー゚)「だから……」

右手を広げて、シャキンに向かって突き出す。
静かに人差し指から拳を握り固め、腰を落とす。
ゆらりとその体が揺らめく。
拳と目線は真っ直ぐに。

43 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:28:21.87 ID:mU7ZXrA70
ノパ听)「―――」

周囲の空気が変わる。
目に見えない変化。

(`・ω・´)「―――」

両脚を大地に付き、ヒートに向かって構えを取る。
静かに地面を踏みしめ、腰を落とす。
姿勢は揺るがない。
肩と目線は真っ直ぐに。

周囲の空気が変わる。
目に見えずとも、体で感じ取れる変化。

ノパ听)

力。
圧倒的な力で。
ヒートは全てを打ち砕く。
ただ、愛する為に。

(`・ω・´)

疾さ。
圧倒的な疾さで。
シャキンは全てを蹴り砕く。
ただ、愛する為に。

―――二人の頭にあるのは、互いの事だけであった。

44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:32:15.57 ID:mU7ZXrA70
――――――――――――――――――――

その勝負を最初に目撃したのは、一人の少年だった。
彼以外にも多くの住民がこの一帯にはいたが、誰もそれを見ようとはしなかった。
他の者がそうしている様に、少年の両親も耳を塞ぎ、五年前の悪夢を忘れるために布団の中へと逃れ、眼を堅く閉ざした。
両親は純粋な親心から、彼をいつもより早く寝付かせた。

家の外から、一際大きな破壊の音が響き渡る。
同時に、建物全体に伝わる衝撃。
それまで燻っていた少年の好奇心を再燃させ、眠気を吹き飛ばすにはそれで十分過ぎた。
現実から逃げる両親の目を盗み、少年は広場に面する小さなベランダにこっそりと出た。

そして遂に少年は、目撃者となったのだ。
彼が目にした光景は後に、彼が歩む長い人生の中で幾度となく語る事となる。
友人や家族、隣人や他人に対して、数万回問われ、少年は同じ言葉で数万回答える事になった。
その度、彼の話は例外なくこの一言から始められる。

"一目見て虜になった"、と。

まだ幼い少年の純粋な眼を通して映ったのは、未知の光景だった。
未知にもかかわらず、不思議と恐怖心は抱かなかったと云う。
少年の心は、正体不明の感情を覚えた。
それが感銘であると分かったのは、彼がもう少し成長してからの話。

少年の眼下には噴水があり、その横に立つ街灯の明かりが、二人分の影を浮かび上がらせている。
一人は、長い棒を持つ美しい女性。
もう一人は、その女性に向き合っている男性だ。
女性は棒を捨て、嬉しそうな顔になる。

45 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:36:03.15 ID:mU7ZXrA70
少年は密かに、女性の事を"小さいお姉ちゃん"と呼んだ。
何故、"小さい"のかと云えば。
向かいにいる男性よりも、その女性の方が頭一つ程小さかったからだ。
故に、その男性は"大きいおじさん"と呼ぶことにした。

不意に、二人の間に漂う空気が一変したかと思うと、少年の腕に鳥肌が立ち始めた。
確かに、少年は寝間着姿だし、今日は少し肌寒い夜だ。
だが、鳥肌の理由としてそれだけは有り得ない。
この肌寒い夜に、少年は体の芯から湧き上がる熱を確かに感じ取っていたからだ。

掌に汗が浮かび、少年は息を飲んだ。
この先、何が起きるのだろうか。
両親が目を逸らし、耳を塞ぐ光景とは、果たして如何なる物なのか。
その好奇心が、少年を最初の目撃者にしたと言っても過言ではない。

―――そして、束の間の静寂が跡形も無く破壊され、嵐が生まれた。

しかし、それは唐突の始まりではない。
幼い少年にもそれとなくではあるが、その始まりを予期できていた。
この周辺を満たす空気が、幼い少年にそれを可能にさせた。
その時、少年は確かに感じたと言う。

譬えるなら、陸上競技の短距離選手がスタート前に味わうのと同じ類の感覚であった。
スターターピストルが鳴る事を分かっていても、選手達は無意識の内にその瞬間を予期しているものだ。
多少の誤差はあれ、踏んだ場数と実力に比例してその精度は向上する。
極限まで高められた緊張が爆発する直前の、あの何とも言えない感覚。

何の計算も理屈も無い、純粋な勘。
少年は瞬きをするのも惜しんで、目の前の光景に見惚れていた。

46 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:40:06.14 ID:mU7ZXrA70
――――――――――――――――――――

大身槍を捨てたヒートの攻撃範囲と、シャキンのそれは同程度だった。
つまり、ここからは小難しい事は何もない。
ただ、拳、脚、頭、兎に角何でもいい。
己の肉体を使って、徹底的に闘い合う。

単純明快なその闘いは、最も原始的で最も分かりやすい愛情表現。
互いを理解し合う為に、時にはぶつかり合う事も必要とはよく言った物だ。
そうして得られた関係の強さは、ヒートもシャキンも経験済み。
それをより一層強くする為の、言わば儀式がこれだ。

ノパ听)「……噴っ!」

ヒートの攻撃は、石畳が陥没する程強い踏み込みから繰り出される強烈な右ストレート。
それと同時。

(`・ω・´)「……疾っ!」

シャキンの初撃は、軸足の地面が抉れる程の勢いから放たれる、鮮烈な上段右回し蹴り。
ヒートの拳とシャキンの蹴りが宙で激突して、両者が足場にしていた石畳が一層深く没した。
芳醇な一撃。
極上の料理を一口した時の様に、ヒートもシャキンもその感動に打ち震えた。

伝わる。
互いの気持ちが、その一撃から溢れんばかりに伝わる。
喜、楽、愛、悦。
ありとあらゆる歓喜の感情が、歌の様に優しく体中に伝わった。

47 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:44:08.04 ID:mU7ZXrA70
憎しみは無い。
恨みも無い。
もっと、もっと知りたい。
相手の事をもっとよく知りたい。

ノパ听)「のっ?!」

均衡を崩したのは、シャキン。
ヒートの拳を踏み台に、大きく後ろに退く。
つんのめる様にして前にバランスを崩したヒートに、着地したばかりのシャキンが迫る。
予備動作無しの両脚飛び蹴り。

両腕を交差させ、ヒートは体を護る。
その上に、シャキンの蹴りが炸裂した。
踏み止まろうと脚に力を込めるが、徒労にすらならなかった。
体重の軽いヒートの体が、木の葉の様に宙に舞う。

ノハ;゚听)「のおぁっ!」

直前までヒートがいた位置に、入れ替わる様にしてシャキンが出現。
容赦のない追い打ちが、空中のヒートに向けて放たれようとしている。
より高く蹴り上げられたヒートに、なす術は無い。
いくらヒートでも、空中では身動きが取れない。

それでも。
ヒートは、"戦乙女"。
数多の戦いを生き延び、勝ち抜いてきたヒートにとってこの状況は。
―――初めてではない。

ノパー゚)「上等!」

48 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:48:18.74 ID:mU7ZXrA70
遂に放たれた飛び蹴りが、回避不可能な位置にまで迫る。
それを、ヒートは右の拳で持って迎え撃った。
踏み込みが無くても、持ち前の筋力がそれを補う。
相殺とまではいかないが、シャキンの蹴りの威力を大きく軽減した。

受けた勢いを利用して、ヒートは宙で身を捻る。
先程シャキンがして見せたのと同じように、ヒートは建物の壁に着地。
壁を蹴り砕き、勢いよく跳んだ。
今度はヒートが重力の加勢を受け、自慢の拳を放つ。

(`・ω・´)「せぁっ!」

一歩も引かず、着地して間も無いシャキンはそれを背面回し蹴りで受け止めた。
石畳が広い範囲で砕け、小さなクレーターが生まれた。
二人同時に一旦退き、もう一度衝突する。
純粋な力の比べ合い。

シャキンの蹴り、ヒートの拳。
互いの最も得意とする、全力の攻撃。
硬い装甲同士のぶつかり合う音が、それだけで噴水の水を大きく波立たせ、窓ガラスを振動させた。

ノパー゚)

(`・ω・´)

ヒートもシャキンも、両者が浮かべる表情は実に穏やかな物だった。
誰が見ても、彼らが闘いの最中に在るとは到底思えない。
静かな森林を彷彿とさせる、優しい表情。
だが事実、彼等は闘いの最中、台風の中心にいた。

49 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:52:04.18 ID:mU7ZXrA70
両者とも、我慢が利かないと云うのに。
残された僅かな理性を押さえていなければ、二人は周囲に存在するあらゆる物を巻き込んでいた。
大げさに聞こえるかもしれないが、この二人に限って言えばそれは現実の物と成り得る。
そうならなくて済んだのは、何も彼らが気を配ったからではない。

僅かな理性が求めたのは、独占。
この甘美な時間を、誰にも分け与えたくない。
そんな"下らない事"で、この貴重な一時を失いたくない。
何故ならこれは、二人の愛情表現。

二人だけに許される、二度と訪れない最高の瞬間だからだ。
周囲の住宅を破壊するぐらいなら、その力は全て目の前の愛する人に向ける。
一片の容赦も、手加減も無い。
持ち得る全ての力を、文字通り全力でぶつけ合う。

極限までの純粋な闘争の気持ち。
これだけは、誰にも譲れない。
ぶつけ合った攻撃は、互いの命を奪いかねない。
双方共に全力となれば、それは致し方の無い事だった。

このまま単純な力比べをしていては、時間の無駄。
もっと、もっと互いの力を知りたい。
その気持ちが、両者に同じ命令を下した。
繰り出した攻撃を一度引き戻し、利き腕、利き脚ではない方

全力を出しても、自身の得意としない方を使っての攻撃。
シャキンにせよヒートにせよ、威力は互角で、当たれば必死の一撃。
左脚が、左拳が。
宙で衝突。

52 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:55:11.11 ID:mU7ZXrA70
教会の鐘を鳴らしたかのような音が、周囲に響き渡った。
それはまるで、その闘いを見ていない者への告知にも聞こえた。

――――――――――――――――――――

第二の目撃者は、家を持たない中年の浮浪者だった。
人一倍空気の変化に敏感な彼は、その日は珍しく酔っていた。
何故か今日は同業者達が餌場に出向くことを嫌がり、蓄えていたカビの生えたパンと火に掛けた水で夜を過ごすと言っていたのだ。
無論、彼にも理由は分かっていた。

確かに、都に流れる今夜の空気は異常で、どこかに出向きたくないのは分かる。
それでも、彼は餌場に行かざるを得なかった理由があったのだ。
他の者とは違い、彼は食糧を貯蔵していなかったのである。
おまけに、ここ五日は水だけで過ごしており、耐え難い空腹感を覚えていた。

そんな訳で、彼はいつも贔屓にしている店の裏に残飯を漁りに行ったのだが。
そこは、宝の山だった。
栓が開いているが、まだ半分以上残されたいかにも高級なワインが1ダースと半分。
ゴミ箱から溢れ出している残飯の中には、何と手の付けられていないステーキまである。

同業者がこの馳走の存在に気付く前に、彼は如何にも高そうな物から空になった胃袋に落とし始めた。
ステーキを手掴みで食いちぎり、ワインをボトルに口を付けて直接飲む。
滅多に飲むことが出来ない酒に涙を流し、肉厚のステーキに舌鼓を打つ。
久しぶりに摂取したアルコールに思考が霞み、異様な空気の事を忘れてしまったのは、無理もない話だった。

三日分に相当する食事を胃袋に納め、清水に匹敵するアルコールで顔を真っ赤に染め上げて、男は千鳥足でその場をふらふらと立ち去った。
無論、飲みきれなかった酒瓶を手に持つことを忘れない。
路地裏の細い道を、壁に何度もぶつかり、大量にゴミを踏みながら広場を目指した。
あの辺りには、彼の寝床があるのだ。

53 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 21:57:20.32 ID:mU7ZXrA70
高く噴き上げられた水が溜まった水に落ちる涼しげな音が、次第に大きくなる。
瞼が薄く開かれているせいでその様子は見えないが、目的地に近付いているのは間違いない。
路地裏から出て、広場に敷き詰められている石畳を踏んだ時。
男が第二の目撃者になるのと同時に、一瞬で酔いが醒めた。

―――鐘楼の様な音を、聞いたからだけではなく、現実離れした光景を目にしたからだ。

拳と脚。
両方の激突の奏でた音は、純銀や純金の鐘の音よりも高く、気高く響いた。
美しい音に劣らず、目の前の光景は男の心を完膚なきまでに奪い去る。
男の心は、少年の頃に持っていた熱を帯び出した。

久しく忘れていた。
幼年期に英雄が活躍するアニメを見た時の気持ちを。
己もそうなりたい、そうありたいと思った。
出来るのであれば、自らもその中に入り、共に闘いたいと思った。

真っ直ぐ。
只管に。
羨ましい程に。
妬ましいとさえ思える。

何が彼等をそうさせるのか。
何が彼等を掻き立てるのか。
何がそこまで彼等を振るい立たせたのだろうか。
これが羨望。

54 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:00:23.15 ID:mU7ZXrA70
嗚呼、これが嫉妬か。
跪きたくなる。
両手の酒瓶は、地に落ち、砕けて散った。
その音すら、二人には届いていないだろう。

何せ、彼等は純粋な存在。
崇め奉るに値する、無垢なる塊。
湧き水よりも透き通り、人が持つ欲と同じく分かりやすい。
これは、愛だった。

理由など、どうでもいい。
むしろ、理由は無粋でしかなかった。
繰り出される拳が。
繰り出される脚が。

目の前に映る光景の全てが、絶望的なまでに美しい。

見よ、あの拳を。
真っ直ぐで。
迷いなく。
全てを打ち砕く意志の具現たる拳。

迎え撃つあの脚を見よ。
愚直で。
躊躇いなく。
愛する者が求める全てを叶える、あの脚を。

55 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:04:26.41 ID:mU7ZXrA70
一見してそれは暴力だが。
一足距離を取れば、それは芸術。
圧倒的な美。
人が持ち、人が表現できる根底の美。

見入る。
魅入られる。
今、男の心はこの一枚の絵の前に屈服した。
男に出来たのは、この絵を瞼の裏、脳裏の奥底に焼き付ける事。

女の髪が揺れる様も。
男の目が輝く様も。
それは、死ぬまで鮮明に思い出す事が出来た。
男は、浮浪者仲間、話を訊きに来た者にいつもこう答えていた。




"あの時は、うん。
俺は、一瞬で感動したよ。
そして感じたね、これは、喧嘩や殺し合いなんかじゃないって"




56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:08:26.20 ID:mU7ZXrA70
――――――――――――――――――――

―――他の命をその手で初めて奪った時の事を、ヒートは今でも鮮明に思い出せる。

ヒートが生まれたのは、一面が白く、最新の機器が置かれた無菌室だった。
そこは病院でも、個人経営の産婦人科でもない。
日夜、"神"に近づこうと螺旋の秘密を探る者の集まる場所。
とどのつまり、遺伝子の研究所だった。

そこは歯車の都から遠く、遠く離れた都。
吹雪が舞い、細菌ですら一瞬で凍りつくと言われる、北の果てにある極寒の地。
"氷雪の都"の遺伝子研究所。
そこが、ヒートの一応の出身地となる。

海に面した崖の地下深くに作られたその施設は、氷雪の都の所有するそれであるが。
行っている事が非人道的で公に出来ない理由から、その存在は極秘とされていた。
施設の主な仕事は、世界中から特異稀な遺伝子を収拾、分析、応用する事だ。
時には集めた遺伝子の複製を試みたが、施設が出来てから成功例は一つも無かった。

集められた遺伝子を組み合わせた物を人工授精させると、高い確率で奇形児が生まれた。
目が四つある者、口が二つある者、頭が二つある者。
データ採取の為、彼等はあえてそう云った失敗作を作り、廃棄した。
こう言う時、極寒と言う自然環境が役に立つ。

生まれたばかりの奇形児達を施設の外に放置して、手間無く凍死させる。
凍りついたのを見計らい、粉砕機で粉々にして隣接する海に捨てるのだ。
こうすれば、魚がそれを食らって証拠は文字通り海の藻屑となる。
彼ら科学者にとって、失敗作に命は無い。

57 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:11:10.51 ID:mU7ZXrA70
醜い肉の塊。
それを処理する時、彼等の心が痛む事は無かった。
ただの一人も。
子供を出産する職員でさえもが、親の心を持ち合わせていない。

母体を志願する者は後を断たなかった。
成功例を産めば、それだけで人生の勝ち組になるからだ。
人の心を持ち合わせない者が集まる研究所には、常に死の匂いが漂っていた。
ある日、彼等の研究に大きな進展と共に激震が走った。

これまでとは異なる、全く新しい遺伝子の情報が手に入ったのだ。
それは、他の都にあった研究所のデータベースをハッキングした際に見つけた、貴重な情報。
他にもいくつか情報が保管されていたのだが、これだけしかダウンロードが出来なかった。
こちらのハッキングに気付いたのか、次の情報に手を出そうとした時、強制的に遮断されてしまったのだ。

だが、これは大きな一歩であった。
それこそ、人類が月に大量のゴミと一緒に足跡を残したのと同じぐらいに。
遺伝子情報を手に入れた彼等は、直ぐに研究に取りかかった。
その情報は幾重にもプロテクトが掛けられていたが、最初期に開発された型のプロテクトであった為、解除は容易だった。

圧縮ファイルに収められていたのは、数字の羅列。
この数字こそが、命を形作る螺旋の秘密だ。
このままでは使用できない為、彼らが独自に生み出してきたこれまでの研究を基に、螺旋に最小限の手を加えた。
いつもの様に失敗と屍を重ね、遂に数字の羅列から一人の女児が生まれた。

目立った奇形も、障害も無い。
理想的な健康体。
無菌室の中で生まれた赤子に、彼等は番号から取って付けた名を与えた。

No.1110―――ヒートと言う名を。

60 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:14:11.04 ID:mU7ZXrA70
生後数日が経過してから間もなく、最新最高の医療機器による精密検査が行われた。
診断結果を見た科学者達は、実験の成功を実感した。
ヒートの体は、やはり常人とは大きく異なっていたのだ。
今現在の段階で、同年代の赤子の数十倍の筋力。

それでいて、体型には一切現れない。
つまり、筋密度が桁外れに異常だった。
彼等は遂に生み出すことに成功したのだ。
先行研究があるとは雖も、基となる遺伝子に手を加えたのが彼らである以上、新たな人類の誕生を担ったのが彼らであるのは揺るがない。

大義名分としては、人類の発展。
本音を言えば、自己満足。
それでも、十分な成果だった。
この遺伝子を更に研究して行けば、これ以上の結果が得られる。

いずれは、この成果も過去の遺物となるだろう。
その時までは精々、この新しい玩具で楽しませて貰う。
科学者達は皆一様に邪悪な笑みをその顔の下に浮かべ、算出された桁違いのデータを見入っていた。
これを学会なり、世間なりに公表して得られる莫大な利益は勿論だが。

科学者達が夢想してやまない、歴史に名を残すと言う名栄も得られる。
その為に彼らがすべき事は、多く残されていた。
まずは研究の経過を事細かに残して、書類を製作しなければいけない。
数年、いや、最低でも十年分のデータがいるだろう。

しかし、それと引き換えに得られる物の価値を考えれば、手間ですらない。
彼らがやらない理由は、どこにもなかった。
同じ遺伝子情報を元に、彼らが更に手を加えて作り出した子供も一緒に育て、作業の効率性を上げた。
これなら例えヒートが死んでも、残された実験体がその代わりを務められるからだ。

61 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:17:03.83 ID:mU7ZXrA70
幼児教育における環境は、子供の将来と成長に大きく影響する。
だと言うのに、彼等はヒート達を道具としてしか見ていなかった。
ただの道具に愛情も糞も無い。
せいぜい、モルモットに接する程度の最低限の触れ合いしかしなかった。

ヒートの性格の一部が歪んでいるのは、恐らくそのせいである。
一人で歩き始めた頃から、彼等の研究は本格的に始まった。
寸分の狂いなく栄養計算のされた離乳食は、吸収性と栄養素だけを重視した物で、味も香りも楽しみも無い。
その離乳食の中に、彼等は筋肉と知能の発達を促進させる特殊な薬を毎食混入した。

言葉を発するようになってから、ヒート達には共同の部屋が与えられた。
天井も床も壁も白く、天井に電燈は設置されておらず、代わりに天井全体が淡く発光していた。
遊具は一つも無く、あるのは白いベッドと必要最低限の家具と、タンスの中にある同じ種類の衣類だけ。
男は白い長袖の上着と、長ズボン。 女は、膝下までの長さがある白いワンピースだった。

食事やプログラムがない時は、部屋にある硬いベッドの上に強引に寝かされた。
プログラムとは、幼児教育と実験の経過を調べる為の検査の事だ。
そして、教育の一環として有効とされている小動物との触れ合いをさせた時、それは起きた。
その日は、ヒートを含めた幼児数人を部屋の一角を柵で囲んだ場所で、兎数羽と遊ばせていた。

ほとんどの幼児は兎を抱きしめたり、追いかけたりとそれらしい事をしている。
同様に、ヒートも兎をその胸に抱きしめた。
その瞬間。
ヒートの腕の中から、何かが砕ける音が上がったのだ。

ノパ听)「うしゃぎしゃん……?」

62 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:21:03.21 ID:mU7ZXrA70
本人は元より、周囲にいた子供達は何が起きたのか分からず、不安げに兎を抱き込んだ。
ぐったりとした兎の亡骸をヒートは揺さぶるが、兎の背骨と脊髄は砕かれ、既に息絶えている。
これが、ヒートが初めてその手で他の命を奪った瞬間である。
呼びかけても反応がなく、ヒートは次第に涙目になって、遂には泣き出した。

釣られるようにして、他の子供達も泣き始める。
だが大人達は、それをあやそうとはしない。
この光景を見ていた大人達の反応は、子供達のそれとは大きく異なっていた。
珍しく、彼等は感動していたのだ。

研究員A「……素晴らしい」

研究員B「はははっ、こいつはいい。
      まだ楽しめそうだな」

未だ単語での会話能力しかないヒートが、命を奪った。
道具を用いず、ただ、抱きしめただけで。
"抱き殺した"。
この事実は、研究者達の探究心を揺り動かした。

数十倍の筋力、その偉大なる成果。
ヒートが兎を抱き殺したその日から、ヒートだけが数時間にも及ぶ検査を毎日決められた時間に受けさせられた。
筋肉の発達速度、発達の度合い。
ありとあらゆる情報が、研究者達にとっては未知の物だった。

注射による血液採取、薬物投与等を一日に数十回。
泣いても喚いても、アフリカ象でも一瞬で眠りに付くと言われている強力な麻酔を施されて、注射は強制的に執行された。
しかも、ヒートの筋肉の硬さのせいで注射針を何度も折り、その度に注射は繰り返し行われた。
成人し、妙齢の女性となった今でもヒートが注射を嫌がるのはこの為である。

64 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:25:22.86 ID:mU7ZXrA70
今からは想像も出来ないが、当時のヒートは寡黙だった。
感情と言うものが欠落したその様は、人形の様に温もりを欠いていた。
ヒートが成長するにつれて周りにいた友人は一人、また一人と死に、白くて何もない部屋に最終的に残ったのは、ヒートだけだ。
人為的に遺伝子を操作した結果、彼等に待っていたのは短命と言う残酷な運命だったのだ。

完成された美術品に素人が手を出せば、それは美術品では無く、ただの落書きに成り果てるように。
とある都から盗んだ遺伝子情報は、既に完成の域にあったのだ。
それに手を加えた遺伝子は、まるでそうなるよう設定されていたように、彼らが手を加えた子供達は死んだ。
唯一オリジナルに限りなく近い遺伝子を持つヒートだけが生き延びているのは、そう云う訳であった。

歳が二桁に至った頃になると、必要な研究結果はあらかた出揃っていた。
この研究を義手や人工筋肉などの技術に応用して発表すれば、科学者として最高の栄誉が待っている。
その筈だった。
遺伝子情報の入手元である都が、まるで見計らったかのようなタイミングで、"こちらがしようとしていた事"を発表しなければ。

しかも、その発表の仕方が彼等にとっては最悪でしかなかった。
昔に完成されていた研究書が偶然発見された、と発表したのだ。
おまけにその内容は、彼等の物とは比較にならない物であっただけでなく、遥か昔に確かに存在した紛う事無き先行研究。
彼等の研究は先行研究の真似事でしかなく、後一歩と言う所で夢は無残にも断たれてしまった。

発表前日までお祭り騒ぎだった研究所は、途端に暗澹とした空気に包まれた。
これまで集計して来たデータも、もはや紙屑、いや、再利用できない辺りそれ以下の価値しか持たなかった。
では、そのデータ元はどうであるか。
言うまでも無い事だが、不要に決まっていた。

そして、ヒートの廃棄処分が決定され、翌日の朝にそれは実行に移された。
このまま生かして置いても、予算の無駄でしかない。
常人の数十倍の密度を持つ筋肉の情報は、既に医療方面に流され、実用に至る研究が推し進められている。
パソコンをアップグレードしたとして、その前のバージョンの情報をいつまでも保存しておく程、あらゆる意味で彼等に余裕は無かったのだ。

65 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:29:36.99 ID:mU7ZXrA70
研究員B「食事だ」

短く告げられた言葉に、ヒートは椅子に座って押し黙ったまま視線を向ける。
白衣を着た男は、その手に食事の乗ったトレイを持っていた。
湯気も香りすら無いそれは、果たして食事と言える物なのか。
しかし、これがヒートにとっての食事であったのだから、確かにこれが食事と言えた。

少なくとも、ヒートにとっては。
この栄養素を補い、空腹を申し訳なさ程度に満たす物こそが食事。
それ以外に食事を知らない。
ただ、その日の朝食は少し違った。

いつもと献立が違う。
茶色くてドロドロしたあれや、緑色をした少し硬いあれでもない。
あったのは、平べったい一皿だけ。
灰色に近い色をした液体だった。

トレイからそれを受け取って机に置き、スプーンを手に取る。
おかしい。
絶対に、おかしい。
ヒートは己の感覚で、この異常を察知した。

食事を持ってきたらどこかに行くはずの男は、未だどこかに行く気配すら見せない。
スプーンで皿の液体を掬い取る。
口元まで運ぶと、男が笑ったのが確かに分かった。
気付かれないよう、すん、と鼻を鳴らして液体の匂いを嗅いだ。

酷い匂いがした。
今まで嗅いだ事のない臭いに、ヒートは液体を皿に戻す。
机の上にそれを置くと、ヒートはそっぽを向いた。

66 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 22:32:31.23 ID:mU7ZXrA70
研究員B「どうした、食事をしろ」

催促されても、ヒートは食べる気にならなかった。
確かに腹は減っている。
それでも、これは食べてはいけない。
それだけはハッキリと分かった。

この時、ヒートの心に"疑念"が生まれた。

研究員B「食えと言っているだろ」

男の声が怒っているのが分かる。
でも、譲れない。
譲ってたまるか。
従う訳にはいかない。

この時、ヒートの心に"意地"が生まれた。

研究員B「何度も言わせるな!」

いつまでも"毒入り"スープを食べようとしないヒートに痺れを切らし、男は机を叩いた。
がしゃん、と皿とスプーンが音を鳴らす。
少し跳ねたスープが、白い机の上を汚した。
ヒートは、この食事を食べないと決めている以上、何を言われても食べるつもりはない。

研究員B「この餓鬼!」

76 名前:すみません、連続猿くらってました 投稿日:2010/05/30(日) 23:20:26.45 ID:mU7ZXrA70
言葉の意味が分からなかった。
"がき"とは、何と言う意味なのか。
男は肩まで伸びたヒートの髪を掴み、椅子から持ち上げた。
痛かった。

この時、ヒートの心に"苦痛"が生まれた。

研究員B「大人しく俺の言う事を聞け!」

思い切り投げられた。
髪の毛が何本か抜けた。
痛い。
ヒートは地面に顔を打ち付ける。

この時、ヒートの心に"憤怒"が生まれた。

ノパ听)「……」

研究員B「何だ、その眼は!」

倒れたまま、ヒートは男を睨んだ。
向けられた視線は鋭く、一瞬だけ男は恐怖を感じてしまった。
相手はまだ十歳になったばかりの少女、否、モルモットだと言うのに。
故に、男はそれを誤魔化す為に叫んだ。

ヒートの眼光は、伝説に聞くバジリスクと同じ。
見られただけで全身に猛毒が廻り、死に至る。
男はこれ以上、その視線に耐えられなかった。
ヒートの頬を打とうと、手を上げる。

78 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 23:25:06.28 ID:mU7ZXrA70
研究員B「モルモットの分際で!」

振り下ろされた手がヒートの頬に触れる直前で、その手は止まった。
喧嘩はおろか、暴力とは無縁に生きて来た男の攻撃は、ヒートからすれば亀の如き愚鈍さであった。
手首を掴み、徐々に力を加える。

研究員B「な、この!」

ヒートの筋力は知っているが、それはあくまでも数値だけ。
実際に己の体で体感した試しは、当然無かった。
無表情で力が加えられ、男の手首が軋みを上げる。
そしてそのまま、手首が潰れた。

研究員B「ひぃいいい?!」

男は情けなくも、声を上げて泣き出した。
それでも、ヒートは攻撃を止めない。
握り潰した手首を、更に細かく砕く。

ノパ听)「お前、嫌いだ」

研究員B「誰か、誰か助けてくれぇぇぇ!」

白い部屋に絶叫が響き渡る。
部屋のどこかに設置されていた監視カメラを見ていた警備の者は、直ちに応援を向かわせた。
手際がいいとは言えなかったが、相手は子供である。
少し睨んでやればそれまでだ。

跫音を荒々しく、二人の警備員が部屋に踊り込んで来た。
その手に持つのは、連射が可能な麻酔銃。

79 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 23:30:12.65 ID:mU7ZXrA70
警備A「こら、やめろ!」

警告の言葉と共に、銃口をヒートに向ける。
だが、ヒートは銃の意味を知らない。
あれは何だろうか、注射でなければ怖くない。
ヒートは多くを知らな過ぎたのだ。

それ以上に、白衣の男は致命的な事を知らなかった。
暴力、そして痛み。
生命の持つ、その計り知れない何かの存在を。

ノパ听)「おじさん達も、嫌いだ」

掴んでいた男を、ヒートは後ろに放り捨てた。

研究員B「へべ?!」

成人男性を軽々と放り捨てたのもそうだが、そのまま壁に激突して頭が潰れた男の姿を見て、警備員達は背筋に冷たい物が走るのが分かった。
人間の持つ原初の感情。
つい今し方頭を砕かれて死んだ男とは違い、こちらの警備員は暴力と痛みを知っている。
だが、ヒートを知らない。

警備A「ちっ、この化物が!」

麻酔銃では無く、象撃ち銃を持ち出すべきだった。
そう後悔したのは、男が銃爪を引く前に麻酔銃を桁外れの力で破壊され、左の拳で顔面を砕かれてからの事である。
もう一人いた警備員は、その現実離れしすぎた光景に銃を構える事を忘れていた。

警備B「あ、あああ……」

81 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 23:35:10.70 ID:mU7ZXrA70
顔が陥没した同僚が骸となって地に伏し、ヒートが目線をこちらに向けた時、男は初めて怯えた声を発した。

ノパ听)「おじさんも嫌い」

無垢な瞳。
穢れの無い、子供だけが持つその眼差し。
その瞳に吸い込まれるようにして、男の意識は徐々に遠のく。
ヒートが男の首を折るまで、男の眼は虚ろなままだった。

それから、ヒートは今まで興味はあっても決して立ち寄らなかった場所に、次々と足を運んだ。
例えば、職員専用の食堂。
まだ朝なので人は疎らだったが、白いその空間に数十人はいた。
突然の来訪者に、職員達は眼を丸くして驚いた。

男「警備の者は何をしている!」

女「あら、モルモットが何でここにいるの?」

誰も気付いていない。
自分達の目の前にいるのは、無垢なる殺戮者。

その場所にいた者を、無抵抗の内に皆殺しにすると、白かった空間は赤黒い血で上塗りされた。
返り血が斑に付いた白い服は、あたかもそれが一種のデザインの様にも見える。
頬に付いたまだ温かい血を手の甲で拭い、ヒートは入って来た扉から外に出た。
今度は、隣の部屋に移動した。

扉を開けると、そこには食堂にいたのと同じ格好をした人間が数人いて、何か話し合っている。
ヒートに気付くと、先程と同じ表情でヒートを見て、同じ反応を示した。
偶然にもその中に、ヒートを出産した女性もいたが、ヒートはそれに気付いていない。
それどころか、母親が誰かも、母親の意味も知らなかった。

82 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 23:40:20.72 ID:mU7ZXrA70
そして同じように、彼等は数分もしないで物言わぬ骸になった。
次にヒートが訪れたのは、職員達の寝室だった。
来訪者に気付かず、大きな寝息を立てる警戒心の欠片も無い者を、一人ずつ首を折って殺すのは非常に楽な作業だ。
何の滞りも無く、寝室にいた職員全員を縊り殺した。

最後にヒートがやって来たのは、この研究施設の最も奥にある部屋だった。
部屋の前には、紺色の服を着た警備員が、短機関銃を手に立っている。
ヒートの接近に気付くと、銃口を向け、言い放つ。

警備員G「止まれ。
      おい、聞こえないのか?
      止まれと言っている!」

ノパ听)「やだ」

警備員G「言っておくが、俺は餓鬼でも容赦しないぞ。
      最後にもう一回だ、いいな。
      もう一回だけ言ってやる。
      今すぐそこで両手を上げて止まれ!」

ヒートは眉を顰めた。
五月蠅い上に、偉そうな振る舞いが気に入らない。

ノパ听)「……やだ」

警備員G「じゃあしn―――」

ノパ听)「嫌い」

83 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 23:45:11.58 ID:mU7ZXrA70
飛び掛かりざまに顔を鷲掴みにされて押し倒された男は、あまりの激痛に短機関銃を手放してしまった。
対格差、身長差共に勝っているはずの大人の男が明らかに負けている。
男がヒートの事を知らないのはしかたが無いことだったが、力量を見る目が無かったのは男の責任である。
ヒートの手を顔から離そうと、その細い手首を掴むが、ビクともしない。

警備員G「あ、が、がぁぁぁぁぁっ!?」

めきり、と顔から音がした。
その音は更に数を増やし、ヒートが掴んでいる頬の骨を砕いた。
頬骨が砕けても、ヒートはその行為を止めようとしない。
楕円だった輪郭が、ヒョウタンの様に変形を始める。

やがて男の抵抗する力が弱まり、遂に何の反応も示さなくなった。
男を後ろに投げ捨てると、50メートルほど先の壁に激突して、壁にめり込んだ。
最も、ヒートはそんな些細な事を気に掛けるつもりは毛頭ない。
彼女に負の感情を抱く者を、殺して、殺して、殺す。

ここにいる者全てを、殺してやる。
仲間を殺した。
同胞を殺した。
故に、殺す。

今のヒートは、自我と感情に目覚めたロボットの様な存在だ。
これまで自分を虐げて来た者に対して最初にする事、それは復讐。
やられたら殺り返す。
報復を、復讐を。

ノパ听)「……」

85 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 23:50:15.33 ID:mU7ZXrA70
目の前にある白い扉を蝶番ごと取り外して中に入ると、焦げ茶色の髪をした中年の男が綺麗に整頓された机の前にいた。
灰色の髭を蓄え、窪んだ眼窩から突然の来訪者に向けられた黒い瞳は静かであった。
ここに来るまでに殺してきた人間とは、何かが違う。
掴んでいたドアノブを離して、扉を傍らに捨てた。

「……やはり、来たか」

大きな椅子の背に深々と凭れかかっていた男が、口を開いた。

ノパ听)「おじさん、だれ?」

所長「私は、ここの所長の……
   いや、要するに、ここで一番偉い人だ」

ノパ听)「えらい?」

偉いという言葉は、ヒートの検査をした研究員達がよく話していたのを耳にしている。
ただ、意味は知らない。

所長「偉いと云うのは、誰かの上、誰かよりも"凄い人"だと云う事だ。
    ……ここに来るまでに、どれだけ殺した?」

ノパ听)「たくさん」

所長「そうか。
    私も殺すか?」

ノパ听)「うん」

所長「ならば、その後はどうする?」

86 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/30(日) 23:55:17.42 ID:mU7ZXrA70
ノパ听)「知らない」

本当に、知らなかった。
何をしていいのかも、何をすればいいのかも。
初めて芽生えた感情に身を任せて殺しまくったのはいいが、その後は何も考えていなかった。
困った。

所長「……これは提案だが、旅をしてみたらどうだ」

ノパ听)「たび?
    たびって、何?」

旅でさえ、ヒートにとっては真新しい単語だった。
あの白い部屋にいたら、一生知ることの出来ない言葉だっただろう。

所長「外の世界に行く事だ。
   この場所から遠く離れた、別の都や土地に行く事だ」

ノパ听)「おもしろそう」

所長「あぁ、面白い。
   その為には、この場所から出なければいけない」

ノパ听)「じゃあ出る」

そのまま踵を返そうとしたヒートを、所長は引き止めた。

所長「まぁ待ちたまえ。
   外は氷と雪の世界だ。
   そのままの格好で出て行ったら、あっという間に凍りついてしまうぞ」

88 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:00:21.57 ID:1TQgK50X0
ノパ听)「にゅう……」

ヒートは更に困った。
格好云々と言われても、服はこれしか持っていない。
外の寒さを直に味わった事がないが、寒いのは嫌いだ。
随分前に、とても寒い部屋に入れられて、これが"寒い"、と教わった事がある。

あれよりも寒いのは御免だった。

所長「これを着て行くと良い」

所長は、机の引き出しから、茶色い布と靴を取り出した。
白色ばかりを見て来たヒートからすれば、その布の色はとても珍しい物に映った。
だが、二つとも薄い。
今自分が着ている服と大差ないように見えるし、靴は履いても履かなくても同じにしか思えない。

所長「この布は、とある都で発明された少し特殊な繊維で編まれている。
    バラが凍りつく気温の中で寝ても、これを纏っている限り凍死する事は無い。
    水が一瞬で蒸発する場所でも、ミイラにならないで済む」

ノパ听)「ほんと?」

所長「ああ、本当だ」

差し出されたそれを受け取って、ヒートは直ぐにそれを身に纏った。
上に羽織ったローブは今のヒートには大きすぎ、余った布が柔らかい絨毯の上に広がる。
靴は上膝まであり、まるで長い靴下の様な感じがした。
少し間を開けて、所長は少し考える仕草を見せた。

そして、もったいぶる様にしてこう言った。

92 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:05:21.99 ID:1TQgK50X0
所長「……ところで、君は自分が何者なのか、知っているかな?」

ノパ听)「ううん、知らない」

首を横に振る。

所長「だろうな。
   君は多くの事を知らな過ぎる。
   いいだろう、私が、私が教えよう。
   多くを知らない君に。

   君は、私達に作られた人間だ。
   神に挑み、技を盗み、そして敗れ去った。
   その結果が、君だ」

それまで、隠遁とした雰囲気を醸し出していた男の雰囲気が一変した。
男が見せた感情の名前を、ヒートは知らない。
感情を構成する基礎の、喜怒哀楽以外、ヒートは教えられていなかった。
より細かい人の心の在り様を説明する為のそれは、実験動物に細かい躾をしないのと同じで、研究に不要と考えられた為である。

とは言え、名前はあくまでも後付け。
所詮は他人に伝える為、即ち説明する為の物に過ぎない。
要は、自分が分かっていればいいのだ。
ヒートは己の中で、男の状態がどうなっているのかを考え、理解した。

怒りのようにも感じたが、少し違う気がした。
難しい言葉はよく分からないが、言おうとしている事は分かる。
今から所長が言わんとしているのは、ヒートの出生の秘密。

93 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:10:13.32 ID:1TQgK50X0
所長「そう、君は"歯車の都"から盗んだ遺伝子情報を元に私達が作り上げたのだ。
   この世界の歴史に、永遠にその名を刻む為に。
   だが、"歯車王"はそれを許さなかった。
   あの都が、君の人生を狂わせたのだ。

   君に渡したその服も、そこで作られた物だ。
   ……ここを出て直ぐ、右に曲がり、そのまま真っ直ぐ行くとこの施設の出口がある。
   後は、自由にしたまえ」

歯車の都。
歯車王。
この時、この二つの単語はヒートの記憶に強く刻まれた。
ヒートの人生を翻弄する、二つの名を。

所長は何故、ヒートにこれらの情報を教えたのか。
良心の呵責か、それとも歯車王に対する復讐か。
はたまた、途方も無い何かの陰謀なのか。
それを教える間もなく所長が殺された今となっては、全ては闇の中である。

一人で研究施設を壊滅に追いやり、死の施設へと変えたヒートは殺す前に所長が教えてくれた道を進んだ。
三十分程して厳重にロックされた扉が、ヒートの前に現れた。
この扉があらゆる冷気を遮断し、如何なるウィルスも通さない。
銀行にある金庫の扉並みの強度があり、銃弾や爆薬でもビクともしない鋼鉄の扉。

解錠する為にはトップレベルのセキュリティカードをスキャナーに通した後、指紋認証をしなければならなかった。
カードはおろか、偶然指紋が一致する事は有り得ない。
しかもヒートはカードの存在も、指紋認証以前に指紋の意味も知らなかった。
誰かに訊こうにも、この施設で息をしているのはヒートだけである。

95 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:15:10.23 ID:1TQgK50X0
ヒートは迷うことなく拳を固めた。
確か、こうして。
―――こう。
思い切り拳を扉に叩きつけた瞬間、爆音が響いた。

扉が接続されていた壁もろとも吹き飛び、それは直ぐにヒートの視界から消える。
視界に映る景色に感動していた為、殴り飛ばした扉がどこに消え去ったかは知らない。
目の前には、昇り始めたばかりの太陽が柔らかくも力強い光を放っている。
大地の全ては太陽光を反射して、キラキラと白銀の輝きで溢れ返っていた。

空は透き通った蒼色をしていて、どこまでも突き抜けるように高い。
白くて柔らかそうな雲が、ゆっくりと空を飛ぶ。
強い風は刺す様な冷たさだったが、ヒートの思考を覚ますには不十分だった。
何かに誘われるかのようにして、ヒートは一歩を踏み出した。

ずぼり、と足が雪に埋まった。
それから、ヒートは新しい世界を堪能しつつ、もう一歩。
行き先のアテは無い。
だけど、ここにいても仕方がない。

斯くして、ヒートは本当の"自由"を手に入れた。
柔らかい雪の上を進むにつれてヒートの体は徐々に雪に埋もれて行き、遂には腰まで埋まってしまった。
歩く速度が地上変わらないのは、彼女の筋肉の為せる技であった。
ただ一人、十歳になったばかりの少女の孤独な旅はこうして始まったのだ。

難無くとは言わないが、旅は信じられないほど順調に進んだ。
見渡す限り雪と空しかない風景は、確かに陽のある内は絶景の部類に分けられる。
緩やかな傾斜の下り坂に、一人分の移動の跡を残して進む様子は世界で唯一の旅人を思わせた。
ところが、夜になると昼間とは一変し、途端に厳しい自然が猛威を振るった。

97 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:20:08.30 ID:1TQgK50X0
風と寒さからその身を守るため、ヒートは深く積もった雪の中に穴を掘って難を逃れた。
所長が手渡した布はかなりの優れ物で、唯一覆われていない顔以外は確かに寒さを感じない。
それに全身が包まる様にして、夜を過ごした。
月が沈んで風が弱まり、空が瑠璃色になる頃に起床して行動を再開した。

朝焼けに目を細めながら、ヒートは雪原を進んだ。
施設から出て二日目、旅の途中で野生の狼の群れに遭遇した。
犬と狼の区別が付けられないヒートは、それを犬だと思った。
雪の影と同じ色の瞳を持つ銀に近い灰色の毛をした狼は最初、警戒と威嚇をしていたが、リーダー格らしき一頭がゆっくりとヒートに近付いてきた。

至近距離にまで来ると、鼻を鳴らしてヒートの香りを嗅ぎ、鼻を顔に擦り寄せた。
少なくとも、敵意は無いらしい。
人間よりも野生に近い感覚を持つヒートは、その事を直ぐに理解した。
見様見真似で、ヒートも狼の顔に己の鼻先を擦り寄せる。

ヒートの頬を、狼のざらついた舌が舐めた。
獣の匂いが酷かったが、くすぐったくて思わず笑ってしまう。

ノパー゚)「くふふっ」

今度は壊さないようにして、手を伸ばして軽くじゃれ合う。
群れの長はヒートが無垢で無害な、それでいて傷つけられない存在だと判断した。
声を用いない伝達方法で、その事はすぐさま仲間の狼達に知れ渡った。
変わった遊び仲間が出来たとあり、廻りで事の成り行きを見守っていた狼達はヒートと遊ぼうと駆けて来る。

辛抱たまらず、ふかふわの雪の上に飛び上がったヒートは、早速狼に遊び方を教えてもらった。
全身を使って、相手に好意を伝える。
それが、ヒートが初めて知った遊びを兼ねた友好の示し方だった。
しばらくの間、そうしてじゃれていると、先程ヒートを仲間と認めた群れの長が遊ぶのを止め、耳をピンと張って首を上げた。

99 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:25:19.04 ID:1TQgK50X0
ほぼ同時に、ヒートも雪の上に身を伏せて同じ行動を取っていた
少し遅れて、ヒートと遊んでいた狼達もそれに倣う。
全員の視線は、雪原の真ん中辺りにある岩陰に向けられている。
一見して、そこにあるのは巨大な岩と影だけ。

視力に自身のある者が目を凝らしても、精々岩に苔が生えているのが見えるぐらいだ。
白いキャンパスにある灰色の影、そこにいる生物の存在を知覚できるのは野性に生きる物だけだ。
狼よりも僅かばかり早く岩陰に目を向けたヒートであるが、そこに何があるのかまでは分かっていない。
ただ何かがいる、と云うのを感じ取った程度である。

一方、流石と云うべきだったのは狼達であった。
如何なる方法で伝達しているかは分からないが、長は跫音も無く岩に向かって大周りで移動を開始した。
気配は無く、鋭い視線は岩陰に向けられたまま。
残された狼達は長とは違い、しゃり、と跫音を立てて岩陰にゆっくりと近づく。

問題の岩は、ヒートが歩いて来た道の途中にあった。
岩のすぐ横の雪は、一本の爪が抉った様に削られている。
あれが、通って来た道だ。
あの岩を通り過ぎる時、ヒートは特に何も感じなかった。

気がつけば、群れの長はヒート達よりも岩に近い位置に来ている。
風は、静かな向かい風。
雪上の軽い雪が湯気の様に舞い踊り、幻想的な光景が広がる。
この場を包む狩りの空気が、より一層の拍車をかけた。

呼吸も忘れ、ヒートは静かに待つ。
今し方、友人となった狼達がヒートの目の前を塞いだ。
静かに揺れる尻尾は、高鳴る鼓動を押さえ切れていない証。
ひょっとしたら、あえてそうしているのかも知れない。

103 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:30:32.85 ID:1TQgK50X0
群れが岩へと近づく。
長は、すでに岩の裏側に来ていた。
ヒートは自分が邪魔にならないか、少しだけ不安だった。
この純白のキャンパスの上では、彼女が纏う茶色のローブはあまりにも目立つからだ。

目で見て、肌で感じる狩りの空気は未熟なヒートに多くの事を一瞬で教えた。
程なくして、緊張が一気に弾けた。
ヒートの前に横列に並んでいた狼達が、声も無く一斉に駆け出したのだ。
その時、狼達の脚の間からヒートは岩陰を凝視した。

何かが、動いた。
それが向かう方向は、当然迫って来る狼とは逆方向。
そこに、群れの長がいるとは知らず。
知ったのは、強靭な顎にその身を噛み砕かれた時だった。

長の口から、鮮やかな紅血が雪の上に滴り落ちる。
獲物を狩り終えたと知ると、群れは駆けるのを止めた。
ヒートの元に、獲物を咥えた長と荒い息をする狼達が戻って来る。
ゆっくりと立ち上がりかけたヒートの前に、長は獲った獲物を置いた。

白い毛をした、長い耳の生き物だった。
前に抱き殺した兎によく似ているが、毛の色が違う。
それよりも今は、こうして目の前に置かれた兎の意味が、ヒートには分からなかった。

ノパ听)「これ、どうするの?」

人間の言葉が狼に通じるわけがない。
長は少しヒートの瞳を見て、鼻先で殺したばかりの兎をヒートに押し転がした。

ノパ听)「くれるの?」

106 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:35:34.18 ID:1TQgK50X0
大丈夫だ、と狼の眼は確かにそう言った。
ここに来る前に出された最後の食事は、明らかに食べられない物だった。
しかも、ヒートの知っている食べ物と云うのはあのスープか固形の栄養補給食だけ。
兎を渡されても、それを食べるという事を考え付かなかった。

そうしていると、狼はヒートがどうしていいのか分からないのだと悟ったのか、前脚で兎を押さえ付け、その一部を噛み千切った。
野生に生きる狼らしく、よく噛まないでそれを飲み込んだ。
それを見たヒートは、兎は食べる物だと知った。
まだ温かい兎の死体に、空腹のヒートも口を寄せる。

血の匂いが凄いが、嫌悪感は抱かない。
噛めるだけの肉を思い切り噛むと、あっさりとそれは噛み千切れた。
肉はまだ温かく、これまで食べて来たどの食事よりも硬かった。
そして、美味しかった。

複雑そうな顔から笑みを浮かべると、他の狼よりも一回り大きい長が、ヒートの頬に付いた血を舐め取ってくれた。
少ない兎の肉は、他の狼達も少しずつ食べ、最後に骨だけが残った。
食事を終えたヒートは、群れと共に緩やかな傾斜を下り始める事にした。
もちろん、黙々と下るのではない。

擽ったり、抱き合ったりとじゃれ合いを重ねながらの楽しい物であった。
やがて、見渡す限りの景色を覆っていた真っ白な雪の世界とは、別の光景が見えて来た。
雪がまばらに積もった岩場は、何か見えない境界線でもあるかのように雪原と綺麗に別れている。
そこで、狼達の行進は止まった。

ノパ听)「にゅ?」

109 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:40:17.80 ID:1TQgK50X0
止まるのが遅れて、ヒートは狼達よりも10メートル程前に出てしまった。
何事かと、ヒートは振り返る。
降りている最中は気付かなかったが、結構な距離を下って来ていた。
そんなヒートを、狼達はじっと見つめていた。

ノパ听)「どうしたの?」

狼は何も言わない。
ただ、その表情は心なしか寂しそうに見えた。
泣いている様な、聞いているだけで悲しくなってしまう声を出したのは、ヒートに一番懐いていた狼だ。
その周りの狼達も、釣られるようにして泣き声を上げる。

ノパ听)「……」

唯一、ヒートと長だけはその中で泣いていなかった。
しかし、その理由は別々だ。
狼の長は、短い間であったが確かに仲間であり、群れの一員であったヒートを気に入っていた。
それでも、その者が進むべき道を邪魔してはいけない。

一方のヒートは、人生で初めての経験に、どのような反応をすればいいのか分からないでいた。
胸の奥がざわめくこの奇妙な感覚は、初めてだ。
そうして向かい合ってから、どれだけの時間が経過したのか、よく覚えていない。
太陽が真上に来た時、群れの長はヒートに背を向けた。

それから、静かに雪原に戻って行く。
咄嗟に、片手を伸ばそうとしたが、ヒートは直前で思い留まった。
最後に群れの長が教えてくれたのは、一つの理。
これが、野生の理だ。

110 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:45:04.58 ID:1TQgK50X0
二度と逢えないかもしれない。
彼等は野性に生きる物。
ヒートとは、とことん違うのだ。
それでも芽生えたこの気持ちは、今ならヒートにも分かる。

寂しい。
悲しい。
だから、言うべき言葉はただ一つ。

ノパー゚)ノ「またねー!」

長に続いて帰りかけていた狼達の動きが、一瞬止まる。
その直後。

"――――――ッ!!"

長い遠吠えが、一斉に大気を震わせた。
遠吠えは長く、長く続いた。
風に乗り、遠く離れた集落にまでそれは届いたという。
やがて遠吠えは細くなって、消えた。

狼達は振り返ることなく、彼等の生きるべき場所へと進む。
彼等の遠吠えが終わった時には、ヒートもすでに前に向き直って歩き出していた。
野生の理に、別れを惜しむ事は無い。
別れよりも出会いを、そして何よりも絆を。

絆があるから、離れていても大丈夫。
いつの日か逢えたら、それは幸運。
短い付き合いだが、彼等はもう既に親友だ。
何の打算も、癒しい気持ちも無い、正に文字通りの親友。

113 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:50:41.33 ID:1TQgK50X0
―――それ以降、彼らが出逢う事は無かった。

ゴツゴツとした足場は、先程とは違って歩きにくかった。
だが、進むにつれて景色に変化が見受けられるのは、先程よりも新鮮だった。
最初は雪がところどころに積もっていただけだったが、それが無くなり、代わりに草が見受けられた。
岩の下から生える草が、次第に増えて行く。

遂に岩場を抜けたヒートが来たのは、のどかな草原だった。
雪原とは異なり、ここでは風が吹く度に心安らぐ音が鳴る。
ざざざ、と。
草の高さは、精々がヒートのくるぶし程度。

この辺りに来ると、傾斜は無くなり、平坦な土地が広がっている。
物珍しげに辺りを見渡して、ふと、目に留まるものがあった。
白い。
第一印象は、雲だった。

空に浮かんでいる白い雲の様に"もくもく"としたそれは、実にゆったりとした動きで草の上を動いている。
興味のままに、ヒートは20はいるそれの内の一つに向かって歩いて行く。
近くで見ると、それは初めて見る生き物だった。
白い顔をしているそれは、足元の草をせっせと食んでいる。

ノパ听)「これ、おいしいの?」

が、それは答えない。
ヒートなど眼中にないかのように、草を食むのに集中していた。
他のそれも同様に、あちこちで草を食んでいる。
つまり、それほどこの草は美味しいのか、とヒートは考えた。

114 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 00:55:05.16 ID:1TQgK50X0
真似をして、ヒートもその草を食べた。
そして、吹き出した。

ノハ;゚听)、「に、にがっ!」

青臭い、と云う言葉は出てこない。
が、感じた不快感は口にした一言で十分だ。
次に、草を食むそれの全身を包む"ふわふわ"に興味を持った。
恐る恐る触ると、"ふかふか"だった。

何度触っても、それは元通りになる。
この上で寝たら、さぞかし気持ちいいのだろう。
思ったら、その場で実行。
大人しい性格のそれの上に、ヒートは抱きつくようにして乗っかった。

ノハ´凵M)「にゅう……」

少し臭うが、それ以上にこれは気持ちいい。
太陽の温かさを閉じ込めたようなそれは、寝るには最適過ぎるぐらいの一品だ。
あっという間に、ヒートはそれの背の上で眠りに落ちた。
久しぶりの眠りを味わっていると、人の気配がした。

ノパ听)「ん?」

眼をこすって顔を上げると、ヒートの前に一人の少年がいた。
大地の色をした肌、黒い瞳、ちぢれた黒い髪。
ヒートが初めて見る人間だった。
手には長い棒を持っていて、その先には拳ほどの大きさの鈴が付いている。

ノパ听)「だれ?」

116 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:00:10.23 ID:1TQgK50X0
だが少年は答えない。
と、ヒートがもう一言発そうとした時。
ヒートの知らない言葉が、少年の口から恐る恐る出て来た。

「サェン バェ ノー」

確か、そう言ったと思う。
きっとそれは挨拶なのだと、ヒートは考えた。

ノパ听)「こんにちは」

小さく手を上げてそう言うと、少年も小さく笑いながら手を上げた。
間違っていなかったらしい。
それからまた少年が喋ったが、今度は聞き取れなかった。
杖先に付けた鈴を鳴らして、少年はどこかに歩いて行く。

ヒートを乗せたそれは、少年の後にゆっくりと続いた。
草原を進んで行くと、草原の真ん中にポツンと白くて小さな何かが見えて来た。
近づくにつれ、その輪郭がハッキリとしてくる。
家、なのだろうか。

ボールを半分に切った様な形のそれは、所々が汚れているが、どこか温もりのある物だった。
それの周りに数人の大人がいて、少年とヒートを見ると、不思議そうな顔をした。
大人に向かって少年が駆けて行き、数回言葉のやり取りをする。
その間、ヒートを乗せるそれはその場の草を食み始めた。

空は青く、高い。
雪原で見た空とは、違う空だった。
温かい空。
手を伸ばしても届かないのは知っている。

118 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:04:05.47 ID:1TQgK50X0
でも、ヒートは空に向けて手を伸ばした。
遠くて、届かない。
この世界は、未知だらけだ。
驚きと感動の連続は、人形の様だったヒートの心を人間らしく変えた。

跫音がしたので、そちらの方に目を向ける。
先の少年が、何か言って、あの家らしきものを指さした。
付いて来い、と言っているのか。
草を食べるのに夢中なそれから降りて、ヒートは少年に付いて家の中に入って行った。

家の中は少しだけ薄暗く、そこを照らしているのは太陽の光だけだ。
思いのほか天井は高く設計されていて、窮屈さは感じない。
家の中は綺麗に整頓されていて、そこに置かれている物全てをヒートは知らない。
物珍しげに見渡していると、家の真ん中で何かをしていた女の人がヒートに近寄って来た。

黒い髪を後ろで結んで束ね、自然な笑みを浮かべるその人は、ヒートの視線に合わせてしゃがんだ。
顔は丸く、眼は細い。
浅黒く日焼けした肌は、野生に生きる狼と何処か似ている気がした。
自分の知らない言葉で何かを喋り始め、ヒートは困惑した。

ノパ听)「何て言っているの?」

ヒートの言葉を聞いた女の人は、少し考えて、たどたどしい口調で言った。

女の人「一緒、ご飯、食べる」

単語だけの言葉だったが、ようやく意味が分かった。
どうやら女の人は、ヒートの喋る言葉を少しは知っているらしい。

ノパー゚)「ごはん食べる!」

120 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:08:05.41 ID:1TQgK50X0
無邪気に答えたヒートの頭に、女の人は手を乗せて撫でてくれた。
ゴツゴツとした掌は、それでも兎の肉の様に柔らかかった。
女の人に導かれて、ヒートは家の中心にある机の前に座った。
机の上、つまり家の中央の天井からは太陽の光が入り込み、それが家中に広がっている。

取り分け、机の上は他と比べて明るい。
家の外から、少年ともう二人の大人が入って来た。
がっしりとした体格の男の人と、胸まで届く白い髭の老人だ。
今度は、家の奥で大樹の様に存在していた老婆が立ち上がってやって来た。

流石にそれには驚いた。
いた事に気付けなかった。
ヒートの横に、老婆が腰掛ける。
向かいに、少年と老人、男の人が腰掛けた。

先程の女の人が、木で出来た大きめの器を両手で持ってきて、それを机の真ん中に置いた。
湯気が上がるそれの中身は、未知の素材で作られたスープだった。
スープと言えば何も入っていないのがヒートの常識だったが、このスープには沢山の具材が入っている。
香ばしく食欲を促進する香りは、満足な食事をしていないヒートにとっては犯罪だ。

ノパ听)「おぉー!」

取り皿と、木のスプーンがそれぞれの前に置かれる。
最後に女の人が持って来たのは、カゴに入った、これまた未知の物だった。
茶色くて、楕円形で、ほんのりといい香りがする。
スープの入った器の横にそれを置いて、女の人も席に付いた。

123 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:12:07.90 ID:1TQgK50X0
ヒートはそれらの御馳走に眼を輝かせ、今にも食べ出そうと身構えた。
微笑ましい光景に、他の人達は大声で笑う。
この辺りに伝わる食事前の挨拶を済ませ、いよいよ待ちに待った食事が始まった。
まずは、あの茶色い物に手を伸ばした。

掴んでみると、思いのほか弾力があって、押しても直ぐに元通りになる。
周りを見ると、女の人が千切って食べる仕草をして教えてくれた。
口に収まるぐらいの大きさに千切って、頬張る。

ノパー゚)「うん! おいしい!」

今まで食べていた、あの味気のないブロック食の何百倍も美味しかった。
スープも食べた。
只管に、ヒートは食べられるだけ食べた。
もうこれ以上は食べられなくなった時、用意してくれたスープもあの丸いのも、全部無くなっていた。

その日の夜、ヒートは老婆と女の人に身振り手振りと、簡単な単語で色んな事を教えてもらった。
あの雲みたいな生き物は、"羊"。
今日食べた丸い物は"パン"で、スープは"シチュー"と言うらしい。
シチューの中にあった茶色いのは、羊の肉だと教えられた。

翌朝、陽が昇る前に老人と共に起床し、そっと家の外に出た。
冷たい空気を思い切り吸い込むと、眠気が吹き飛び、頭が空の様に冴え渡る。
老人は瑠璃色の空を仰ぎ、声高らかに歌い始めた。
その歌は、とても不思議な音色をしていた。

歌と言うよりかは、一つの音だ。
音がずっと連なって、幻想的な音色になる。
それに合わせるかのようにして、陽が昇り始めた。
地の果てからゆっくりと昇る太陽に目を細めながら、ヒートも老人の真似をした。

125 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:16:16.24 ID:1TQgK50X0
老人はヒートに合わせて、ゆっくりと音を出す。
最初は外れていた音程も、10分続けたら少しは様になって来る。
最後に二人で締めくくると、老人は笑みを浮かべた。
朝食の時間だ、と言ったかどうかは定かではないが、二人は仲良く家へと戻った。

相変わらず美味しい朝食を済ませ、ヒートは身振り手振りでここを発つと告げた。
その途中で、老人と老婆が少し待てと言った。
幾つかの衣類や旅に役立つ道具と、携帯食料、そして水を一つの鞄に詰めた物を手渡される。
旅は、まだ途中。

風が何処かに行く様に、風を留めてはおけない。
流れてこその風。
狼達とは少し違う野生の理を、この人達は理解していた。
別れ際に、ヒートは狼に教わった方法で別れを告げた。

―――それから、ヒートは旅を続けた。

雲の流れを見て、風の流れを感じながら。
幾つもの国を越え、その度に新たな出会いがあり。
また、同じ数だけの別れがあった。
だが、悲観的な事ばかりではない。

それ以上に、多くの発見があったのだ。
鳥には何百種類もいて、魚は生で食べても美味しい。
食べられる草があって、食べられない草がある。
料理は夜空に浮かぶ星の数ほどあり、どれも個性的な味がした。

128 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:20:05.53 ID:1TQgK50X0
人と出逢う度、挨拶程度の言葉を覚えた。
道中、ヒートに馬をくれた人がいたおかげで、旅はその速度を上げた。
やがて、彼女の人生に大きな影響を及ぼす都に到着した。
雪や寒いと云った感覚とは、とことん無縁の場所。

褐色の肌をした者達が、コンクリートと土で造られたボロボロの家で暮らし、ハエの集る食事をする。
痩せこけていても、その眼は異様な程にギラついていて、確かに命ある物だと教える。
電気やガスはあるが、水道は無く、水を汲む為には数キロ離れた場所にある、枯渇寸前の井戸まで足を運ばねばならない。
日差しは強く、風が吹く度に眼に見える全てを装飾する砂が舞う。

人の命は砂より軽く、死は砂と同じ重さを持つ。
散った命は砂の数。
砂から生まれ、砂に帰する者が住まう都。
ここは、東の果てにある"砂塵の都"。

到着したヒートが砂塵の都に抱いた第一印象は、五月蠅い、の一言に尽きた。
都の入り口は、果たしてそう呼んでいいのかどうかの判別が難しい。
辛うじて風化から逃れている木製の看板に掘られた、"welcome"の文字が唯一入り口であることを示している。
地面に斜めに突き立つそれも、風が吹く度に軋むような音が鳴り、いつ崩れてもおかしくない。

五月蠅かったのはそれではなく、廃墟の様な住居の間から絶え間なく鳴る銃声。
空を飛び回る小さくて黒いヘリコプターの轟音。
直ぐ上を黒塗りのヘリが通り過ぎた時、轟音を乗せた強烈な風が背中から吹きつけて来た。
腰まで伸びた髪が、ローブと共に宙をバタバタと泳ぐ。

銃声とヘリコプターは分かる。
だが、彼らが何をしているのかは分からなかった。
銃声を知っているのは、猟師が鹿を狩る際に銃を使っていたから。
ヘリコプターは、国境とやらを越える為に出してくれた人がいたからだ。

130 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:24:21.77 ID:1TQgK50X0
猟銃は獲物を殺す為に使うのだと言い聞かされ、人を撃ってはいけないと言われた。
本来、ヘリコプターは人を乗せて、どこか遠くに運ぶ為の物だと言われた。
例えば救助や旅の為に。
だのに、あの小さくて黒いヘリコプターは群れを成して上空に止まり、両翼に提げた筒が火を噴いている。

どう見ても、人を運んでいるようには見えない。
これはヒートの勘だが、あの筒はひょっとして銃では無いのだろうか。
黄色と白の中間辺りの色をした線が、建物目掛けて撃ちこまれ、その場所は無残にも砕けているからだ。
だが猟師の老人が見せてくれた猟銃は、一発毎に弾込めをしなければならなかった。

砂に埋もれるようにして存在する、砂塵の都。
今ここで、何が起きているのか。
ヒートは少し、この状況に興味を持った。
背を押している風に従って、ヒートは"無法地帯"に足を踏み入れた。

ひとしきり銃声が止み、空にいたヘリは皆同じ方向に去って行った。
向かい風の中、都の中を進むにつれてこの場所が如何なる場所かよく分かった。
ここは、限りなく野生に近い場所だと、本能が理解した。
砂に削り取られ、砂の化粧を施した建物の扉があちらこちらで開く。

立ち止って、ヒートは辺りを見渡した。
その時、丁度ヒートの左横にあった建物の扉が開かれ、一人の黄色人の女性が恐る恐るそこから顔を出した。
亜の方面に住む人に多く見られる、黒い髪と黒い瞳。
扉の前で止まっているヒートを見て、女性はヒートの知る言語を独特の発音で言った。

J( 'ー`)し「……貴女は?」

132 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:28:04.26 ID:1TQgK50X0
顔だけを出していた女性は、ヒートの顔から年齢を推測したのだろう。
警戒を徐々に解き、遂に扉を全て開いた。
女性の姿は、最初にヒートがお世話になったあの家族に、どことなく雰囲気が似ていた。
間違いなく、この都の出身ではない。

肩まで伸びた黒い髪を後ろで二つに束ねて縛り、身に纏っているのは草臥れた衣服。
所々が汚れ、擦り切れている。
女性の顔には、砂の化粧がされていた。
ヒートは女性を見上げて、短く名乗った。

ノパ听)「ヒート」

J( 'ー`)し「そう、何しにここに来たの?
     一人で旅行って格好には見えないけど……」

その時、女性の後ろから不安げに顔を覗かせている存在に気付いた。
この地域に多くみられる褐色の肌をした、ヒートより5歳ほど年下の少女だ。

ノパ听)「こんにちは」

少女「っ……!」

女性の後ろに隠れるが、また顔を出す。
数回そんな事をして、少女はようやく返事をした。

少女「こ、こんにちは……」

そのやり取りに、女性は眼を丸くして驚いた。

134 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:32:12.41 ID:1TQgK50X0
J( 'ー`)し「あらあら、珍しい。
     この子はね、人見知りが凄いのよ。
     こんなに早く挨拶するなんて、初めてじゃない?」

後ろに隠れていた少女の背を押して、前に出す。
もじもじと手を弄っているが、時折ヒートを見上げ、また眼を伏せる。
背の高さはそれほど違いが無く、握り拳一つ分ほどの差しかない。
砂や泥で茶色く変色している服には、花の柄が刺繍されていた。

格好のみすぼらしさで言えば、ヒートと同じぐらいだった。
身に纏っているローブの下に着ているのは、旅の民族の着古した服だ。

ノパ听)「人見知り? なぁに、それ」

J( 'ー`)し「人見知りって言うのはね、知らない人を見て恥ずかしがったりする事よ。
     貴女、知らないの?」

ノパ听)「うん、知らない」

鳥や魚の名前は知っている。
だが、難しい言葉の意味はよく分からない。
素直に頷くと、女性は複雑そうな顔をした。

J( 'ー`)し「……学校には行った事ある?」

ノパ听)「学校?」

また新しい言葉が出て来た。
ますます複雑そうな顔つきになるが、女性は自分自身の中で納得したように頷いた。

135 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:37:04.78 ID:1TQgK50X0
J( 'ー`)し「いいわ、ちょっとこっちに来て」

女性に手招きされ、ヒートは廃墟かと見紛う建物に入った。
建物の中は外からの光以外に明かりが無く、薄暗かった。
長方形の机が四つ、同じく長方形の椅子が四つ。
そこに、20人近くの子供がいた。

彼等の正面の壁には緑色の板が付けられ、白い字で色々な事が書かれている。

J( 'ー`)し「皆、今日から新しいお友達が増えます。
     名前は、ヒートちゃん。
     皆、仲よくしてあげてね」

子供たちにそう紹介して、女性はヒートに適当な席に座るよう指示した。
何か面白そうなので、ヒートは言われた通り席に着く。
横に座っている少年が、珍しそうにヒートを見た。
ここにいる子供達は皆、ヒートよりも歳が若い。

一人浮く形になったヒートであるが、気にならない。

J( 'ー`)し「じゃあ、授業を始めましょう。
     ところでヒートちゃん、授業って分かるかしら?」

ノパ听)「聞く?」

言葉を聞き間違えてしまったヒートに、部屋中から笑い声が上がる。
少し変わった訛り方をしている女性の発音は、訛りに慣れていないと正しく聞きとるのは難しい。

138 名前:すみません、また猿くらいました 投稿日:2010/05/31(月) 01:52:11.82 ID:1TQgK50X0
J( 'ー`)し「リッスンじゃなくて、レッスン。
     そうね、じゃあ皆で教えてあげましょう。
     ……その前に、ちょっと髪を切りましょうか」

―――その日から、ヒートは学校に通う事になった。
寝る場所はその女性―――先生と呼ぶよう言われた―――の家に、厄介になる事になった。
多くの事を知らないヒートに、年相応の知識を教える為にも、この選択は正しかった。
学校が終わると、先生は文字を教え、計算を教え、化学を教え、歴史を教え、道徳を教えてくれた。

野性の事なら十分過ぎるぐらいに知っているヒートではあったが、人間的な知識は不十分だった。
食事の時には極力音を立ててはいけない、口を開けて噛んでいる物を見せてはいけない。
足し算や掛け算の基礎的な計算式は、ヒートの大好きな食べ物を使って晩御飯の時間を利用した。
寝る前には必ず、一冊の本を読んでくれた。

どの本も薄汚れていたが、とても丁寧に読み込まれている事が分かる。
サン=テグジュペリという人が書いた、『星の王子様』は特に気に入った。
こうして文字通り朝から晩まで。
起きてから寝るまで、ヒートは毎日が勉強だった。

学習意欲は人一倍強く、飲み込みはそれ以上だった。
砂塵の都に来て3ヶ月もすると、その知識は年齢に追いついた。
そんなある日の事だ。
ヒートは先生に頼まれ、その日の夕飯の食材を買いに、一人で初めて市場に足を踏み入れた。

すっかりこの地に馴染んだヒートは、人の間を縫う様にして市場を進んだ。
市場は建物で出来た日陰の間に作られ、日中は日光から逃れられるよう設計されていた。
商人達は大声で売り込み、買い物客達は慣れた食材を買い求める。
時々、珍しい品物を取り扱っている店を見かけたが、そこで買い物をする人は皆無だった。

トウモロコシで作ったパンを売っている店に来て、ヒートは愛想よく子供らしい挨拶をした。

140 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 01:57:11.41 ID:1TQgK50X0
ノパ听)「おじさん、こんにちは」

この都では珍しい肌に分類されるヒートだったが、周囲の人々は差別的な目でヒートを見ない。
彼女が花の様に無垢で無邪気な存在だったのも関係あるが、一番の影響はやはり似た肌の色を持つ先生だ。
どこに行っても、先生は皆に尊敬されていた。
無論、ヒートもその内の一人である事は、言うまでも無い。

店先で元気よく呼び込みをしていた大きな男が、ヒートを見るや笑みを浮かべた。

店員「おう、ヒートちゃん!
   今日は、先生と一緒じゃないのかい?」

ノパ听)「ううん。
     おつかいに来たの」

定期的に先生が散髪をしてくれるおかげで、ヒートの髪はいつも肩先までの長さが保たれていた。
首を横に振ると、髪が遅れて同じ動きをした。
この環境でも、ヒートの髪は痛むことなく、艶やかさを保っている。
先生やここに住んでいる人達の髪は、砂と強い日差しのせいで痛んでいるのだ。

店員「へぇ、偉いじゃないか!
   いつも通り、ローリを五つかい?」

ノパ听)「うん!
     先生の作るローチ、甘くて好き。
     シャも好き!」

店員「そうかい、そうかい。
   じゃあ、ガシャートを一つ、ヒートちゃんにあげよう。
   先生には内緒だよ」

141 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:01:05.86 ID:1TQgK50X0
料金を渡して、紙袋に詰めてもらった商品を受け取る。
一つだけ別の袋に入れてもらったのは、ヒートの大好きなガシャートだ。
これとシャがあれば、おやつは完璧である。

ノパー゚)「やった!おじさん、ありがとう!」

店員「どういたしまし……
   って、大変だ!」

突然、店員の男がヒートを見て―――
―――否、視線はその後ろ。
そして、その上。
建物の隙間から見える、黒煙だった。

それを合図に、市場に混乱が訪れた。
早口でまくしたてながら、老若男女関係無しに走り回る。
何か、恐ろしい物、災厄から逃げるようにして建物の中に逃げ込む。
だが、一部は違った。

見るからに逞しい若者達が、逃げ惑う人とは逆方向に大股で歩いて来る。
惑乱を引き裂く様にして進む様は、川の流れに逆らって泳ぐ鮭を捕らえる熊を思い起こさせた。
色黒い肌といい、肉付きの良い体格といい、正に熊だ。
ただ、それは外見だけであって、熊並みの力や根性がある様には見えない。

熊はもっと大きく、力強い雰囲気をその毛の一本一本に宿していて、意外と怖がりで優しい性格をしているのだ。
一緒に遊んだ本人が体でそう感じたのだから、それは間違いないのだろう。
戦闘を歩く鋭い目つきの男に、ヒートは見覚えがある事を思い出した。
時折学校にやって来る男だが、名前は知らない。

143 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:05:11.57 ID:1TQgK50X0
男「ん?
  確かお前は……」

ノパ听)「ヒート」

男「そうか、ヒート、よく聞くんだ。
  今すぐに学校に行って、先生の言う事をよく聞け、いいな?」

何か知らないが、とりあえず頷いた。
買い物も済ませたし、帰らない理由は無い。
買った物を落とさないように抱きしめながら、ヒートは男達の脇を歩いて抜けて行く。

男「……」

背後から視線を感じつつも、ヒートは振り返らず、学校へと急いだ。
後ろでは、何かを操作する音が鳴り始め、男の号令が一つ響いた。
それと共に、皆が一斉に走って行き、市場には誰も居なくなっていた。

ノパ听)「……また、あれがあるのかな?」

学校の前まで来たヒートは、誰にも聞こえないようにそう呟いた。
この都に初めて足を踏み入れた時に遭遇した、あの未知の光景。
それが今再び起きようとしている。
何故か、鼓動が高鳴っていた。

薄い鉄の扉を開いて中に入る。
すると、そこには先生や生徒が揃っていた。
確か、今日は学校がない日だ。
しかも、先生の手には何かが握られていて、先端に空いた穴がヒートに向けられていた。

144 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:09:50.13 ID:1TQgK50X0
以前、聞いた事がある。
殺しは最低の行為だと。
それを踏まえて、ヒートは先生の言葉は違うと思った。
一方的な殺しではなく、殺し合いなら問題はどこにもないように思える。

それを口に出そうかどうか考え、口に出そうとした、その時。
上空から、ヘリコプターの轟音が聞こえて来た。
しかもその音は、20機以上のヘリコプターが奏でるそれだ。
期待が高まる。

先生達には聞こえないかもしれないが、ヒートには聞こえている。
銃声。
怒号、悲鳴。
数十機のヘリコプターが、都のあちこちで滞空している音もする。

何の前触れも無く、いや、正確に言えばそれらしきものはあった。
一瞬だけ心臓の鼓動が早まったと思った数秒後、爆音が響いた。
ヒートを除いた全員が、その音にビクリと身を強張らせる。
飛んで来た何かが学校の壁に当たって跳ね返り、遠くからは金属が歪む音がした。

―――その瞬間は、約十分後に訪れた。
即ち、ヒートの人生における分岐点。

前触れなしにヒートの後ろの扉が、外側から何度もノックされた。
ピザの配達員が来るとは聞いていない。
新聞配達にしても時間が合わない。
扉から十分に距離を取って、ヒートはその向こうに何かが見えているかのように鋭い視線をくれた。

J( 'ー`)し「誰ですか?」

145 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:14:42.75 ID:1TQgK50X0
返事は無い。
先生は手にした物を扉に向ける。
ただならぬ雰囲気に、ヒートは先生の後ろに小走りで隠れた。
近くの机の上に紙袋を置く。

J( 'ー`)し「ここは学校です!
     "あなた達"が探している人は、ここにはいません!」

何かに怯えるかのように、震える声で怒鳴った。
そんなささやかな抵抗を聞いていないのか、扉は叩かれ続ける。
子供達の間に、動揺が走る。
中には涙ぐむ子もいた。

誰が発端だったかは分からない。
だが、次の瞬間に起きた事に関して、一つだけ確かな事がある。
誰かが泣いた。
瞬く間にそれは子供達の間に伝染して、学校中に響き渡る。

これだけの大合唱。
学校の外に聞こえない筈がない。
先生の言葉の意味が分かったのか、扉を叩く音がピタリと止んだ。
緊張の糸が少しだけ緩み、全員に安堵の雰囲気が感じ取れた。

蝶番が撃ち抜かれ、用心棒ごと蹴り壊されるまでは。

男G「動くな! 全員、動くな!」

男J『動くんじゃない! 皆、動くんじゃない!』

147 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:19:12.71 ID:1TQgK50X0
同時に二人の男が突入して、二つの言葉を口にした。
一つはヒートが最初に学んだ言葉。
もう一つは、この都の公用語だ。
手に持っている黒い筒を、子供達、それから先生に向ける。

男達は、二人とも変わった格好をしている。
砂色の服に、何かよく分からない物を重ね着していた。

男G「弾倉を抜いて安全装置掛けて、今すぐに武器を捨てろ!」

高圧的な男の態度に対して、先生は怯えながらも言った。

J( 'ー`)し「武器を捨てるのは貴方達です!
     ここは学校、銃と暴力を持ちこんでいい場所ではありません!」

男G「黙れ、イエローモンキー!
   撃たれたいのか!
   銃を捨てろ!」

J( 'ー`)し「私の生徒を脅かす人を、黙って見過ごせと?
     それに、私を撃てば、貴方達がどうなるか、分からないのですか!」

男G「何だと!」

興奮する男は、今にもその怒りを爆発させかねない。
もう一人の男も興奮していたが、その男程ではない。
先生の発言に何かピンと来たのか、小さく驚愕の声を上げた。

149 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:24:24.26 ID:1TQgK50X0
男J「あっ、まさかお前、いや、貴女は……
   "スナオ"か!
   おい、この人を撃つな!
   この人は"スナオ"だ、撃つと厄介な事になる!」

男G「何?!
   ……くっそ、よりにもよって"スナオ"かよ!」

"スナオ"と云うのが先生の名前だと分かるのに、それほど時間はかからなかった。

男J「……スナオさん、先程の非礼は今の所は謝ります。
   ですが、大人しく銃を置いてください。
   そうすれば、俺達は貴女を撃ってCNNやFOXニュースのトップを飾らずに済む。
   特番のせいで大好きな野球の試合中継を潰さずに済むなら、尚の事だ」

男G「"銃を持って"いて、なお且つ"撃たれそうになった"となれば、俺達は貴女を撃つ事が出来る。
   NGOや平和団体で有名人の貴女も、こいつの前にはみんな平等だ。
   "テロリストの仲間と少年兵"を殺したってんなら、誰も悲しまないし非難しない。
   そうでしょう?」

J( 'ー`)し「脅すつもりですか?」

一歩も引かない先生に対して、男達は冷笑で対応した。
邪悪なその冷笑に、子供達は何が起きるのかを察し、泣き声が一つ大きくなった。

男G「大人しく指示に従うのであれば、俺達は貴女をこの肥溜から連れ出します。
   もし仮に、貴女が指示に従わないのであれば、そうですね、実力行使をするまでです。
   貴女が何に弱いのかは、新聞の時事欄を読んでいる人なら誰でも知ってますからね。
   タイムズの一面が貴女の死を報じる記事だと、読者の我々としては心が痛い」

151 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:28:07.70 ID:1TQgK50X0
J(#'-`)し「……下衆が!
     それでも人間ですか!」

ぎり、と先生が歯噛みした。
それを見て、男達は一層冷笑を濃くする。

男J「下衆で結構。
   ですがどうかご理解願いたい。
   貴女を見つけ次第ここから連れ出せと、大統領から直々に命令が出ていましてね。
   そうでなければ、貴女の様な"偽善者"を相手にこうして時間を浪費しないで済むのです」

ヒートは分かった。
この男達は、先生をわざと怒らせているのだ、と。

男J「さぁ、"スキニー"の餓鬼なんて放っておいて、我々と帰りましょう。
   向こうに帰れば、温かいポークビーンズを腹いっぱい食べられます。
   それに、今日は日曜日だ。
   俺達だって、仕事をしないでフルハウスを見ながら、冷えたビールを飲みたいんですよ」

J( '-`)し「私はもう、子供を見捨てたりしません!
     逃げたら、あの子に申し訳が立たない!」

男J「結構、大変に結構な演説ですね。
   教科書に載せても良いぐらい素敵な演説だ。
   残念なのはここにはテレビカメラも、ボイスレコーダーも無い事だ。
   ですから、気にせずに本音を言ってもらっていいのですよ。

   貴女が名前と一緒に見捨てた子供は、今頃野垂れ死んでいる。
   あの都で親に見捨てられた子供が、どうやって生きて行くと思いますか?
   女ならまだしも、男じゃ無理だ。 ましてや、あの都じゃあね」

153 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:32:10.48 ID:1TQgK50X0
J(;'-`)し「くっ……!
     それでも、それでも私は!」

男G「罪滅ぼしの為に?
   まさか、そんな糞塗れの綺麗事をおっしゃるおつもりですか?
   大体、本当に罪滅ぼしがしたいとおっしゃるのであれば、こんな所に来ないで都に帰っていなければおかしい。
   第一、貴女は勘違いをなさっている。

   訃報の後に平気で芸能情報を流す番組を見て笑っている連中は、貴女を立派な人だと言うでしょうが、俺達は違う。
   半年前、"何処かの糞忌々しい聖女"を国に連れて帰る為に、一体どれだけの仲間が死んだと思います?
   6人だ、6人も死んだんだ。
   貴女が"スキニーの糞餓鬼共を一緒に連れて行かなければ、テコでも動かない"、何て世迷言を言わなければ誰も死なずに済んだのに。

   結局、作戦は中止。
   撤退する際、救助チームが待ち伏せにあって全員蜂の巣にされた。
   ……ところが、ところが、だ。
   よりにもよって、そいつが今さら、俺達の目の前に現れた!

   まるで、諦めていたX-メンチップスのレア・カードを道端で偶然拾ったかの様な幸運だ。
   これはもう、両脚を撃ち抜いてでも連れて行くしかない!」

泣き叫ぶ子供。
興奮する大人。
そして、傍観するヒート。
ガシャートを食べようかとも思ったが、今食べたら先生に後で怒られるので我慢した。

男G「だが、貴女は脚を撃ち抜いても拒むでしょう、そういう人だ。
   じゃあ、これならどうです?」

154 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:36:11.91 ID:1TQgK50X0
―――発砲音。
つまり、銃だ。
銃口から放たれた一発の銃弾は、先生から一番離れていた少年の腹に当たった。

茶色く砂で汚れていたシャツが、鮮やかな血の色に染まる。
少年は泣き、もがき苦しむ。
周りの子供達は恐怖し、叫んだ。
助けて、助けて、と。

何度も何度も、子供達は叫ぶ。
顔面を蒼白にした先生を見て、そう叫ぶのだ。
撃たれた少年は口から血の泡を吹き、痙攣を起こし始めた。
それも長くは続かず、やがて徐々に動かなくなり、眼を開いたまま死んだ。

J(;'-`)し「な、何てことを……!」

男G「今、その少年はズボンからナイフを取り出そうとした為、襲われる前に撃った。
   ……お分かりですか?
   我々の言いたい事が。
   "我々の出来る事が"、これでお分かりいただけたか」

硝煙の上がる銃口を、別の少女に向けた。

男G「で、どうします?
   スナオ先生?」

J(#'-`)し「その子を撃ちますか!
     ならば、その前に私があなたを撃ちます!」

155 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 02:41:29.44 ID:1TQgK50X0
男G「この距離なら、女性でも確かに当てられるでしょうね。
   ですが撃てますか?
   俺を殺せば、そこのスキニー共は一人残らず皆殺しです。
   ほら、子供を救いたいんでしょう? 違いますか」

先生は何も言わない。
ただ、手に持つ―――きっと、あれも銃だろう―――を震わせるだけだ。
ほんの僅かに銃口が下がり、男の顔に向いていたそれは、やがて足元にまで下げられた。

男G「賢明な判断だ。
   あの時、貴女が隣の"ランド"に旅行に来た中国人と一緒に帰ってくれていれば、もっと良かった。
   そうすれば、無駄な死人を出さなくて済んだのに……ね!」

男も銃口を下げ、ニヤリと笑う。
咄嗟に、ヒートは身を低く伏せるようにして屈めた。
その直後、二人の男の手が持つ銃が同時に吠える。
ヒートの上に、頭を撃たれた少女が倒れ込んだ。

サッカーが得意だった少年が、喉を押さえながら倒れた。
裁縫を教えてくれた少女は全身を赤黒く染め上げて、血の泉に顔から倒れる。
最初にヒートと友達になってくれた、あの人見知りの激しい少女は顔を半分失っていた。
銃声が止んだ時、最後まで立っていたのは先生だけだった。

皆の返り血を浴び、先生の姿は大怪我をしているように見える。
しかし、先生は無傷だ。
眼を虚ろにして、絶望に満ちた表情で固まっている。
手に持っていた銃が、ヒートの目の前に落ちた。

その近くに転がっていた誰かの目と、ヒートの目が合った。
砂で汚れてしまったその目は、どことなく顔を半分失った少女の物と似て―――

159 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:01:43.42 ID:1TQgK50X0
男J「これで、貴女の評価はいつも通りだ。
   こいつらは、卑劣な民兵共がけしかけた少年兵。
   我々は、貴女が襲われる前にそれらを殺した、いいですね。
   汚らしい足枷は、もうない。

   さぁ、行きましょう。
   生憎、基地には気の抜けた温いビールしかありませんがね」

糸の切れた人形の様に、先生は血溜まりに力なく崩れ落ちた。
死体と血の中で伏せているヒートには、気付きもしていない。
男は先生の手を取って立ち上がらせる。

J(;'-`)し「あ、あぁ……」

ふらり、と立ち上がる。

J( ;-;)し「ごめんなさい…… 本当に、ごめんなさい……」

泣いて謝り出した。
何に対して謝っているのだろうか。
少なくとも、ヒート達に対してではないだろう。
もし、ヒート達に対して謝っているのであればこちらを向いて、頭を垂れるのだと、他ならぬ先生が教えてくれた。

なのに、先生は背を向けて学校から出て行こうとしている。
謝っていない。
じゃあ、あの言葉の意味は一体何だ。
ヒートの心の中で、何かが廻った音がした。

160 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:06:06.86 ID:1TQgK50X0
ぎしり、と動き。
みしり、と軋み。
かちり、と歪み。
かちん、と廻る。

その時に自らの意識があったかどうか、正確な所を本人は覚えていない。
ただ、何をしたかはハッキリと覚えている。
導かれるようにして、目の前に落ちていた銃を掴む。
血で濡れた銃把は、驚くほど手に馴染んだ。

銃の扱い方は、猟銃しか知らないが、大体同じだろう。
何より、銃把を握った瞬間に感じ取る事が出来た。
これは、道具だ。
これは、殺しの為の道具。

壁に掛けて飾ったり、眺めたりする物ではない。
使う為に生み出され、殺す為に存在する。
鳥を撃ち、鹿を撃ち、そして人を撃ち殺す為の、純粋な道具。
男達に対する憎しみが、銃爪に指を掛けさせる。

殺された友人に対する悲しみが、銃爪に掛けた指に力を込めさせる。
そして。
それを決断させたのは。
先生に対する失望から生まれた、憤怒だった。

助けてと懇願した友人を見捨てた。
助けてと懇願して、殺された友人を見捨てた。
ごめんなさいと言って、見捨てた。
顔を向けずに、見捨てたのだ。

162 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:11:27.35 ID:1TQgK50X0
涙を流して。
謝罪をして。
そして見捨てた。
己の自己満足の為に。

尊敬していた。
ヒートの為に、一日中色々な事を教えてくれた事。
上手な料理を作ってくれた事。
皆に優しかった事。

頼りにしていた。
知らない事は教えてくれて、分からなければ付き添って教えてくれると。
困った時は助けてくれると。
いつでも、自分達の味方であると。

好きだった。
いつも浮かべるその笑みが。
美味しい料理が。
優しい態度が。

でも。
それも、もう終わりだ。
それらは全て、偽りだったのだ。
ただ、ヒートが勝手に勘違いしていただけ。

先生は最初から、こういう人間だったのだ。
それだけの話だ。
真実に気付いた今、自分の人の良さを罵った。
戦いもせず、口先だけで理想を語る人間を信じた自分は、馬鹿以外の何だと言うのか。

164 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:15:37.04 ID:1TQgK50X0
いや、違う。
先生は悪くない。
悪いのは、その弱さだ。
弱い者は、何も守れない、何も出来ない、何の価値も無い。

力だけではない。
意志が弱い、決意が弱い、心が弱い。
弱い者は自己満足の為に周囲を巻き込み、巻き込んだ人間を不幸にする。
ヒートも、そうされた。

だから、自分は―――

ノパ听)「……弱いのは、嫌い」

その声に反応して、三人が驚愕の表情で振り返った時。
ヒートの持つ銃が、雄叫びを上げた。
向けられていた銃口は、体勢の問題もあって彼等の腰ほどの高さにあった。
そんな事に関係なく撒き散らされた銃弾は、男達の下腹部、下半身、腿を撃ち抜く。

先生は、腹を撃ち抜いた。
弾が切れたのか、幾ら銃爪を引いて何とも言わない。
死体の下から這い出して、ヒートはゆっくりと立ち上がる。
わりと小さめの銃をその手から離し、地面に転がって激痛にもがき苦しむ三人に近付く。

男G「ぐぁっごおおお!」

男J「く、くぎおおおっ!
   こ、この餓鬼死んでなかったのか!」

165 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:19:14.46 ID:1TQgK50X0
J(;'-`)し「あ、ああっ……!
      ヒートちゃん、どう、どうして、こんな事を……!?」

ノパ听)「嫌いだから」

男が皆を撃ち殺した銃が床に転がっているのを見て、ヒートはそれを一挺手に取った。
先生が持っていた物よりも、幾らか重い気がした。
だが、長さはこちらの方が上だ。
猟師の老人が持っていたのも、素材は違うがこれぐらいの長さだった気がする。

細かい使い方は知らないが、銃爪を引けば弾が出る原理は同じだろう。
試しに、先生を"苛めていた"男の顔にそれを向けた。

男G「や、やめろ……!」

ノパ听)「やだ」

子供達を撃ち殺す時に、癖で弾丸を数発弾倉に残していた男はそれを後悔する間もなく、殺された。
一発の銃弾の元に屠り去った男の顔から、赤黒い液体が流れ出す。
意外と呆気ない。
まさか、子供が躊躇うことなく戦友を殺せるとは思っていなかったらしく、もう一人の男は途端に怯えの表情を浮かべた。

男J「た、助けてくれ!」

ノパ听)「やだ」

少し離れた場所に転がっている男に、一発。
だが、それは男の鼻を抉り取るだけで済んだ。
まだ正確な射撃が出来ないヒートには、この距離でも当てる事は出来ない。
鼻を奪われた男は、激痛に絶叫を上げた。

168 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:24:15.30 ID:1TQgK50X0
当てられないなら、近づけばいい。
そう考え、ヒートはゆっくりと大股で数歩近づき、男の顔に銃口を押しつけた。
これなら外す心配はない。

男J「ま、まて!
   待ってくれ!」

ノパ听)「やだ」

五月蠅い男の頭を吹き飛ばす。
結局、この男も弱かったのだ。
残ったのは、腹から飛び出た腸を押さえこむ先生だけだ。
苦しそうに咳込み、血を吐き出す。

J(;'-`)し「ど、どうして……」

ノパ听)「この人達、皆を殺した。
    だから、殺したの。
    先生は皆を見捨てた。
    だから、これから殺す」

J(;'ー`)し「人殺しは絶対にいけないって……言った……でしょ?」

ノパ听)「そう思ってるなら、先生はそう思えばいい。
     でも、あたしはそうは思わない」

確かに、先生が疑問に思うのも無理はない。
ヒートは己の過去を語っていなかったのだ。
大量の人を素手で殺したと知ったら、どんな顔をされるか分かったものではないからである。
尚も何か口にしようとする先生の顔に銃口を向け、銃爪を引いた。

170 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:28:21.43 ID:1TQgK50X0
ノパ听)「あれ?」

だが、弾は出なかった。
丁度弾切れになったらしい。

J(;'ー`)し「そんなことしたら、神様が……許さないわよ……
     ほら、それは神様がやっちゃ駄目だって……言ってるの」

どうにか笑顔を浮かべる先生。
虫唾が走った。
こんなに嫌な人だったのか。

ノパ听)「違う。
     そんなのはいない。
     それにこれは、ただの弾切れ」

弾の無くなった銃にも、使い道はある。
例えば、その銃床を思い切り先生の腕に叩きつける事とか。

J(;'-`)し「きっ、ああ!!」

ノパ听)「ほら」

砕いた手を、更に砕く。

ノパ听)「神様なんてどこにもいない。
     そんなのに頼るから、先生は弱いんだ」

171 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:32:08.59 ID:1TQgK50X0
もう一人の男が持っていた銃を手に取り、重さから弾が入っている事を感じ取る。
要は、一発でも残っていればいいのだ。
それだけあれば、先生を殺すのには十分だからである。
銃口を先生の額に押し付け、銃爪に指を掛ける。

ノパ听)「今までありがとう。
     ……さようなら」

J(;'-`)し「ま……って!」

ノパ听)「やだ」

銃爪に掛けていた指に力を込める。
乾いた銃声が一発と、湿った音が一つ。
背後に吹き飛んだ脳髄が、死を如実に語っている。
それきり動かなくなった先生は、地面に突っ伏せ、もう何も喋らない。

自分のしたい事をしたのに、不思議と楽しくも嬉しくも無かった。
人を殺すのは初めてではない。
あの時も、今と同じ気分だった。
不思議な虚無感。

兎を食べた時は、美味しかった。
鹿を狩って、それを食べた時も美味しかった。
襲い掛かって来た熊を殴り殺した時は、何も感じなかった。
それと同じだ。

173 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:36:12.99 ID:1TQgK50X0
どうやら、無意味な殺しはよくないらしい。
人間は食べられないし、食べる気にもならない。
少し、考える必要がありそうだ。
もっとも、その関心は直ぐに消えたのだが。

ノパ听)「……」

今、ヒートが気になっているのは外の事だけだ。
戦争。
果たしてそれは、ヒートの好奇心を満たしてくれるのだろうか。
ひょっとしたら、ヒートが知らない事を教えてくれるかもしれない。

銃を捨て、血の匂いが充満する教室からヒートは一歩外に出た。
風と日差しが強い。
気のせいか、空気に鉄の匂いが強く混じっている気がした。
いたるところから銃声が響き、ヘリの飛ぶ音も聞こえる。

男「……っ!
  ヒート、何をしている!
  学校に戻っていろと言っただろう!」

丁度、あの熊の様な男がどこからかやって来て、怒鳴りつけてきた。
手には先生が持っていたのと同じ銃が握られ、彼の周りには数人の男がいた。
彼等も銃を持っているが、種類は違うようだ。
学校から一歩出た場所で立ち止っているヒートの元に、男達が近付いて来る。

ノパ听)「皆死んじゃった」

何が起きたのかを正直に言った。
驚愕に目を大きく見開き、男はヒートに掴みかかる勢いで詰め寄った。

174 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 03:40:32.16 ID:1TQgK50X0
男「何だと!?
  子供達も殺されたのか!?」

ノパ听)「うん、皆殺されちゃった。
    だから殺した人達を殺した」

教室の中を見た男の顔から一瞬だけ表情が消え、次に涙が流れた。
悲しみ。
深い悲しみ。
やがて、男は涙の滲む顔に怒りを灯した。

男「あいつら……よくも、よくも……!」

ノパ听)「ねぇ、おじさん。
     あたしも闘いたい」

男「何……?」

ノパ听)「いいでしょ?」

男は考えた。
ヒートはまだ子供。
しかも女だ。
戦場で女が役に立つ場面は確かにあるが、そう多くは無い。

精々が地雷処理か処理、つまりは使い捨ての道具だ。
だがよく考えてみれば、少女の兵士はあの連中には効果があるかもしれない。
おまけに肌の色は、敵対している連中と同じ。
利用価値は十分にあると言える。

180 名前:きっうきいいいいいいいい!! 投稿日:2010/05/31(月) 03:58:30.83 ID:1TQgK50X0
その為には、兵士としての教育が必要だ。

男「……いいだろう。
  その為にはまず、今を生き延びることだ。
  連中は俺達を根こそぎ殺すつもりだ。
  こいつの使い方は分かるか?」

言って、男は腰の辺りから小さい何かを取り出した。
銃爪がある事から、銃だと分かった。

男「これは拳銃だ。
 ライフルやマシンガンとは違うが、人を殺すにはこれでいい。
 これならお前でも使える。
 ほら、これが予備の弾だ。

 俺の後ろに付いて来い、いいな?」

手渡された黒いそれは、先生達の持っていたそれよりも随分と軽かった。
大雑把な使い方を説明され、ヒートは彼等と行動を開始した。
その時から、ヒートの民兵としての生活が始まった。
民兵になってからも、勉強は引き続いた。

ただし、その勉強は今までヒートに教えられることのなかった、"負"の勉強だ。
銃の使い方、整備の仕方、種類、名前、評価。
ナイフの使い方から、それを使った人の殺し方。
汚い言葉や戦場で頻繁に使われる単語も、訛りの強い言葉で教えてもらった。

183 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:01:12.63 ID:1TQgK50X0
銃の種類などについては、武器商人の人間が直々に教えてくれた。
この地域一帯で好んで使われているのは、安価で丈夫なカラシニコフ。
相手側が使っているのは、全く異なる素材で作られたM4カービン。
射撃の技術も教わり、三日でヒートは一通りの知識を手に入れた。

一週間に数回の戦闘を経て、実戦経験を積んだ。
この頃から、戦場ではある噂が流れ始めていた。
戦場に、見目麗しい戦乙女がいる、と。
それはプロパガンダであると同時に、真実であった。

ある日、ヒートに戦争のイロハを教えた男が死んだ。
夜間戦闘で指揮を取っていたら、迫撃砲の直撃を受けて死んだそうだ。
ヒートは怒った。
あの熊の様な男が、死んだ。

後日、大人数でやってきた連中を殺して、殺して、殺し尽した。
しかもそれは、ほぼ単騎で実行された。
武器は自分の物と、あの男が使っていたカラシニコフと、相手の使っている物。
それと、拳。

こうして、戦場にヒートの名が知れ渡る事になった。
"戦乙女"という、渾名を付けて。
歴戦の猛者なら息を飲み、新兵ならば怯え出す。
文字通り一騎当千の少女の噂は、世界の軍隊に瞬く間に知れ渡った。

ヒートはますます混迷を極め始めた都を後にして、各国の戦争に参加した。
ある時は多国籍軍、ある時はレジスタンス、またある時は、独自の第三勢力として。
兎に角、戦いたかった。
おぼろげに浮かび上がり始めた理想の為には、戦うしかなかった。

184 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:05:28.79 ID:1TQgK50X0
銃を撃ち、ナイフを振った。
拳を使う場面はほとんどなく、戦場では道具を用いての殺しがほとんどだった。
戦場での殺しの場面で、ヒートは例の虚無感に襲われる事は無かった。
満たされる事も無いが、減る事も無い。

ヒートには美意識があった。
無抵抗な人間は殺さなかったのだ。
あくまでも、敵対、敵意を持つ者だけを殺した。
日々を争いの中で過ごす内に出来上がったその美意識は、ヒートだけが知っている。

そんな日々にも、終わりがやって来た。
ある日のことだ。
いつもの様に小隊を率いて戦場に繰り出し、いつもの様に殺していたのだが。
そう、いつもの様に。

―――自分一人を残して、部隊が全滅するまでは。

よく娘を自慢していた男が死んだ。
妻の写真を肌身離さず持っていた男が死んだ。
無口だが仲間思いの男が死んだ。
多くの仲間を死の淵から救った男が死んだ。

ヒートと共に戦った仲間が、皆死んでしまった。
部隊がキャンプをしていた場所に、焼夷弾による夜間爆撃があったのだ。
翌朝、呆然と立ち尽くすヒートの眼に映った光景と臭いは、今でも忘れることは無い。
ヒートを庇う様にして、もしくはヒートに危機を伝えようとした男達の黒焦げの死体が朝陽に照らされていた。

187 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:09:32.07 ID:1TQgK50X0
また、一人になってしまった。
虚無。
底なしの虚無。
風が吹き、炭化の激しかった男の体が崩れ落ちた。

途端に、戦争を空しく思えた。
仲間を作ればそれだけ悲しくなる。
仲間が死ねばそれだけ憤怒する。
相手も自分も、復讐の為に仲間を作り、殺し合う。

その連鎖は、決して絶えることのない完璧な負の連鎖。
連鎖の果てにあるのは、結局は死だ。
誰かの利益の為に、誰かが得をする為に。
それだけの為に、死ぬのは嫌だった。

誰でもなく、自分の為に闘いたかったのに。
ただ、己の信じる"強さ"を手に入れる為に。
確かに軍は敗北を教えてくれるかもしれないが、ヒートが信じる強さとは相容れない事を知った。
皮肉にも、この事件がきっかけでヒートは自分が何を求め、望んでいるのかに気付く事が出来た。

こうして、目的を見つけたヒートはひっそりと軍を止め、戦争から身を退けた。
今までとは違い、行く当てならあった。
そして旅は終わりを告げ、最後の目的地に行き着く。
そう。

それはまるで、一つの歯車が廻る様に。
ヒート自身が、その歯車であるかのようにそこに向かう。
どれだけ抗っても、結局はこうなるように仕組まれていたのだと思った。
それでも構わないと、ヒートは進んだ。

188 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:13:47.22 ID:1TQgK50X0
目指すのは、全ての始まりの地。
その地から生まれ、その地がヒートを生み、その地がヒートをそこまで導いた。
濃霧が辺りを満たし、空は一年中分厚い灰色の雲に覆われ、太陽の光とは無縁の地。
歯車の軋む音がいたるところから響き、硝煙の香りが染み付いたその地は、こう呼ばれている―――

―――"歯車の都"と。

そして、歯車の都に入る前に行われる遺伝子登録の際。
姓名を尋ねられ、ヒートは少し考えて、こう言ったのだった。


ノパ听)「スナオ、"素奈緒"ヒートだ」


――――――――――――――――――――

両者の繰り出した最大の攻撃の衝突は、互いの攻撃を弾いた。
足場の地面はいよいよ凄惨を極める姿に変貌し、隕石が落下したと言っても冗談には聞こえない。
右手と右脚の衝突が生んだ大音響は、付近の建物の窓枠を振動させた。
ここで、ヒートが戦闘方針を変更した。

右手による一撃は、確かに威力がある。
だがそれはシャキンも同じで、彼の右脚はヒートのそれとほぼ同威力。
つまり、幾ら打ち合っても意味がないのだ。
どちらの装甲が先に砕けるかで言えば、間違いなくヒートの側が先だ。

使い込んで来た年月が違う。
こちら側の装甲は、都に来て直ぐに作らせ、今に至るまで一度も修理していない。
対して、シャキンの装甲は真新しい。
打ち合いは装甲の疲労を蓄積させ、やがて古い方を破壊に導くだろう。

190 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:18:06.83 ID:1TQgK50X0
ならば、とヒートは構えを変えつつ一歩下がる。
今度の構えは、両手の拳を握り固め、上に向ける。
一撃に力を注ぐのではない。
威力よりも、手数を選ぶ構えだ。

この構えから繰り出すのは、数分間に及ぶ無呼吸連打。
威力の減衰はあるが、速度はその倍だ。

ノパ听)「せぁあああ!!」

気合いと共に、一気に踏み出す。
右ストレートを火蓋に、左ジャブ、続けて右アッパーカット。
そして、ナックル・アローを数発。
このコンビネーションの応酬は、一度受けてしまえば回避不可能。

その攻撃の疾さは、プロボクサーによる連打の速度を大きく上回っていた。
リングの上でこの攻撃が繰り出されたら、対戦相手は倒れる事すら許されない。
しかし、三つの点が異なった。
一つは、ここはリングではない事。

もう一つは、二人ともプロボクサーではない事。
ましてや格闘技家でもない。
二人は恋人以上の関係を持つ、ただの男女でしかない。
最後の一点は―――

―――シャキンの速度が、ヒートの攻撃速度を上回っていると言う点だ。

(`・ω・´)「……せっ!!」

194 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:22:06.72 ID:1TQgK50X0
繰り出された全ての攻撃を、左脚で弾き返す。
顔に迫った右ストレートは進路を逸らされて頬を掠め、数発放たれた左ジャブは届く前に脚の裏で止め。
アッパーカットは最小限のサイドステップで回避、ナックル・アローは叩き落とされた。
脚一本で、この芸当。 そしてこの反応。

力のヒートに対して、シャキンは速度で応じる。
連打ですら、シャキンには通用しない。
今のシャキンは、最盛期を更に上回る力を付けているのだから、当然と云えば当然だ。
ヒートの攻撃をこの様に退けるのは造作もない。

無呼吸連打が終わりに迫り、息を吸おうとした一瞬。
シャキンが動いた。
攻撃を弾いていた左脚を地に付け、勢いを乗せた右脚が、がら空きになったヒートの腹部に強烈な蹴りを見舞ったのだ。
完全に不意を突かれたヒートは、咄嗟に腹筋に力を込めるので精一杯だった。

それでも不十分だったのか、後方に思い切り吹き飛ばされる。
常人なら間違いなく胴体と下半身が切り離されていた。
驚愕と激痛に目を見開くヒートは背後にあった建物の壁に激突し、肺の底から絞り出した様な声を上げる。
露出の多い鎧が仇となったか。

すぐさま目の前のシャキンを見据え、苦痛に顔を歪めながらも笑みを浮かべた。

ノハ;゚ー゚)「やる……ねぇ……!」

直後、ヒートが爆ぜた。
軽く埋まった壁から、背筋の力だけで脱出してみせると、ヒートは着地と同時に加速。
右の拳を振りかぶり、シャキンに向かって肉薄した。
が、シャキンはそれを予期していたのか、大きく跳び退く。

197 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:26:06.31 ID:1TQgK50X0
それこそがヒートの狙い。
シャキンが空中から地面に着地するまでの間。
ヒートは振りかぶった右の拳を、振り上げる。
渾身の力を込めたそれを、思い切り地面に叩き込んだ。

その瞬間、周囲数十メートル圏内の住人はあまりの振動に跳び起きたと言う。
後に計測された数値が正しい物だとすると。
瞬間的に生じた振動は、マグニチュードにして8.0。
シャキンの着地に合わせて発生したそれは、当然シャキンのバランスを崩させた。

(`・ω・´)「なっ?!」

ヒートの強みは、その剛力だ。
常人の数十倍の筋密度を持つ彼女は、その力が最大の長所。
強者と闘う度に、ヒートは強くなる。
例えそれが本番中であろうとも、容赦なく、だ。

今のヒートは、以前シャキンと闘った時よりも格段に強くなっている。
他でもない、シャキンのおかげで。
こうして闘っている間中、ヒートはその力を増す。
バランスを崩してしまった間は、0.5秒。

日常では何てことのない時間だが、今この場においては致命的な間だ。
爆発が起きたのではないかと錯覚するほどの踏み込みから、シャキン目掛けて迫るヒート。
右手は既に構えられている。
この手から繰り出す一撃は、戦車の装甲ですら段ボールの様に撃ち砕ける。

容赦のない一撃が、真っ直ぐに打ち出された。

198 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:30:30.17 ID:1TQgK50X0
――――――――――――――――――――

彼、"鉄足"シャキン・ションボルトには両親の記憶が無い。
それどころか、幼少期の記憶すらない。
気が付けばロマネスク一家にいて、ロマネスクに育てられていたのだ。
記憶と呼べるものが何一つ無くても、言葉などは不思議と理解でき、表出する事が出来た。

名前を覚えていたのは、一体如何なる理由だったのか。
記憶が無くても、自分が不幸だと思った事はただの一度も無い。
実際、記憶がないシャキンをロマネスクは実によくしてくれた。
そこらの店に男娼として売り払う事も出来たのに、ロマネスクはそうしなかったのだ。

約一年の間、シャキンの存在は伏せられていた。
その間、ロマネスクはシャキンに多くの事を教えた。
義を重んじる事、そして、この都のルール。
ロマネスク一家の掟などだ。

最後に頼まれたのは、ロマネスクの家族として、彼を支える事。
快く了承したシャキンに、その後に与えられたのは。
ロマネスク一家に入る為の、模擬戦闘だった。
それも、いきなりロマネスク一家のNo2との模擬戦闘だ。

その時のNo2は、"銀狐"犬瓜銀。
無音高速戦闘に長け、長身の刀を使う女中だ。
誰もが、勝負の結果を見るまでも無く予想していた。
銀による、文字通りの瞬殺。

200 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:34:12.07 ID:1TQgK50X0
長物の日本刀である"厳狐"の居合切りからは、容易に逃れることはできない。
あの刀の前に多くの手練が肉塊と化したのを、彼等は嫌と云うほど見て来た。
前No2である渡辺程ではないにしろ、この都で恐れられている女の上位10人には間違いなく入る。
それに立ち向かうのが、どこの出かも分からない男となれば、結果は火を見るよりも明らかだ。

―――誰もがそう思った通り、勝負は一瞬で決した。

あの銀が、開始した瞬間に背後を取られ、強烈な蹴りを後頭部の寸前で止められるまで、誰もが銀の勝利を信じて疑わなかった。
模擬戦とは言っても、銀は戦いの場に置いて決して油断をしない。
これが本番、殺し合いの場であったら間違いなく銀は殺されていた。
誰もが己の目を疑う中、ロマネスクは短く告げた。

( ФωФ)「今、この時よりこのシャキン・ションボルトが我が左手となる。
        ……銀よ、シャキンはまだ右も左も分からぬ。
        お主が色々と教えてやってくれ。
        他の者も同じく、シャキンをよろしく頼むぞ」

これによって、シャキンはいきなりロマネスク一家No2の座に君臨、"最高の跡継ぎ"と呼ばれるようになる。
それから間もなく、彼は長く続く抗争へと狩り出され、多くの武勇伝を作り上げることになる。
そう。
ヒートに出逢うまでは。

彼女の強さに惚れ、片脚とその地位を失った。
地位を失っても尚、ロマネスクはシャキンに対して態度を変えることは無かった。
もしもあの時、ヒートと出逢わなければ。
シャキンの将来は、大きく変わっていた。

202 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:38:47.81 ID:1TQgK50X0
そして最近、都全体を巻き込んだ大騒動の際、シャキンは右手と右脚を失った。
全てはヒートの為だった。
彼女の足手纏いにだけはなりたくない。
何故なら、シャキンはヒートの支えなのだ。

支えが足手纏いになるなど、言語道断。
男の意地で、シャキンはあの苦痛に耐えた。
ただし、支払った代償はあまりにも大きく、昏睡状態の中でシャキンは嘆いていた。
これでは、もうヒートに何もしてあげる事が出来ない。

歩いて付いて行く事も出来ない。
左腕一本だけでは、料理を作る事もままならない。
何より、ヒートが望んでいる事を叶えられないのが悲しかった。
こんなに悔しい想いは、生まれて初めてだった。

もう、自分は何もできない。
愛する者の足手纏いになるのは、この上ない屈辱だった。
意識は無かった。
それだけは分かる。

だが、確かに聞こえたのだ。
あの声が。

「……久しぶりだね、シャキン。
とは言っても、君は覚えていないだろうね。
覚えていたら僕の沽券にかかわる。
再開を喜んで一献酌み交わしたい所だけど、手短に言おう。

自分の為に生きて、僕等の主の為に死ぬ覚悟は出来るかい?
覚悟が出来るなら、君の望みを叶えてあげよう」

204 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:42:08.55 ID:1TQgK50X0
考えた。
何がしたい。
自分は、何を望んでいるのだ。
意識が限りなく透明な液体に近付き、やがて一つの望みだけ残された。

望みは、ヒートの心を満たす事。
それが出来れば、他には何もいらない。
己の命など、通行料としてくれてやる。
だから、一度だけでいい。

ヒートの心を、完全に満たしたい。
それが、残された純粋な望み。

「なるほど、よく分かった。
出来れば、君にはもう少し違った生き方をしてほしかったけど。
出逢ってしまったのだからね、彼女に。
ならば止めはしないさ。

じゃあ、君に返そう、君に与えよう。
また逢う事が出来ないのが、僕は残念で仕方がないよ。
……それでは、さようなら」

その声が消え、眼を覚ますと、シャキンは見知った病院の一室に寝かされていた。
起き上がり、体を見る。
すると、失われた筈の両脚と右腕が、そこには付いていた。
銀色の輝きを放つそれは、決して義手の類では無い。

206 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:46:07.46 ID:1TQgK50X0
機械化によるそれだ。
それは自らの手脚であり、体の一部となる。
その最たる例を、シャキンは間近で見て来た。
右腕に力を込めると、思った通りに動いた。

両脚に力を入れる。
伝わる。
最盛期以上の力が、今のシャキンには与えられている事が、直ぐに分かった。
これなら、叶えられる。

ヒートの望みを。
そして、己の望みを。
ふと、枕元に一枚の紙が置かれているのに気づいた。
手に取って広げてみると、手書きの文字で何かが短く記されていた。

数字と場所だ。
この数字は、恐らく日時。
そして場所は。
この二つが導き出す答えを想像するのは、容易だった。

この日、この時間、この場所。
そこに、ヒートは来る。
嗚呼。
心臓の鼓動が、本人にも信じられないぐらいに高鳴った。

来るべき時まで、まだ僅かながら猶予がある。
ならば、その日までにするべき事は何か。
何かに祈るか。
それとも、ヒートに喜びを伝える為に会いに行くべきか。

208 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:50:07.58 ID:1TQgK50X0
否。
どれも否である。
すべき事はただ一つ。
鍛える。

己の肉体を、より強く、より疾く。
目指すのはヒートよりも上の力。
それだけが、彼女を満たす為にシャキンが出来る唯一の行動。
病室を飛び出し、シャキンは早速鍛錬を始めた。

数年ぶりの鍛錬は、料理人生活が長く続いたシャキンにとって決して楽な日々では無かった。
流した汗は数十リットルを上回り、血反吐を吐いた数は100を優に超える。
過酷な鍛錬の日々は、シャキンの肉体を驚異的な速度で磨き上げた。
永く、辛く、そして永かった。

だが同時に、その永い時間は彼の努力に応える時間でもあった。
肉体は彼の求める力に追いつき、機械化を施していない生身の部分もより強化された。
より強靭に、より堅牢に。
いつしか左腕の筋肉は引き締められ、無駄が一切ないそれへと変貌した。

新たな技術を体得する傍ら、機械化されている部位の鍛錬も怠らなかった。
両脚、そして右腕。
限界までそれを酷使して、体に馴染ませた。
そうして心躍る日々は瞬く間に過ぎ去り、その時が来る時には、文句無しに全てが完成していた。

蹴り技の一つ一つが芸術の域に達し、それを補う技術は神業級。
今の自分はヒートに劣らない。
その自負は、決して自信過剰では無かった。
ヒートと肌を重ね、愛し合ってきたからこそ分かる事もある。

211 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:54:10.52 ID:1TQgK50X0
だからと言って、勝っているとも言い難い。
全ては状況判断こそが物を言う。
一歩でも判断を違えれば、それは死に直結する。
ヒートの拳には愛が溢れているが、容赦も無かった。

これはつまり、シャキンを認めていると言う事に他ならない。
それが堪らなく嬉しかった。
まだ自分はヒートの役に立てる。
満たす事が出来るのだ。

望みは叶った。
その証拠に見よ、ヒートのあの幸せそうな表情を。
恍惚とした、あの少女の浮かべる無垢な笑顔を。
あの笑顔が見たかった。

両脚、そして右腕を持たない自分では、あの笑顔を引き出せなかったかもしれない。
故に、シャキンは感謝した。
この両脚と右腕を与えてくれた者に。
名乗らずとも分かる。

機械化を施せるのは、都中を探しても一人しかいない。
シャキンにもう一度、ヒートと闘う機会を与えてくれた者。
この都を統べ、全ての歯車を支配する王。
その名を―――

―――歯車王と云う。

――――――――――――――――――――

213 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 04:58:06.74 ID:1TQgK50X0
しくじった、とヒートは思った。
あの音速に迫る速度で繰り出されたストレートでは、足りなかったのだ。
仮に音速を越えていたとしても、当てることは難しかっただろう。
そうだ。

シャキンは。
ロマネスク一家元No2。
となれば、使える技があった。
無音高速戦闘の中でも最高峰の、ロマネスク一家No2にだけ伝えられる技。

―――"クレイドル"。

まるでこの時を待っていたかのように、シャキンはこのタイミングでそれを使った。
蝶が舞う様にヒートの拳を避け、最小限の動きで音も無く背後に回り込む。
直後、ヒートの背を、背骨が折れるほどの衝撃が襲った。
的確に鎧の保護がない腹の後ろを狙われ、頼みの綱はヒートの背筋の強さだけ。

幸いだったのはその強さが、背骨の破壊を防いだことだ。
だが不幸にも、蹴り飛ばされた方向に障害物が存在した。
彼等の戦いを誰よりも先に、誰よりも間近で見ていた物がそこにはあった。
石造りの噴水。

腕甲を顔の前で交差させ、衝撃に備える。
ヒートが激突した噴水は、呆気なく砕け散った。
破壊された噴水は四方八方に水を撒き散らし、辺り一帯は水浸しになる。
シャキンとヒートにしてみれば、火照った体が少し冷える程度だ。

215 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:01:06.59 ID:1TQgK50X0
噴水に溜まった水に落下したヒートは、素早く立ち上がる。
皮膚に付いていた水滴は、瞬く間に蒸発した。
鈍い痛みが腰に走る。
この程度なら、まだ余裕がある。

追撃を掛けて来たシャキンを見て、口元に笑みを浮かべた。
力技なら、まだこちらに分がある。
疾さではシャキンに勝てない。
ならば力押しだ。

水面を思い切り叩きつけ、高々と水が巻き上げられた。
砲弾が着弾したかのように上がった水柱は、シャキンの動きを正確に伝える為。
そして、それに従って狙いを定めて左回し蹴りを放った。
だが返って来たのは、骨を砕く音でも肉を抉る音でもない。

ノハ;゚ー゚)「……ちっ、もう限界かよ」

金属が砕ける音だ。
そう。
左脚の脚甲が、迎え撃ったシャキンの蹴りに堪えかね遂に壊れたのだ。
が、まだもう一方がある。

薄れゆく水飛沫の向こうに、シャキンがいる。
受け止めてくれる男がいる。
理解してくれる男がいる。
愛する男がいる。

218 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:04:06.32 ID:1TQgK50X0
まだ、まだ、まだ。
まだ、終われない。
脚甲の残るもう片方の脚で、続け様に蹴りを見舞う。
それもまた防がれ、砕けた。

それらは足場、つまりは支えにどれだけの負担が掛っていたのかを雄弁に語り、役目を終えて散った。
素足になってしまったヒートではあるが、これは仕方がない。
蹴り技の威力は、シャキンの方が格上だったのだ。
おまけにこちらの脚甲は、素材は確かに最硬度を誇る物だが、酷使に酷使を重ねた一品。

砕けるのは必至と言えた。
だが、もう脚甲はいらない。
残りの人生で、脚甲や鎧に頼る事は無く、使う事も無いからだ。
これが最後なのだから。

そう思った刹那、ヒートは垣間見た。
己の求めた強さの、その真の意味を。
砂塵の都で見た、人の弱さ。
あれを忌み嫌い、ヒートはその対の存在である強さを求めた。

戦場をさまよい続け、探し続けた。
だが、"強さの意味"だけは分からなかったのだ。
長年の疑問が、今、氷解した。
ヒートの思う強さ、ヒートの目指す強さとは。

見捨てる事が弱さなら、守る事が強さ。
裏切ることが弱さなら、信頼するのが強さ。
諦める事が弱さなら、抗う事が強さ。
逃げ出す事が弱さなら、立ち向かう事が強さ。

220 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:08:06.76 ID:1TQgK50X0
何かに奪われる事が弱さなら、何かを奪う事が強さ。
何かに変えられてしまう事が弱さなら、変えない事が強さ。
誰にも壊させない、犯させない、邪魔させない。
強さとは、敗北とは即ち―――

―――己の望む、あるがままであり続ける事こそが、強さ。
     それが守れない時が、敗北なのだ。

例えば、三流の拳法家が一流の拳法家に勝負なり試合なりで負けたとする。
その者は勝利を奪われ、己の望む姿である事が出来なくなった。
彼は勝利を見捨て、裏切り、諦め、背を向けて逃げ出したのだ。
これが弱さだ。

その一方で。
勝利した一流の拳法家は、勝利を奪い、己の望む姿に近づくことが出来た。
だが彼の目指す、"最強"にはまだ足りない。
彼の求める最強とは、生涯誰にも負けない事。

勝利して、勝利して、只管に勝利し続ける事。
老いても、病に冒されても、それは続く。
そんな事は実現不可能だと分かっていても、彼は求め続ける。
求め続ける事を諦めない、それもまた、一つの強さだ。

ごく普通に家庭を持ち、何一つ不自由なく、何の問題も無く一生を終える。
ヒートが求めるあるがままとは、そう云った類の物だ。
少しの努力で手に入りそうな、そんなささやかな望み。
直ぐにでも手に入りそうなその望みは、遠い。

223 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:12:05.85 ID:1TQgK50X0
平凡でもいい。
平穏な日常を、シャキンと過ごしたい。
それだけ。
本当に、それだけだった。

その為には、もっと互いを知らなければならず、自分の強さを認識する必要があった。
肌を重ね合うのは確かに気持ちがいいし、心が不思議な物で満たされる。
しかし、それとこれでは満たされる物が違う。
同じ茶でも、紅茶と緑茶では違う様に。

紙一重で違うのだ。
こうして得られるのは、肉体的、精神的な疲労と満足感。
これだけは、他では決して手に入らない。
―――闘争本能。

雄同士が戦うのは、確かに分かる。
あれは遺伝子に刷り込まれた、生物としての本能だ。
では、こうして男女が闘うのは何故か。
口頭でそれを語るとなると、様々な意味を込めてこうとしか言えない。

"深い次元で理解する為"

この一言に尽きる。
ボクサーが全力で戦い合った後、熱い抱擁を交わすのと同じ。
一万、いやさ一億の薄っぺらな言葉を並べるより、一発の拳。
内なる感情を表現するのに、言葉ではあまりにも拙く、そして少ない。

225 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:15:29.69 ID:1TQgK50X0
想いを込めた攻撃に勝る言葉など、この世に在りはしない。
料理も同じだ。
我が子の作る料理の味は、お世辞にも美味いとは言えない。
だが、別の次元、つまり心で感じ取れる美味さが確かに在る。

そして、己の強さを認識しない限り、ヒートは納得しない。
我儘を貫き通せる強さ。
残されたのは、それだけだった。
この強さが証明されれば、ヒートはこの歯車から解放される。

―――決着の時が近付いているのを、ヒートはひしひしと感じ取っていた。
素足のまま、しかも足場の悪い条件から、ヒートは腕甲で護られた右の拳をシャキンに向かって繰り出す。
踏み込みが甘い。
上半身の攻撃は、踏み込みが大きく関係する。

棒立ちのままの状態で、脚に一切の力を込めないでまともな攻撃が繰り出せるか否かと問えば。
答えは否。
不十分な威力の攻撃しか繰り出す事が出来ない。
ヒートの足場は、依然として噴水の中だ。

僅かにバランスを崩しても尚放たれた拳を、シャキンの左脚が素早く捌く。
しかし、ここで予想外の出来事が起きた。
脚甲の爪先の一部が吹き飛んだのだ。
予想外の出来事に、シャキンも目を見開いた。

この機を逃さず、ヒートは噴水から後方に向かって跳躍してそこを脱する。
残された鎧は、腰当てと腕甲、胸当てのみ。
シャキンの被害は脚甲の一部が削れただけだ。
体勢を立て直した両者は、静かに息を吸い込んだ。

227 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:19:08.16 ID:1TQgK50X0
ヒートは両拳をゆっくりと固め、腰を低くし、最高威力の一撃を狙う。
シャキンはクラウチングスタートの様な体勢を取り、最速の一撃を狙う。
この時、二人は気付いていなかった。
二人の戦いの行方を、100人を超える人間が固唾を飲んで見守っている事に。

周囲の建物の窓から身を乗り出す者。
路地裏から覗き見る者。
双眼鏡を使って、遠方より見る者。
中には、電話で話を聞きつけてやって来た者までいた。

年老いたある者は、懐かしい映像を思い出していた。
和の都で行われた、矢吹丈対ホセ・メンドーサの試合。
あの壮絶極まる、芸術的な男同士の戦いの映像が、年老いた彼の眼には今でも焼き付いて離れない。
当時見た試合の再現、いや、それ以上の戦いが目の前にはあった。

またある者は、懐かしい気持ちを思い出していた。
昔、ヒーローに憧れた時分に持っていたあの気持ち。
自分もいつかは、ああなりたい。
その直向きな気持ちは、成長すると共に忘れ去り、消え去ったと思っていた。

だが違ったのだ。
あの気持ちは消えてなどいない。
忘れていただけ。
まだ、残っている。

ノパー゚)

(`・ω・´)

230 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:23:09.69 ID:1TQgK50X0
風が、静かに流れた。
優しい風。
それが運んだのは、ひんやりとした夜の空気。
そして、戦いの合図。

刹那。
二人の内どちらが先に動いたのか、はっきりと視認出来た者は一人もいなかった。
両者の立ち位置の丁度中間に出現したのが見えた時には、ヒートの拳をシャキンの脚が受け止めている。
これでは先程の繰り返しではないか。

と、思った者は誰もいない。
受け止めたシャキンの脚を払い除け、ヒートの素足がシャキンの腹部に命中した。
繰り出されたその一撃は、シャキンの体を50メートル後方にある建物の屋上にまで蹴り飛ばした。
これで、脚甲の借りはチャラだ。

この戦いで初めて、シャキンにダメージらしいダメージが与えられた。
屋上の淵にめり込んだシャキンが、両脚の力を使ってそこから脱する。
30メートル程下に着地して、それと同時に信じがたい速度で飛び蹴りが繰り出された。
すぐ横を弾丸の様な勢いで通り過ぎたシャキンは、ヒートのすぐ背後に"右脚"を使って急制動を掛ける。

両手を地面に付き、両脚をこちらに向け、両腕に力を込めて蹴り出す。
交差させた腕甲で防いで弾き、叩きつける様にして右の拳をシャキンに向かって振り下ろした。
これを素手で防げば、間違いなくその手は破壊される。
躊躇いなく右手の腕甲で防御したシャキンの判断は、実に的確だった。

問題があるとすれば、その体勢が低すぎた事だけ。
反撃には些か問題のある体勢だ。
容赦なく、今度は左の拳が振り下ろされる。
またもや右手で防ぎ、そして―――

232 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:26:12.53 ID:1TQgK50X0
―――シャキンの右手が砕けた。

ガラスが砕ける様な透き通った音と共に、シャキンの右手の手首から先が消失する。
評価すべきは、ヒートの攻撃を二発も受け止められた腕甲の丈夫さ。
付け加えて、それで生じた一瞬の隙に体勢を立て直して脱出したシャキンの疾さ。
そしてそこから、怯むことなく放たれた回し蹴りの威力の高さだ。

回し蹴りはヒートの左の腕甲の上に直撃して、そこに大きなヒビを入れた。
脚を引き戻して、クレイドルの体勢に―――

ノハ;゚ー゚)「捕まえた!」

―――入ろうとして、阻止された。
戻しかけた足首を掴み、そこに力を込める。
この状態なら、クレイドルは使用できない。
捕まえてしまえばこちらの物、とは思わない。

死角がないと思われがちだが、体勢と呼吸さえ整わなければクレイドルは使用できないのだ。
足首を掴んだその手を振り上げ、鞭を振り下ろすかのようにしてシャキンを地面に叩きつけた。
だが、流石はシャキン。
空いた方の脚と右腕を巧みに使って、その衝撃を完全に受け止めた。

掴まれた脚が、有り余る衝撃の影響でヒートの手を離れた。
その脚を使って、"膝まで埋まった"脚を引き抜く。
そして、素早くクレイドルの体勢に入る。
理想的な脱力、脚の配置、呼吸、重心、全てが整う。

234 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:30:12.44 ID:1TQgK50X0
無音。
そして、高速。
どこまでも、どこまでも疾く。
一陣の風が、そこに生まれた。

ヒートの正面。
向い合って、笑い合う。
ヒートは拳を突き出し、シャキンも手首から先を失った腕を突き出した。
ぶつかり合えば、当然シャキンの右腕は失われる。

案の定、右腕の機械化された部分が脆くも破壊されたが、これでいい。
右腕を犠牲にしてでも、この速度から繰り出す蹴りはそれ以上の価値がある。
渾身の力を込めた、右の踵落とし。
拳を突き出した体勢で、なお且つ腕を破壊して生まれた隙の全ては、この攻撃を回避させない為にあったのだ。

空気を切り裂き、音を置き去りにした踵落とし。
ヒートは、避ける素振りすら見せない。
不可能だと知っているからだ。
これで、終わってしまうのか。

―――直後、肉を切り、骨を断つ音が響いた。

ヒートは、確かに攻撃を受けた。
そこまではいい。
問題だったのは、シャキンが狙った場所だ。
狙いは、ヒートの左腕。

腕甲の装着された肘から先が、ボトリと地面に落ちる。

236 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:34:06.81 ID:1TQgK50X0
ノハ;゚ー゚)「……へ、へへっ。
     随分、優しいな」

鋭利な刃物で切られたかのような切断面から、思い出したかのように血が滲み出す。
素早く脇の下に力を入れて動脈を締め付け、止血を始める。
狙おうと思えば、ヒートの頭も狙えたのに。
何故、とはあえて問うまい。

(;`・ω・´)「君の美しい顔に疵をつけるのは、僕には無理だよ」

本心からそう言ったのだと分かる。
シャキンは優しい男なのだ。
底なしに優しいから、こうして付き合ってくれている。
だから、ヒートは惚れたのだ。

ノハ;゚ー゚)「へっへへ、照れるなぁ。
     お前にそう言われると、なんかこう、胸の奥が気持ちよくなる。
     ところで、何か縛る物は無いか?
     このままじゃ、ちょっとあれだからさ」

辺りを見渡し、適当な物を探すが、これと云って何もない。
このままでは、戦いに支障が出る。
ふと、眼に留まる物がある事に気付いた。
あれは、ヒートが纏っていたローブだ。

まるで二人の戦いを特等席から見るように、それは直ぐ近くの街灯に引っ掛かっていた。
風で何処かに飛んで行ったと思っていたが、何はともあれこれを使わない手は無い。
街灯に歩み寄り、片手で街灯を折り曲げる。
身長の低いヒートが街灯の上に引っ掛かったローブを取るには、こうするしかなかったのだ。

238 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:38:07.19 ID:1TQgK50X0
永い間着古したそのローブを左腕に強く巻きつけ、止血を完了させる。
完全な止血では無いので、油断はできない。

ノハ;゚ー゚)「これでいい。
     さぁ、続きだ!
     続きをおっぱじめるぞ!」

全身に感じる、凄まじい疲労感。
随分永い間、この感覚を忘れていた。
満身創痍まで、後僅か。
ぱちぱちと音を立て、心の炎は燃えている。

完全燃焼の時は、すぐそこだ。

(;`・ω・´)「あぁ、まだだ!
      まだ、終われない!」

体中で感じる、この満足感。
久しぶりの心地いい感覚に、笑みを禁じえない。
それに浸るのは、もう少しだけ先延ばしにしよう。
弾けるような音を立て、心の焔は燃えている。

完全燃焼の時は、もうすぐだ。

ノパー゚)

(`・ω・´)

240 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:42:06.61 ID:1TQgK50X0
―――思えば、二人は似た者同士だったのかもしれない。
親の温もりを知らず。
血の繋がりのない家族の温もりに恵まれ。
力で進む事しかなかった。

弱さに負けたくない一心で、強さを求めたヒート。
その想いは強く、真っ直ぐで、曲がる事を知らない。
強さを証明する為には、目の前の壁を越える必要がある。
目の前の壁の正体は望みその物。

望みで作られた壁を越えなければ、望む物は手に入らないと云う矛盾。
この壁を越えれば、強さの証明となる。
そうしなければ、この都から外に行く事に納得が出来ない。
確かな強さを感じてから、この都を後にしたいのだ。

単なる我儘。
そうだ。
これは、我儘だ。
その我儘に、シャキンを付き合わせているにすぎない。

すまない、と思う。
だが同時に、いや、それ以上に感謝の言葉が溢れ出る。
こんな我儘に付き合ってくれて、ありがとう、と。
だから、その気持ちをしっかりと受け止め、決して失望させない。

身寄りのない自分を迎え入れてくれたロマネスクに報いる為に、強くある事を求めたシャキン。
その信念は固く、真っ直ぐで、揺るぐ事を知らない。
己の認めたこの女性に、命を懸ける事に躊躇いは感じない。
全力で己の決めた鉄則に、忠実に生きられればそれでいいのだ。

243 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:46:06.40 ID:1TQgK50X0
決めた鉄則は、ただ一つ。
満たす事。
ヒートが望む事、願う事、求める事。
それら全てを満たす。

その手段は、これしかない。
倒し合い。
ヒートが所望するのは、全力を出し切っての勝利。
そうして得られる、強さの証明だ。

二人の想いは、この瞬間の為に歯車となって廻っていたのだ。
自覚は無いだろうが、これは仕組まれていた事だった。
たった一人の思惑で。
これを企てた者こそ、二人の人生に大きく関係している、この都の王。

全ては、歯車王の掌の上で起こった出来事にすぎない。
ヒートの基となる遺伝子情報が流出した事ですら、そうなのだ。
だが、仮にそれを知ったとしても、二人は止まらない。
むしろ感謝しても良いと思っているぐらいだ。

例え歯車の一部であっても、この想いは。
この意地は。
これだけは、本物だ。
自らの意思で作り上げ、自ら考えて手に入れた想いまでは、支配出来まい。

逡巡も戦略も何もない。
本能の赴くまま。
アドレナリンが過剰分泌され、全身の筋肉が膨張する。
今ある全てを、この瞬間に。

245 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:49:06.02 ID:1TQgK50X0
ヒートの拳が。
シャキンの脚が。
宙で激突し、引き戻される。
今度は、鎧の守りのない脚で、ヒートが廻し蹴りを放った。

迎え撃つシャキン。
攻撃を受け止めた脚の脚甲が、嫌な音を上げる。
構うものか。
シャキンの飛び後ろ蹴りが、近距離で炸裂。

が。
ヒートの拳がそれを相殺。
右手の籠手に、大きな亀裂が走った。
それでも、突き進めた。

亀裂は次第に細かく走り。
一息で砕け散ったが。
しかし、ヒートは止まらない。
突き出した拳の威力は下がったが、その拳はシャキンの左肩に命中した。

拳越しに、骨を砕いた感触が伝わる。
シャキンは地面を削りながら後ろに下がったが、倒れない。
今度は、シャキンの番だ。
小さな亀裂の入った脚で、ヒートの右肩に横蹴りを食らわせる。

密度の高い筋肉に守られていても、シャキンの蹴りはそれをも砕く。
ヒートの得意とする上半身からの攻撃は、今の一撃で大きく制限が掛けられた。
肩が砕けた状態では、満足な攻撃は望めない。

247 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:52:14.13 ID:1TQgK50X0
ノハ;゚ー゚)

(;`・ω・´)

二人は、望んでいた。
この夢の様な時間が、いつまでも続けばいいのにと。
だがそれは決して叶わぬ望み。
戦いに始まりがあれば、終わりもある。

永遠など、この世には無い。
戦いの果てに残るのは、勝者と敗者。
勝ちたい。
目の前の愛する者に、勝ちたい。

シャキンの蹴りがヒートの腹部に命中する。
ヒートの拳がシャキンの腹部に突き立つ。
同時に吐血。
苦悶の声を上げず、代わりに雄叫びを上げた。

嗚呼。
これが戦い。
これが強さ。
これが、二人の終焉。

その様子を見守る観衆達は、もう理性を保てなかった。
立っていなかった者は、一人残らず立ち上がった。
目を逸らす者は誰もいない。
この真っ直ぐさから目を逸らそうものなら、残りの人生が糞の様に感じてしまうからだ。

248 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 05:56:09.48 ID:1TQgK50X0
誰が最初、とは言わない。
少なくとも、同時複数にそれは起こった。
それは場違いとも思える行動だった。
だが、感動を覚え、感銘を受けた観衆達にはこうする事しか出来ない。

―――歓声、拍手。

それすらも、二人には届いていなかった。
二人の耳に聞こえるのは、相手の情報だけ。
例えば息遣い。
例えば、その鼓動。

熱が鼓動を早め。
心臓の鼓動が高鳴り。
心が、焼ける様に熱くなる。
二人の情報は歯車となり、二人の心をより加速させる。

壮絶な殴り合い、蹴り合いは十数分間も続いた。
ヒートもシャキンも、傷を負っていない場所を探すのが難しい状態になった。
腕には傷が滲み、皮膚の下は内出血を起こし、その下にある骨はヒビが入っている。
二人とも息を切らして、肩で息をしている。

呼吸を整える暇があれば、兎に角攻撃した。
怯む暇があったら、攻撃した。
シャキンの脚甲は限界寸前で、攻撃に用いるのは不可能だった。
それどころか、その体を支えるのですら容易ではない。

249 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 06:00:12.85 ID:1TQgK50X0
有利かと思われたヒートも、シャキン同様ボロボロになっていた。
両脚は震え、立っているのもやっとといった状態である。
もう、二人の体力は限界を越えていた。
荒い息をする二人は、悟った。

次の一撃で、全てが終わると。

ようやく。
ようやく、終わりが見えて来た。
終わりは、すぐそこに。
目指すゴールが、そこにあるのだ。

文字通り、二人は手を伸ばした。
ヒートは右手。
シャキンは左手。
人差し指から、順に指を折り曲げて拳を握り固める。

ゆっくりと。
二人は歩み寄る。
その様子はとても闘争の最中。
決着の直前とは思えないほどに落ち着き払っていた。

構えも、重心も関係なく。
ヒートが拳を腰だめに構える。

ノハ;゚ー゚)

253 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 06:04:06.21 ID:1TQgK50X0
気も、呼吸法も関係なく。
シャキンが拳を顔の横に構える。

(;`・ω・´)

全身全霊。
この一撃が、最後の一撃。
これで叶う。
どちらか一方の望みが成就され、この勝負は幕を下ろす。

―――そして。

どちらともなく。
その想いを込めた拳を。
目の前の愛する者の顔に向けて。
一気に突き出した。

拳は途中でぶつかり合わず、そのまま宙ですれ違う。
腕が宙で交差した状態になり、拳は遂に顔に到達した。
ずん、と云う鈍い音が鳴る。

ノハ; ー )「ぐっ……」

(;` ω ´)「くっ……」

そのままの状態で、二人は静止。
永い時間が過ぎ、誰もが息を飲んで成り行きを見守る。
その結果、結果は―――

シャキンの拳はヒートの顔に食い込み、ヒートの拳は届く"直前"で止まっていた。

254 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 06:08:09.61 ID:1TQgK50X0
ノハ; ー )「……やっぱり」

ヒートが、擦れる様な声を漏らした。
ずるりとシャキンの拳が、ヒートの頬から落ちる。
頬に食い込んでいたシャキンの拳は、料理人らしく傷だらけでゴツゴツとしていて。
優しさと温もりのある拳だった。

ノハ; ー )「おまえは……
      あたしの、最高の……」

ヒートの瞼がゆっくりと落ちる。
背後からの追い風に身を任せるようにして、ヒートはシャキンに向かって倒れ込む。
シャキンの胸に倒れ込んだヒートに、シャキンも少しだけ凭れかかる。

ノハ; ー )「楽し……かった……なぁ……」

溜息を吐くように、ヒートはそう呟く。
口の端から、赤い血が流れる。

(;` ω ´)「支え……が……先に倒れるわけにはいかな……」

ヒートを胸に抱くシャキンは、軽く咳込み、血を吐き出した。
直後、耐久の限界を越えたシャキンの両脚が、砕けた。

(;` ω ´)「……い」

両脚を失ってバランスを崩したシャキンが、後ろに倒れる。
が、倒れゆく最中、ヒートがシャキンの背後に体を滑り込ませたおかげで、シャキンは後頭部を強打しないで済んだ。
仰向けになったヒートの体の上に、シャキンの体が折り重なる。
我が子を抱く慈母の様に優しい笑みを口元に浮かべるヒートは、手足の一つも動かさない。

256 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 06:12:06.27 ID:1TQgK50X0
違う。
動かせないのだ。
むしろ、口が利け、僅かに動けただけでも奇跡に近かった。
全ては、脳では無く体が勝手に反応した事。

もう、ヒートに意識はない。
同様に、シャキンも意識を失っていた。
起き上がれるだけの力も、労いの言葉を懸ける余力はどこにもないのだ。
精根尽き果てた二人は、そのまま眠る様にして心地よいまどろみに沈んで行った。

果たして、あの瞬間に何が起きたのか。

ヒントは、その攻撃方法にあった。
僅かな微調整が歯車を狂わせるように、シャキンはこの勝負の為にある技を体得していたのだ。
決着が近づくにつれ、熱くなりすぎた人の心には自ずと隙間が生まれる。
その隙間を狙い、なお且つ相手の力をも利用したのが、今回シャキンが切り札として残しておいた―――

―――"クロス・カウンター"。

体力の面でも筋力の面でも劣るシャキンが、ヒートに勝つための手段はこれしかなかった。
事実、この技が成功していなければ先に地に伏せていたのはシャキンだっただろう。
あの時点で、既に両脚は限界を向かえる直前だった。
おまけに左肩に受けた攻撃の影響で、カウンター技でも使わない限り、ヒートにダメージは与えられなかったのだ。

意識は朦朧としていたが、反応と反射に齟齬がほとんどなかった事が幸いした。
二人の勝負は"鉄足"シャキン・ションボルトの勝利で、幕を閉じた。
どこからともなく、救急車のサイレンの音が聞こえて来る。
おそらく、観衆の中の誰かが呼んだのだろう。

                   その日は、とても熱くて涼しい夜だった。

257 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/05/31(月) 06:16:22.16 ID:1TQgK50X0
――――――――――――――――――――

強さを求めた女がいた。
それに応えようとした男がいた。

女は支えを必要とし。
男は女の支えとなる事を望んだ。

だが、男の歯車は一部が欠けていた為、女の望みを叶える事が出来なかった。
想いは空回しをしていたが、それを補う者が現れた。

欠けた歯が補われる事によって、二人の歯車は廻り始めた。
そのおかげで、男は女の望みを叶える事が出来た。

望みを叶えた以上、歯車は廻る意味を持たない。
歯車は回転を緩め、ゆっくりと停止した。

しかし止まったのは、二人の歯車だけ。
二人の歯車をも巻き込む巨大な歯車は、未だその回転を止めていない。

それを廻す者は、ただ一人。

終焉の時は、刻一刻と迫っている。
巨大な歯車が最後に導くのは、如何なる終焉か。

それを知るのは―――

Episode01 -Heat beat hearts-
        End


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